『枕草子』の現代語訳:62

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『しばしありて、式部の丞なにがし、御使にまゐりたれば~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献(ページ末尾のAmazonアソシエイトからご購入頂けます)
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

[古文・原文]

100段(続き)

しばしありて、式部の丞なにがし、御使にまゐりたれば、御膳宿(おものやどり)の北に寄りたる間に、褥(しとね)さし出だして据ゑたり。御返(おんかえり)、今日は疾く出ださせ給ひつ。まだ褥も取り入れぬほどに、東宮(とうぐう)の御使に、周頼(ちかより)の少将まゐりたり。御文取り入れて、渡殿(わたどの)は細き縁なれば、こなたの縁に異褥(ことしとね)さし出だしたり。

御文取り入れて、殿、上、宮など御覧じわたす。(道隆)「御返(おんかえり)、早(はや)」とあれど、とみにも聞え給はぬを、「某(なにがし)が見侍れば、書き給はぬなめり。さらぬをりは、これよりぞ、間もなく聞え給ふなる」など申し給へば、御面(おんおもて)はすこし赤みて、うち微笑み給へる、いとめでたし。(上)「まことに、疾く(とく)」など、上も聞え給へば、奥に向きて書きたまふ。上、近う寄り給ひて、もろともに書かせ奉り給へば、いとどつつましげなり。宮の御方より、萌黄の織物の小袿(こうちぎ)、袴、おし出でたれば、三位の中将、かづけ給ふ。頸(くび)苦しげに思うて持ちて立ちぬ。

松君の、をかしう物のたまふを、誰も誰も、うつくしがり聞え給ふ。(道隆)「宮の御子たちとて引き出でたらむに、わるく侍らじかし」など、のたまはするを、げに、などかさる御ことの今まで、とぞ、心もとなき。

未(ひつじ)の時ばかりに、「筵道(えんどう)まゐる」など言ふほどもなく、うちそよめきて入らせ給へば、宮も、こなたへ入らせ給ひぬ。やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房も南面(みなみおもて)に皆そよめき去ぬ(いぬ)めり。廊に殿上人いと多かり。殿の御前に、宮司召して、(道隆)「くだもの、さかななど召させよ。人々酔はせ」など、おほせらるる。誠に皆酔ひて(ゑひて)、女房と物言ひかはすほど、かたみにをかしと思ひためり。

[現代語訳]

100段(続き)

暫くしてから、式部の丞の何とかが、帝からのお使いで参上したので、御膳宿から少し北に寄った間に、敷物を差し出して座らせた。中宮の御返事は、今日はすぐに出来上がってお出しになられた。まだそのお使いの敷物も取り入れないうちに、春宮のお手紙の使いとして周頼(ちかより)の少将が参上した。お手紙を受け取って、(貞観殿との間にある)渡殿の簀子は細くて狭いので、こちらの御殿の東の簀子に別の敷物を差し出した。

お手紙を受け取って、関白様、母の北の方、中宮などが、順番に御覧になる。(道隆)「ご返事を早く」と言うけれど、すぐには書き出さないので、「渡しが見ているのでお書きにならないのだろう。そうでない時には、こちらから進んで途切れなくお手紙をお送りになられるようだが」などと申し上げると、淑景舎(しげいしゃ)のお顔が少し赤くなって、困って微笑んでおられる姿はとても素敵だ。(北の方)「本当に、早く書きなさい」などと、母の北の方も申し上げるので、奥に向かって背を向けてお書きになられる。北の方が、近くに寄ってきて、一緒にお書きになられるので、ますます恥ずかしがっておられる。中宮の御方から、萌黄の織物の小袿(こうちぎ)と袴とを、禄として簀子に押し出したので、三位の中将がこれをお使いにお授けになる。(肩にかけると)首が苦しいかと思って、手に持って立ち上がった。

松君が、可愛らしく何かをおっしゃるのを、誰もかれもが可愛いなと思って聞いている。「中宮のお子様ということでみんなの前に出しても、悪くはないな」などと、関白様がおっしゃるので、本当に、どうして中宮様に今までご出産がないのだろうと、心配になってしまう。

