『平家物語』の原文・現代語訳42:西光法師、この由を聞きて、我が身の上とや思ひけん~

13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『西光法師、この由を聞きて、我が身の上とや思ひけん~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

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『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

[古文・原文]

西光が斬られの事(終わり)

西光法師、この由を聞きて、我が身の上とや思ひけん、鞭を打つて急ぎ院の御所へ参る。六波羅の兵ども、道にて行き逢ひ、「西八条殿より召さるるぞ、きつと参れ」と云ひければ、「これは奏すべき事あつて、院の御所へ参る。やがてこそ帰り参らめ」と云ひければ、「憎い入道めが。何事をか奏すべかんなるぞ」とて、しや馬よりとつて引落し、中にくくつて西八条殿へさげて参る。日の始より根元与力(こんげんよりき)の者なりければ、殊に強う縛めて(いましめて)、御坪の内にぞ引据ゑたる。

入道相国大床に立つて、暫しにらまへ、「あな憎や、当家傾けうとする謀叛の奴がなれる姿よ。しやつ此処(ここ)へ引き寄せよ」とて、縁のきはへ引き寄せさせ、物履きながら、しや顔(つら)をむずむずとぞ踏まれける。「本より己らが様なる下臈(げろう)のはてを、君の召し使はせ給ひて、なさるまじき官職をなし賜び(たび)、父子ともに過分のふるまひをすると見しに合はせて、過たぬ天台座主流罪に申し行ひ、あまつさへ当家傾けうとする謀叛の輩(ともがら)に与して(くみして)げるなり。ありのままに申せ」とこそ宣ひけれ。

西光本より勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も変ぜず、悪びれたる気色もなく、居直り、あざ笑つて申しけるは、「院中に近う召し使はるる身なれば、執事の別当成親の卿の軍兵催され候ふ事にも、くみせずとは申すべきやうなし。それはくみしたり。但し、耳に当る事をも宣ふものかな。他人の前は知らず、西光が聞かんずる所にては、さやうの事をばえこそ宣ふまじけれ。そもそも御辺は故刑部卿忠盛の嫡子にておはせしが、十四五までは出仕もし給はず、故中の御門の藤中納言家成の卿の辺に立ち入り給ひしをば、京童は、例の高平太とこそ云ひしか。しかるを保延の頃、海賊の張本三十余人搦め進ぜられたりし勧賞(かんじょう)に四品(しほん)して、四位の兵衛の佐(ひょうえのすけ)と申ししをだに、人皆過分とこそ申し合はれしか。殿上の交わりをだに嫌われし人の子孫にて、今太政大臣にまでなりあがつたるや過分なるらん。もとより侍ほどの者の、受領・検非違使に至る事、先例法例なきにしもあらず。なじかは過分なるべき」と、はばかる所もなう云ひ散らしたりければ、

入道相国あまりに腹を据ゑかねて、しばしは物をも宣はず。ややあつて入道宣ひけるは、「しやつが首左右なう斬るな。よくよく糺問(きゅうもん)して事の子細を尋ね問ひ、その後河原へ引出して首(こうべ)を刎ねよ」とぞ宣ひける。松浦太郎重俊承つて、手足を挟み様々にして痛め問ふ。西光本より争はざりける上、拷問は厳しかりけり。白状四五枚に記せられて、その後、「口を裂け」とて口を裂かれ、五条西の朱雀にして終に斬られにけり。

嫡子加賀守師高(もろたか)は、解官(げかん)せられて尾張の井戸田へ流されたりしを、同じき国の住人小胡麻(おぐま)の郡司維季(これすえ)に仰せて討たせらる。次男近藤判官師経(もろつね)をば、獄より引出でて誅せらる。その弟左衛門尉師平(もろひら)、郎等三人をも、同じう首を刎ねられけり。これ等は皆云ひがひなき者の秀でて、いろふまじき事をのみいろひ、過たぬ天台座主流罪に申し行ひ、果報や尽きにけん、山王大師の神罰冥罰を立ち所にかうぶつて、かかる憂き目に逢へりけり。

