『枕草子』の現代語訳:57

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『五月の御精進のほど、職におはしますころ~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

95段

五月の御精進のほど、職(しき)におはしますころ、塗籠(ぬりごめ)の前の二間(ふたま)なる所を、殊にしつらひたれば、例様(れいざま)ならぬもをかし。

朔日(ついたち)より雨がちに曇り過ぐす。つれづれなるを、(清少納言)「郭公(ほととぎす)の声、尋ねに行かばや」と言ふを、我も我もと出で立つ。賀茂(かも)の奥に、なにさきとかや、七夕の渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞えし、そのわたりになむ、郭公鳴くと、人の言へば、「それは蜩(ひぐらし)ななり」と言ふ人もあり。そこへとて、五日の朝(あした)に、宮司(みやづかさ)に車の案内言ひて、北の陣より、五月雨(さみだれ)はとがめなきものぞとて、さし寄せて四人ばかり乗りて行く。

うらやましがりて、(女房)「なほ今一つして、同じくは」など言へど、(宮)「まな」と仰せらるれば、聞き入れず、情けなきさまにて行くに、馬場(うまば)といふ所にて、人多くて騒ぐ。(清少納言)「何するぞ」と問へば、「手つがひにて真弓射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて、車止めたり。「左近の中将、皆着きたまふ」と言へど、さる人も見えず、六位など、立ちさまよへば、(清少納言)「ゆかしからぬことぞ、はやく過ぎよ」と言ひて、行きもて行く。道も、祭のころ思ひ出でられて、をかし。

かくいふ所は、明順の朝臣(あきのぶのあそん)の家なりけり。(清少納言)「そこも、いざ見む」と言ひて、車寄せておりぬ。田舎だち、事そぎて、馬の絵描きたる障子、網代屏風(あじろびょうぶ)、三稜草(みくり)の簾など、殊更に昔の事をうつしたり。屋のさまも、はかなだち、廊めきて、端近(はしぢか)にあさはかなれど、をかしきに、げにぞ、かしかましと思ふばかりに鳴きあひたる郭公の声を、くちをしう御前に聞しめさせず、さばかり慕ひつる人々を、と思ふ。

(明順)「所につけては、かかる事をなむ見るべき」とて、稲といふ物を取り出でて、若き下衆どものきたなげならぬ、そのわたりの家の娘など、ひきゐて来て、五六人してこかせ、また見も知らぬくるべく物、二人して引かせて、歌歌はせなどするを、珍しくて笑ふに、郭公の歌詠まむとしつる、まぎれぬべし。

唐絵(からえ)に描きたる懸盤(かけばん)して、物食はせたるを、見入るる人もなければ、家のあるじ、(明順)「いとわろくひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずは、あるじ逃げぬばかりなど、責め出だしてこそ参るべけれ。無下にかくては、その人ならず」など言ひて、とりはやし、「この下蕨(したわらび)は、手づから摘みつる」など言へば、(清少納言)「いかでか、さ、女官などのやうに着き並みて(つきなみて)はあらむ」など笑へば、(明順)「さらば、取りおろして。例の這ひ臥し(はいぶし)に習はせ給へる御前たちなれば」とて、まかなひ騒ぐほどに、「雨降りぬべし」と言へば、急ぎて車に乗るに、(清少納言)「さて、この歌はここにてこそ詠まめ」など言へば、(女房)「さはれ、道にても」など言ひて、皆乗りぬ。

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[現代語訳]

95段

五月の御精進の間、中宮様が職の御曹司にいらっしゃる頃で、その塗籠の前の二間の所を、特別に仏間としてしつらえたので、いつもと違った様子が面白い。

一日から雨がちの天気で曇りの日が続く。手持ち無沙汰なので、清少納言が「郭公(ほととぎす)の声を探しにいきましょう」と言うと、私も私もということで出かけることになった。賀茂の先のほうに何と言ったかしら、七夕の渡る橋の「かささぎ」ではないが似たようなあまり聞いたことがない名前の所がある、その辺りで郭公が鳴いていると誰かが言うと、「それは、ひぐらしでしょう」という人もいる。そこへ行くということで、五日の朝に、中宮職の役人に車を持ってくるように頼んで、北の陣から、五月雨の頃は濡れるのに構わないものだということで、車を建物に寄せて四人ばかりで乗り込んで出かける。