午後二時頃に、「筵道(えんどう)をお敷きします」などと言う間もなく、帝が御衣の衣擦れの音をさせて入ってこられたので、中宮も、こちらへ入ってこられた。そのまま御帳台に二人でお入りになられたので、女房たちも南面のほうにみんなで衣擦れの音をさせて去っていくようだ。南の廊に帝にお供している殿上人がたくさん詰めている。関白様は、中宮職の役人を呼び出して、「果物や酒の肴などを取り寄せよ。殿上人たちを酔わせよ」などおっしゃっている。本当にみんなが酒に酔って、南面の女房と話を交わして、お互いに楽しいと思っているようだ。

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[古文・原文]

100段(終わり)

日の入るほどに起きさせ給ひて、山の井の大納言召し入れて、御うちぎまゐらせ給ひて、帰らせ給ふ。桜の御直衣(おんなおし)に紅の御衣(おんぞ)の夕映え(ゆふばえ)なども、かしこければ、とどめつ。山の井の大納言は、入り立たぬ御兄(おんせうと)にては、いとよくおはすぞかし。にほひやかなる方は、この大納言にもまさり給へるものを、かく世の人はせちに言ひおとし聞ゆるこそ、いとほしけれ。殿、大納言、山の井の大納言も、三位の中将、内蔵頭(くらのかみ)など、皆さぶらひ給ふ。

宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけ、参りたり。(宮)「今宵は、えなむ」など、しぶらせ給ふに、殿聞かせ給ひて、(道隆)「いとあしきこと、早、のぼらせ給へ」と申させ給ふに、また春宮(とうぐう)の御使しきりてあるほど、いと騒がし。御迎へに、女房、春宮の侍従などいふ人もまゐりて、「疾く(とく)」と、そそのかし聞ゆ。(宮)「まづ、さは、かの君わたし聞え給ひて」と、のたまはすれば、(淑景舎)「さりとも、いかでか」とあるを、(宮)「なほ、見送り聞えむ」などのたまはするほども、いとめでたく、をかし。「さらば、遠きを先にすべきか」とて、淑景舎わたり給ひて、殿など帰らせ給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道のほども、殿の御猿楽事(おんさるがくごと)にいみじう笑ひて、ほとほと打橋(うちはし)よりも落ちぬべし。

[現代語訳]

100段(終わり)

日が沈む頃に帝はお起きになり、山の井の大納言をお呼び入れになって、御髪をお直しになられて、お帰りになる。桜襲(さくらがさね)の直衣に紅の下着の夕明かりに映える様子なども立派であるのだが、畏れ多いので筆を止める。山の井の大納言は、(中宮・淑景舎・三位の中将・大納言の伊周などとは)異なる腹の御兄弟であられるが、とても立派な方でいらっしゃる。美しい方ということでは、この大納言(伊周)にも勝っておられるが、世の中の人がしきりに貶めて言っているのは、とても可哀想なことである。関白様、大納言、この山の井の大納言も、三位の中将、内蔵頭(くらのかみ)などみんな、帝のお帰りに付き従っている。

中宮に清涼殿に参上するようにという帝のお使いとして、馬の内侍典(ないしのすけ)が参上した。「今晩は、無理です」などとお渋りになられているのを関白様がお聞きになられて、「とても良くないことだぞ。早く、帝の元に参上しなさい」と申し上げると、また春宮・東宮(とうぐう)から淑景舎のところへお迎えのお使いがしきりに参上するので、とても騒がしい。淑景舎のお迎えに、東宮の女房たち、東宮の侍従などという人も参上して、侍従が「お早く」とお帰りを急がせて言う。中宮が「それでは、まずは先に淑景舎(妹)をお返しになってから」と関白様(父親)におっしゃられると、淑景舎が「どうして、私が先に行けるでしょうか」と言うので、「やはり、あなたの帰りをお見送りしてから」などと中宮がおっしゃっているのも、とても素晴らしいし面白い。「それでは、遠い方を先にするか」と関白様はおっしゃって、淑景舎がお帰りになって、関白様などがお見送りから帰って、それから中宮様は帝のところに参上した。その道の途中でも、関白様のご冗談に私たちはとても笑ってしまって、あやうく打橋から落ちてしまうところだった。

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