[現代語訳・意訳]

西光が斬られの事(終わり)

西光法師はここまでの経緯を聞いて、自分の身も危ないのではないかと思い、急いで鞭を振るって院の御所に参上した。六波羅の武士たちと途中の道でばったり会ってしまい、「西八条殿がお呼びだぞ。早くこちらに来い」と言われたので、西光は「後白河法皇に申し上げることがあって、院の御所に参っているのだ。用事が終わればすぐに西八条殿に参上する」と返したが、「憎たらしい坊主め、何を法皇に申し上げるつもりなのか」と馬より引きずり落として、宙にくくりつけたままで引き下げて西八条殿に行った。西光は、事の始めから謀叛騒動の協力者であるだけに、特別に強く縛りつけて、庭に引き出していった。

入道相国は、大床に立ってしばらく西光を睨みつけ、「あぁ、憎たらしい奴だ。我が平家一族を滅ぼそうとして謀反を企てた奴のなれの果てだ。こいつをここへ引き寄せろ」と、縁側の際まで引き寄せさせて、草履を履いたまま、西光の顔をぐいっと強く踏みつけた。「もともとお前みたいな卑しい下臈が、宮中で法皇様の近くで仕事に預かり、生まれから無理だと思われる高い官職にも就かせてもらった上に、親子共に専横な振る舞いをするかと思えば、無実だった天台座主を流罪にして、更に当家を滅ぼそうとする謀反人に協力するとはな。ありのままに話せ」とおっしゃられた。

西光は元から非常に豪胆かつ精強な男なので、少しも顔色を変えることなく、悪びれた姿も見せずに逆に居直った。入道を嘲り笑いながら、「私は院の近くで奉仕させて頂いている身だから、執事の別当・成親大納言が軍兵を集めていることに協力しなかったわけではない。それには味方をしました。しかし、耳障りなことをおっしゃいますね。他の者の前なら知らないが、この西光が聞くところでは、あなたもそのようなことを言える立場ではありますまい。そもそもあなたは、故刑部卿忠盛の嫡子ですが、14~15歳まで朝廷に出仕されることもなく、故中御門藤中納言家成卿の近くに出入りしていたので、京童は例の「高平太」と言っていたのではないか。その後に保延(崇徳天皇の治世)の頃に、海賊の首謀者30余人を捕らえて、その功績によって四位に叙せられて、四位の兵衛の佐に昇進しただけでも、人々は皆、身分に過ぎたことだと申し上げていたではないか。殿上の交際からも外されていた人(差別されていた武士)の子孫でありながら、今、太政大臣に上がっておられる事は、それこそ身分不相応な専横ではないのか。もともと私のような侍が、受領・検非違使に任じられることは先例・慣例としてないことではない。どうして身分不相応などと言われなければならないのか」と、入道を憚ることなく言い放った。入道相国は、あまりの物言いに頭に血が上って、何も言い返せなかった。

暫くして入道は、「こいつの首は簡単には斬るな。詳しく詰問して謀叛計画の詳細を明らかにし、その後で河原に引き出して首を刎ねよ」とおっしゃられた。松浦太郎重俊は命令を受けて、手足を縛り、さまざまな拷問を加えながら尋問した。西光は初めから争うつもりがなかったが、その拷問を苛烈であった。拷問によって、自白の書類を4~5枚書かれて、その後で口を裂いてしまえとなり、口を引き裂かれて、五条西の朱雀で終に斬られてしまった。嫡子・加賀守師高は職を解雇され、尾張の井戸田に流されていたが、同国住人の小胡麻郡司維季に殺害された。禁獄中の次男・近藤判官師経も牢獄から引き出されて処刑された。

その下の弟・左衛門尉師平とその家来の三人も同じように首を刎ねられた。これらの出来事は、みな取るに足らない者が世に出てきて、関わるべきでないことに関わり、無罪の天台座主を流罪にしたりもして、結果、生き残る運が尽きてしまったのだろう。山王権現の神罰・仏罰を立ち所に受けることになり、このような酷い目に遭わされたのである。

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