『平家物語』の原文・現代語訳40:同じき二十九日の小夜ふけ方に~

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『同じき二十九日の小夜ふけ方に~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

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『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

[古文・原文]

西光が斬られの事(続き)

同じき二十九日の小夜ふけ方に、入道相国の西八条の亭に参つて、「行綱こそ申すべき事あつて、これまで参つて候へ」と、案内を云ひ入れたりければ、入道、「常にも参らぬ者の参じたるは何事ぞ。あれ聞け」とて、主馬(しゅめ)の判官盛国を出されたり。「全く人伝(ひとづて)には申すまじき事なり」と云ふ間、入道、「さらば」とて、みづから中門の廊にぞ出でられたる。

「夜は遥にふけぬらんに、いかに只今、何事ぞ」と宣へば、「昼は人目の繁う候ふ間、夜にまぎれて参つて候。このほど院中の人々の兵具を調へ軍兵(ぐんぴょう)催されし事をば、何とか聞し召されて候ふやらん」。入道、「いさとよ。それは法皇の山攻めらるべき御結構とこそ聞け」と、いと事もなげにぞ宣ひける。行綱近う寄り、小声になつて、「その儀では候はず。一向当家の御上とこそ承り候へ」。入道、「さてそれをば法皇も知ろし召されたるか」。

「子細にや及び候。執事の別当成親の卿の軍兵催され候ひしにも、院宣とてこそ召されしか。康頼が、と申して、俊寛が、かく申して、西光が、とふるまうて」など、ありのままにはさし過ぎて言ひ散らし、我が身は、「暇(いとま)申す」とて出でければ、その時入道大声を以て、侍ども呼びののしり給ふ事おびただし。行綱なまじひなる事申し出でて、証人にや引かれんずらんと恐ろしさに、人も追はぬに取袴(とりばかま)し、大野に火を放ちたる心地して、急ぎ門外へぞ逃げ出でける。

その後入道、筑後守貞能(さだよし)を召して、「当家傾けうとする謀叛の輩(ともがら)こそ、京中に満ち満ちたんなれ。急ぎ一門の人々にも触れ申せ。侍ども催せ」と宣へば、馳せ廻つて披露す。右大将宗盛・三位中将知盛・頭の中将重衡・左馬の頭行盛以下の一門の人々、甲冑弓箭(かっちゅうきゅうせん)を帯してさし集ふ。その外侍どもも雲霞の如くに馳せ集つて、その夜の中に入道相国の西八条の亭には、兵六七千騎もあるらんとぞ見えし。

[現代語訳・意訳]

西光が斬られの事(続き)

同じ日(治承元年5月29日)の夜更け、行綱は西八条にある入道相国(平清盛)の屋敷に参上して、「この行綱が申し上げたいことがあり、ここまで参上致しました」と、案内の申し入れをすると、入道は、「普段参らない者が来たのはなぜなのか。用件を聞いてこい」と、家来である主馬判官・盛国をやった。だが行綱は「とても人づてに申し上げることの出来る話ではございません」と言い張るので、入道も「それならば仕方ない」と、自ら中庭に通じる長廊下にまでいらっしゃいました。

「夜はすでに更けているのに、どうして今すぐでないといけないのか。何事だ」とおっしゃると、「昼は人目が多くて目に付きますので、こうやって夜陰に紛れて参りました。近頃、後白河の院中の人たちが武具を準備したり、兵員を集めたりしていることは、どのようにお聞きになっていますか」と答えた。入道は、「それは、法皇が強訴する比叡山を攻めるための準備だと聞いているが」と、何でもないことのようにおっしゃった。行綱は近くに寄り、声を小さくして、「そうではないのです。すべては、入道様の御一家に関係する準備なのだと私は承っています」と言った。入道は、「ところで、そのことは法皇様もご存知なのか」と聞かれた。

行綱は「法皇様は子細をご存知です。執事の別当・成親卿が軍勢を集める時、院宣を出してお集めになられたということですから。康頼がこう申して、俊寛はこのように申して、西光はこのように振る舞った」などと、ある事無い事を言い散らして、行綱が「私はお暇させて頂きます」といって退出すると、その時の入道は大声で侍どもを呼びつけて騒いだが、その様子は並大抵のものではなかった。行綱は都合の悪いことを話してしまって、証人として後で呼び付けられることも恐ろしくて、誰も追いかけて来ていないのに、走れるように袴を絡げ上げて、原野に火を放って燃え上がっている中を逃げるような気持ちになって、急いで門の外へと逃げ出したのである。

その後、入道は筑後守・平貞能を呼び出して、「当家を滅ぼそうとする謀反者が、京中に溢れているぞ。急いで一門の者に触れを出せ。侍の軍勢を集めろ」と命令して、平貞能はその命令知らせるために駆け回った。右大将・宗盛、三位中将・知盛、頭中将・重衡、左馬頭・行盛以下、一門の人々は甲冑をまとい弓矢を持って集結してきた。その他の侍たちも雲霞の如く馳せ集まり、その夜の内に、西八条にある入道邸には、兵力が6000~7000騎も集まったように見えた。

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