『枕草子』の現代語訳:45

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『里にまかでたるに、殿上人などの来るをも~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

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石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

[古文・原文]

80段

里にまかでたるに、殿上人などの来るをも、安からずぞ、人々言ひなすなる。いと有心(うしん)に、引き入りたるおぼえ、はた、なければ、さ言はむも、にくかるまじ。また、夜も夜も来る人を、何しにかは、「なし」ともかかやき帰さむ。誠に睦ましうなどあらぬも、さこそは来(く)めれ。あまりうるさくもあれば、このたび出でたる所をば、いづくとなべてには知らせず、左中将経房(つねふさ)の君、済政(なりまさ)の君などばかりぞ、知り給へる。

左衛門の尉(さえもんのじょう)則光(のりみつ)が来て、物語などするに、(則光)「昨日、宰相の中将のまゐりたまひて、『妹のあらむ所、さりとも知らぬやうあらじ。言へ』と、いみじう問ひ給ひしに、更に知らぬよしを申ししに、あやにくに強ひたまひしこと」など言ひて、「あることあらがふは、いと佗しく(わびしく)こそありけれ。ほとほと笑みぬべかりしに、左の中将の、いとつれなく知らず顔にて居給へりしを、かの君に見だにあはせば、笑ひみぬべかりしに、わびて、台盤(だいばん)の上に和布(め)のありしを取りて、ただ食ひに食ひまぎらはししかば、中間(ちゅうげん)にあやしの食ひ物やと、人々見けむかし。されど、かしこう、それにてなむ、其処(そこ)とは申さずなりにし。笑ひなましかば、不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思し(おぼし)たりしも、をかしくこそ」など語れば、(清少納言)「さらに、な聞え給ひそ」など言ひて、日ごろ久しうなりぬ。

夜いたく更けて、門(かど)をいたうおどろおどろしう叩けば、何のかう心もなう、遠からぬ門を高く叩くらむと聞きて、問はすれば、滝口(たきぐち)なりけり。「左衛門の尉の」とて、文(ふみ)を持て来り。皆寝たるに、火取り寄せて見れば、「明日、御読経(みどきょう)の結願(けちがん)にて、宰相の中将、御物忌(おんものいみ)に籠り給へり。『妹のあり所申せ。妹のあり所申せ』と責めらるるに、ずちなし。更にえ隠し申すまじ。さなむとや聞かせ奉るべき。いかに。仰せに従はむ」と言ひたる返事は書かで、和布(め)を一寸ばかり紙に包みてやりつ。

[現代語訳]

80段

里の屋敷に退出している時に、殿上人などがやって来ると、穏やかではない噂話を人々は言い合うようだ。私も仏道に帰依して男性を避けて引きこもっているという評判があるわけでも全くないので、そのような噂話を言われても腹は立たない。また、夜も昼もしきりにやって来る人に対して、どうして「いません」などと言って恥をかかせて帰らせられるだろうか。本当に親しく付き合っているわけではない人でも、そのようにしきりに来る人もいるのだ。あまりに煩わしいので、今度退出した所は、どこなのかは人に知らせずに、左中将経房(つねふさ)の君、済政(なりまさ)の君といった親しい人だけがご存知であった。

左衛門の尉の則光がやって来て、雑談などした時に、(則光)「昨日、宰相の中将が殿上にいらっしゃった時、『妹が退出した所を、いくら何でもお前が知らないということはないはずだ。どこなのか言え』と、厳しく尋ねてこられたので、どこか知りませんと申し上げたのですが、無理矢理に話させようとするのです」などと言って、「知っていることを知らないと言って抗うのは、とてもつらいことでした。あやうく笑いを浮かべそうになったのですが、左の中将が、つれない素知らぬ顔をして座っていらしたので、あの方を見てしまうと吹き出してしまいそうだったので、何とか、台盤の上に和布(昆布)があったのを取って、ただそれを食べに食べて誤魔化したのですが、食事の合間に変なものを食べているなと、周りの人々から見られてしまいました。しかし、そのお陰で、あなたがどこにいるのかを言わずに済んだのです。笑ってしまっていたら、今までの苦労が水の泡でした。それで本当に知らないようだと頭の中将がお思いになったのも、(私の隠し方の上手さなのだと)嬉しく思いました」と語るので、(清少納言)「今後も、絶対に教えてはいけませんよ」などと言って、それから日にちがだいぶ経過した。