他の女房たちは羨ましがって、「同じように、何とかもう一台車を出して」など言うが、中宮が「だめです」とおっしゃるので、こちらは聞き入れずに情け容赦のない様子でそのまま出かけると、馬場というところで、人が多く集まって騒いでいる。「どうしたのですか」と清少納言が問うと、車副(くるまぞい)の従者が「射撃があって馬弓を射るのです。しばらく御覧になっていってください」と言って、車を止めた。「左近の中将など、皆さんがもうお着きです」と言うが、そういった人の姿は見えず、六位などが立ってうろうろしているので、「面白くないわ。早く通り過ぎなさい」と言って、どんどん進んでいく。道中も、賀茂祭の頃が思い出されて面白い。

目的地にしている場所は、明順の朝臣(あきのぶのあそん)の家であった。「そこも見物しましょう」と清少納言が言って、車を寄せて下りた。田舎風の装飾のない作りで、馬の絵を描いた障子、網代張りの屏風、三稜草(みくり)の簾など、特別に調度類は昔の様子を写している。屋敷の様子もわざと簡素にして、廊下のようであり、狭くて奥行きもないけれど、風情があって、本当に、うるさいと思うほどに激しく鳴いている郭公の声を、中宮様にお聞かせできないのが残念で、あれほど来たがっていた人々を置いてきてしまったのも残念だと思う。

「こんな場所では、こういった事(郭公の鳴き声)などが見所になります」と明順は言って、稲という物を取り出してきて、若い下女の爽やかな者やその辺りの農家の娘などを連れてきて、5~6人で稲こきをさせたり、また見たこともない知らない臼を、二人に挽かせたり歌を歌わせたりするのを、物珍しくて笑っていると、郭公の歌を詠もうとしていた事などを忘れてしまいそうである。

唐絵に描いてあるような懸盤で、食事を提供したが、誰も見向きもしないので、家の主人である明順は「とても粗末な田舎料理です。このような田舎に来た人は、下手をすると主人が逃げ出したくなるくらいに、食事を強く催促してくるものです。このように何も食べないのでは、貴女がたらしくもないではないですか」などと言って、もてなすのだが、「この下蕨は私が自分で摘み取ったものです」などと言うので、清少納言は「どうして、こんな女官のように並んで座った状態で食べることができるでしょうか」などと笑うと、「そうであれば、下におろしてください。いつも腹ばいの姿勢でいらっしゃる女房たちでございましたね」と言って、手伝って騒いでいるうちに、車の従者が「雨が降り始めました」と言うので、急いで車に乗ることになった。「さて、郭公の歌はここで詠むとしましょう」と清少納言が言ったが、女房たちは「それはそうですが、道中でも詠めるではないですか」と言って、皆車に乗ってしまった。

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[古文・原文]

95段(続き)

卯の花のいみじう咲きたるを折りて、車の簾、かたはらなどにさしあまりて、おそひ、棟などに、長き枝を葺きたる(ふきたる)やうにさしたれば、ただ卯の花の垣根を牛に懸けたるとぞ見ゆる。供なる男(をのこ)どもも、いみじう笑ひつつ、「ここまだし、ここまだし」と、さしあへり。

人もあはなむ、と思ふに、更にあやしき法師、下衆の言ふかひなきのみ、たまさかに見ゆるに、いとくちをしくて、近く来ぬれど、「いとかくてやまむやは。この車の有様を人に語らせてこそやまめ」とて、一条殿のほどにとどめて、「侍従殿やおはします。郭公(ほととぎす)の声聞きて、今なむ帰る」と言はせたる使(つかい)、「(公信)『ただ今まゐる。しばし、あが君』となむのたまへる。さぶらひに間ひろげておはしつる、急ぎ立ちて、指貫(さしぬき)たてまつりつ」と言ふ。

