『枕草子』の現代語訳:43

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

78段(続き)

皆寝て、つとめて、いととく局におりたれば、源中将の声にて、「ここに草の庵やある」と、おどろおどろしく言へば、「あやし。などてか、さ人げなきものはあらむ。玉の台(うてな)と求め給はましかば、答えてまし」と言ふ。「あなうれし。下にありけるよ。上にて尋ねむとしつるを」とて、昨夜ありしやう、

「頭の中将の宿直所(とのいどころ)に、少し人々しき限り、六位まで集りて、よろづの人の上、昔、今と語りいでて、言ひしついでに、『なほこの者、無下に絶え果てて後こそ、さすがに、えあらね。もし言ひ出づる事もやと待てど、いささか何とも思ひたらずつれなきも、いとねたきを、今宵あしともよしとも定めきりてやみなむかし』とて、皆言ひ合せたりしことを、『只今は見るまじ、とて、入りぬ』と、主殿司(とのもづかさ)が言ひしかば、また追ひ帰して、『ただ、手をとらへて、東西せさせず乞ひ取りて、持て来ずは、文を返し取れ』と、戒めて、さばかり降る雨の盛りに、遣りたるに、いと疾く帰り来たり。『これ』とて、さし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるか、とて、うち見たるに、あはせてをめけば、『あやし、いかなる事ぞ』と、皆、寄りて見るに、『いみじき盗人を。なほ、えこそ思ひ捨つまじけれ』とて、見騒ぎて、『これが本、付けてやらむ。源中将、付けよ』など、夜ふくるまで、付けわづらひてやみにしことは、ゆく先も必ず語り伝ふべきことなり、などなむ、皆定めし」など、いみじうかたはらいたきまで言ひ聞かせて、

「今は、御名をば、草の庵となむ、付けたる。」とて、急ぎ立ちたまひぬれば、「いとわろき名の、末の世まであらむこそ、口惜しかなれ」と言ふほどに、修理の亮則光(すりのすけのりみつ)、「いみじきよろこび申しになむ、上にやとて、まゐりたりつる。」と言へば、「なんぞ。司召(つかさめし)なども聞えぬを、何になり給へるぞ」と問へば、

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[現代語訳]

78段(続き)

みんなが寝てから、翌朝(早朝)、まだ朝早いうちに局(つぼね)へと下りたところ、源中将の声で、「ここに草の庵という者はいますか。」と大げさな感じで言うので、「おかしな質問ですね。どうして、そのようなみすぼらしい者がここにいるでしょうか。玉の台という者をお求めでしたら、お答えできたでしょうが。」と答える。「あぁ、嬉しい。下の局にいたんですね。上(中宮の御所)に尋ねに行こうとしていました。」と言って、昨夜の状況を、

(宣方)「頭の中将の宿直所に、少しでも見所のある人々であればみんな、六位の者まで集まって、色々な人の噂話を、昔から今に至るまで語り合って、そんな話をしているついでに、(斉信)『やはりこの女は、理不尽に絶好してみたのだが、その後にどうにも気になってしまう。あちらから何か言ってくるのではないかと待っていても、全く何とも思っていないようなつれない態度がとても憎らしくて、今夜、良い女なのか悪い女なのか見極めてやろうではないか』と言って、みんなで話し合ったことを、『今すぐには見ないでおこうと言って、奥に入ってしまった』と主殿司が言ったので、また追い返して、(斉信)『ただ手を捕まえて、有無を言わせずに返事を取ってくるか、持ってこれないなら手紙を返して貰って来い』と戒めて、そのように激しく降る雨の中にもう一度使いに出したところ、すぐに早く帰ってきた。『これです』と差し出したのが、さっき送った手紙なので、返してきたのかと思って見てみると、すぐに大声を上げたので、『何事だ、どうしたことか』とみんなが寄ってきて見ると、(斉信)『たいそうな気持ちの盗人だな。やはり、簡単に思いを捨てて忘れてしまうことができない』と言って、手紙を見て騒いでいたが、(斉信)『この歌の上の句をつけて返そう。源中将、付けてみよ』などと夜が更けるまで、上の句を考え続けて諦めてしまったことは、将来も必ず語り伝えていくべきことだなどという話でみんなは結論を出してしまった。」などと、(聞いているこちらが)とても気恥ずかしくなるまで言い聞かせて、

(宣方)「今、あなたの名前を草の庵というように付けました。」と言って、急いでお立ちになったので、(清少納言)「そんなとても悪い名前が、後世にまで伝えられるのは、情けないことです。」と言うと、修理の亮則光(すりのすけのりみつ)が、「非常に喜ばしいことを申し上げようと、中宮の御所のほうに居るのかと思い、参上したところです。」と言う。「どうしたのですか。司召の話も聞きませんが、何におなりになったのですか。」と質問すると、