夜がたいそう更けてから、門をとても強い力で叩く人がいるので、どうしてこんなに遠慮することもなく、広くもない屋敷の門を強く大きな音で叩くのだろうかと思って、人をやって聞かせたところ、滝口の武士だった。「左衛門の尉の」と言って、手紙を持ってきている。もうみんなは寝てしまっているが、明かりを取り寄せて見ると、「明日は御読経の結願の日ということで、そのために宰相の中将が、宮中の物忌で籠っていらっしゃる。『妹の居場所を教えろ』と厳しく責めてくるので、どうしようもありません。もう隠し続けることができません。どこにいるか教えても良いでしょうか。どうですか。仰せの通りに致します」という手紙の文言に返事は書かないで、和布(昆布)を一寸ほど包んで使いの者に持たせた。

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[古文・原文]

80段(終わり)

さて後、来て、(則光)「一夜(ひとよ)は責めたてられて、すずろなる所々になむ、率て(いて)ありき奉りし。まめやかにさいなむに、いとからし。さて、など、ともかくも御返りはなくて、すずろなる和布(め)の端をば包みて賜へりしぞ。あやしの包み物や。人のもとにさる物包みておくるやうやはある。とりたがへたるか」と言ふ。いささか心も得ざりけると見るがにくければ、物も言はで、硯にある紙の端に、

かづきするあまの住家をそことだにゆめ言ふなとやめをくはせけむ

と書きてさし出でたれば、(則光)「歌詠ませ給へるか。更に見侍らじ」とて、扇ぎ返して逃げて去ぬ。

かうかたらひ、かたみに後見(うしろみ)などするうちに、何ともなくて少し仲あしうなりたるころ、文おこせたり。(則光)「便(びん)なきことなど侍りとも、なほ契り聞えし方は忘れ給はで、よそにても、さぞとは見給へ、となむ思ふ」と言ひたり。常に言ふことは、(則光)「おのれをおぼさむ人は、歌をなむ詠みて得さすまじき。すべて、仇敵(あだかたき)となむ思ふ。今は限りありて絶えむと思はむ時にを、さる事は言へ」など言ひしかば、この返事(かえしごと)に、

崩れ夜妹背(いもせ)の山のなかなればさらに吉野の河とだに見じ

と言ひ遣りし(いいやりし)も、誠に見ずやなりにけむ、返しもせずなりにき。さて、かうぶり得て、遠江の介(とおとうみのすけ)と言ひしかば、にくくてこそやみにしか。

[現代語訳]

80段(終わり)

その後、やって来て、(則光)「ある夜には宰相の中将に責め立てられて、でたらめな場所へと連れて行ったりしていました。本気で私のことを非難するので、とても辛かったのですよ。さて、どうして、あの時にどうするのかのお返事をなさらずに、無意味な和布(昆布)の切れ端などを包んで送ってきたのですか。怪しい包み物ですね。人のところにそんな物を包んで送るということが普通ありますか。何か間違えたのですか」と言う。全くこちらの気持ちが分からなかったのだなと憎らしく思い、物も言わずに、硯の中にあった紙の端に、

かづきするあまの住家をそことだにゆめ言ふなとやめをくはせけむ

と書いて簾の外に差し出したところ、(則光)「歌をお詠みになったのですか。絶対に見ませんよ」と言って、その紙を扇ぎ返して帰ってしまった。

このように語り合い、お互いに後見をしたりしているうちに、何というわけでもなく、少し仲が悪くなった時に、手紙を送ってきた。(則光)「不都合なことなどありましても、かつて私と契りの約束を交わしたことはお忘れにならないで、よそにいても、あぁ、あれが則光だなと思うくらいには思っていて欲しいものです」と言ってきた。いつも則光は、「私を良く思ってくれる人であれば、どうか私に歌は詠まないで頂きたい。歌を送ってきたらすべて仇敵と思うことにします。今を限りにして絶交しようと思った時には、歌を詠んで送ってきて下さい」などと言っていたから、この手紙の返事に、

崩れ夜妹背(いもせ)の山のなかなればさらに吉野の河とだに見じ

と詠んで送ったのだが、本当に見ないままになってしまったのだろうか、返事も返して来なかった。この後、則光は五位の冠位を得て、遠江介になったので、仲違いをしたままで終わってしまった。

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