待つべきにもあらずとて、走らせて土御門(つちみかど)ざまへやるに、いつの間にか装束きつらむ、帯は道のままに結ひて、「しばし、しばし」と追ひ来る供に、侍三四人ばかり、物もはかで走るめり。(清少納言)「とくやれ」と、いとど急がして土御門に行き着きぬるにぞ、喘ぎ惑ひておはして、この車のさまをいみじう笑ひたまふ。(公信)「うつつの人の乗りたるとなむ、更に見えぬ。なほおりて見よ」など笑ひたまへば、供に走りつる人どもも興じ笑ふ。

「歌はいかが。それ聞かむ」とのたまへば、(清少納言)「今、御前に御覧ぜさせて後こそ」など言ふ程に、雨まことに降りぬ。(公信)「などか、異御門御門(ことみかどみかど)のやうにもあらず、この土御門しも、かう上もなくしそめけむと、今日こそいとにくけれ」など言ひて、「いかで帰らむとすらむ。こなたざまは、唯遅れじと思ひつるに人目も知らず走られつるを、奥(あう)行かむことこそ、いとすさまじけれ」とのたまへば、(清少納言)「いざ給へかし、内裏(うち)へ」と言ふ。

(公信)「それも、烏帽子にてはいかでか」(清少納言)「取りにやり給へかし」など言ふに、まめやかに降れば、笠もなき男ども、唯引きに引き入れつ。一条殿より笠持て来たるをささせて、うち見返りつつ、こたみはゆるゆると物憂げにて、卯の花ばかりを取りておはするも、をかし。

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[現代語訳]

95段(続き)

卯の花が盛んに咲いているのを折って、車の簾やその脇などに挿しても余って、屋根や棟などに長い枝を葺いたように挿したので、まるで卯の花の垣根を牛にかけたような感じに見えた。お供の車副(くるまぞい)の男たちも、大笑いしながら、「ここがまだ足りない、ここがまだ足りない」と指を指し合っている。

人と行き逢えば良いのにと思うけれど、賤しい法師、言う甲斐もない下衆などばかりで、それらの人でもたまたま行き逢うくらいなので、とても残念に感じて、近くまで帰ってきたけれど、「このまま帰ってしまうのは面白くない。このしゃれた車の様子を人々の噂話に語らせるくらいになってから帰りましょう」と言って、一条殿の辺りに車を止めて、「侍従殿はいらっしゃいますか。郭公の声を聞いて、今帰るところです」と言いに行かせた使いの者が戻って来て、「公信様は『今すぐに参上します。しばらくの間、お待ちください、我が主君よ』とおっしゃっていました。侍所でくつろいだ感じでしたが、急いで立って、指貫を着ておられました」と言った。

待つ暇などないということで、車を走らせて土御門の方に行かせると、いつの間に着物を着たのか、帯は道中で結びながら、「しばらく、しばらく」と言って追いかけてくる。その公信のお供の家来3~4人ほどが、履物も履かずに走ってくる。「早く進め」と、とても急がせて車を走らせ、土御門に到着したところに、はあはあと喘いで追いついてきて、この車の様子をとてもお笑いになる。「正気の人が乗った車には、とても見えません。まぁ、下りて見てみてください」などと公信がお笑いになると、お供して走ってきた人たちも面白がって笑う。

「歌はどうでしたか。歌を聞かせてください」と公信がおっしゃると、「今はまだです。中宮様に御覧に入れた後の話ですわ」などと答えていると、雨が本当に降り出してきた。「どうして、他の御門のようではなく、この土御門だけが屋根のない造りにしてあるのだろうか、今日のような雨の日にはとても憎らしく感じる」などと言って、「どうやって帰るとするか。ここに来るまでは、ただ遅れまいとだけ思って人目も気にせずに走ってきたのだが、これから帰るとなると、とても面白くないのだ」とおっしゃる。清少納言は「さあ、いらっしゃってください、内裏に」と言った。

「そうするにしても、烏帽子の恰好ではどうでしょうか(内裏には入れないでしょう)」「使いの者に取りに行かせたら良いではないですか」などと言い合っているうちに、雨が強くなってきたので、笠もない車副の従者の男たちは、ただ車を建物の中に引き入れてしまった。一条殿から傘を持ってきた者に差させて、こちらを振り返りながら、今度はゆっくりゆっくりと物憂げな感じで、車に挿していた卯の花だけを取って帰っていく姿も面白い。

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