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[古文・原文]

78段(終わり)

「いな。まことにいみじううれしきことの昨夜侍りしを、心もとなく思ひ明してなむ。かばかり面目あることなかりき」とて、はじめありけることども、中将の語りたまひつる同じことを言ひて、「『ただこの返事にしたがひて、こかけをしふみし、すべてさる者ありきとだに思はじ』と、頭の中将の給へば、ある限りかうようしてやりたまひしに、ただに来たりしは、なかなかよかりき。

持て来たりしたびは、如何(いか)ならむと、胸つぶれて、まことにわるからむは、せうとのためにもわるかるべし、と思ひしに、なのめにだにあらず、そこらの人の褒め感じて、『せうと、こち来(こちこ)。これ聞け』と、のたまひしかば、下心(したごこち)はいとうれしけれど、『さやうの方に更にえ侍ふまじき身になむ』と申ししかば、『言(こと)加へよ、聞き知れ、とにはあらず。ただ、人に語れとて、聞かするぞ』と、のたまひしになむ、少し口をしきせうとのおぼえに侍りしかども、本付け試みるに、『言ふべきやうなし。殊にまた、これが返しをやすべき』など言ひ合はせ、『わるしと言はれては、なかなかねたかるべし』とて、夜中までおはせし。

これは、身のため、人のためにも、いみじきよろこびに侍らずや。司召(つかさめし)に少々の司得て侍らむは、何ともおぼゆまじくなむ」と言へば、げにあまたしてさる事あらむとも知らで、ねたうもあるべかりけるかな、と、これになむ胸つぶれておぼゆる。この、いもうと、せうと、といふことは、上まで皆しろしめし、殿上にも、司の名をば言はで、せうととぞ付けられたる。

物語などして居たるほどに、「まづ」と、召したれば、参りたるに、このこと、仰せられむとなりけり。「上渡らせ給ひて、語り聞えさせ給ひて、男ども皆、扇に書きつけて持たる」など、仰せらるるにこそ、あさましう、何の言はせけるにか、とおぼえしか。

さて後ぞ、袖の几帳(そでのきちょう)なども取り捨てて、思ひ直り給ふめりし。

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[現代語訳]

78段(終わり)

(則光)「いや。本当に非常に嬉しいことが昨夜ございましたので、(少しでも早くお伝えしたいということで)落ち着かない思いで夜を明かしていたのです。これほど面目の立つ素晴らしいことはなかった」と言って、昨夜起こったことを全て、頭の中将が語ったことと同じことを話して、(則光)「『ただこの返事の内容によっては、今後相手にしないことにする、そういう人間がいたということさえ思わないでおこう』と、頭の中将がおっしゃるので、周囲の人々がある限りの知恵を絞って手紙を送ったのだが、使い者がただ手ぶらで帰ってきたのは、なかなか良かった。

返事を持って帰ってきた時は、どうなるだろうかと胸がつぶれるほど心配で、本当に悪い返事であれば、兄貴分である私にとっても体裁が悪いことになるだろうと思っていた。しかしそんな悪い返事ではなく、そこにいた人々みんなが褒め称えて、『兄貴よ、こっちへ来い。これを聞いてくれ』と言ったので、内心ではとても嬉しかったけれど、(則光)『そういう方面には、付き合いの乏しい身ですから』と申し上げたところ、『意見を述べよとか聞いて理解しろと言っているのではない。ただ、本人に語るべきだと思って聞かせているのだ』と言ってきた。(あなたの兄貴分としては)少し情けない思いがしたけれど、上の句を付けようと試みていると、(人々)『どうにも付けようがない。殊更に、この手紙に返歌をすべきなのだろうか』などと話し合って、『返歌がつまらないと言われてしまっては、逆に悔しいではないか』と言って、夜中まで話し合っていました。

これは、私にとってもあなたにとっても、とても喜ばしいことではありませんか。司召で少々の官位を得たとしても、何とも思わないようなことです」と言うので、本当に大勢の人々が集まって上の句について考えて話し合ったということも知らないで、(下手な返事をすれば)憎たらしい思いをするところだったなと、胸がつぶれるような気持ちがした。この、妹・兄ということは、帝に至るまでみんなが知っていることで、殿上の間でも、官位を言わないで、兄(せうと)と呼ばれていた。

女房たちと世間話をしていると、「すぐに」と中宮様に召し出されたので参上すると、このことについて何かおっしゃられようとしているのだった。(中宮)「帝がいらっしゃってお話をされたのですが、男たちはみんなあの話を扇に書き付けて持っているようです」などとおっしゃられたのは、呆れるような情けないことで、いったい何が私にあんなことを言わせたのかと思われたのだった。

その後、頭の中将も袖の几帳などをやめてしまって、私に対する評価を思い直したようであった。

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