『枕草子』の現代語訳:94

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『故殿の御服のころ、六月のつごもりの日、大祓といふことにて~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

156段

故殿(ことの)の御服(おんぷく)のころ、六月のつごもりの日、大祓(おおはらえ)といふことにて、宮の出でさせ給ふべきを、職の御曹司(しきのおんぞうし)を方あしとて、官の司の朝所(あいたどころ)に渡らせ給へり。その夜さり、暑くわりなき闇にて、何ともおぼえず、狭くおぼつかなくて、明しつ。

つとめて、見れば、屋のさま、いと平に短く、瓦葺(かわらぶき)にて、唐(から)めき、様異(さまこと)なり。例のやうに格子(こうし)などもなく、めぐりて御簾(みす)ばかりをぞ掛けたる。なかなか珍しくて、をかしければ、女房、庭におりなどして遊ぶ。

前栽(せんざい)に、萱草(かんぞう)といふ草を籬(ませ)結ひて(ゆいて)いと多く植ゑたりける花の、きはやかにふさなりて咲きたる、むべむべしき所の前栽には、いとよし。時司(ときづかさ)などは唯かたはらにて、鼓の音も例のには似ずぞ聞ゆるを、ゆかしがりて、若き人々二十人ばかり、そなたに行きて、階(はし)より高き屋に登りたるを、これより見上ぐれば、ある限り薄鈍(うすにび)の裳(も)、唐衣(からぎぬ)、同じ色のひとへ襲(がさね)、紅の袴どもを着て登りたるは、いと天人などこそえ言ふまじけれど、空よりおりたるにやとぞ見ゆる。同じ若きなれど、おしあげたる人はえまじらで、うらやましげに見上げたるも、いとをかし。

左衛門の陣(さえもんのじん)まで行きて、倒れ騒ぎたるもあめりしを、「かくはせぬ事なり。上達部(かんだちめ)の着き給ふ倚子(いし)などに女房どものぼり、上官などの居る床子(そうじ)どもを皆打ち倒しそこなひたり」など、くすしがる者どもあれど、聞きも入れず。

屋のいと古くて、瓦葺なればにやあらむ、暑さの世に知らねば、御簾の外にぞ、夜も出で来臥したる(いできふしたる)。古き所なれば、蜈蚣(むかで)といふもの、日一日(ひひとひ)落ちかかり、蜂の巣の大きにて付き集りたるなどぞ、いと恐ろしき。

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[現代語訳]

156段

亡くなった藤原道隆公の服喪をしていた頃、六月の最後の日、大祓ということで、中宮様が内裏からいらっしゃることになったが、職の御曹司は方角が悪いということで、南の太政官の朝所(あいたどころ)にお移りになられた。その夜は、暑くて月も出ていない暗闇だったので、何とも思うことなく、狭くて落ち着かないまま、夜を明かした。

翌朝、見てみると、家屋の様子がとても平たくて低く、瓦葺(かわらぶき)なので、唐めいた感じで風変わりである。普通にあるような格子などもなく、周囲に御簾だけを掛けている。かえって珍しくて面白いので、女房たちは庭に下りたりして遊んでいる。

植え込みに萱草(かんぞう)という草を、周りに柵を結ひ巡らせてとても多く植えているその花が、とても鮮やかな色で房になって咲き垂れているのが、こういった格式ばった所の植え込みとしてはとても良い。時司(ときづかさ)などはすぐ傍で、その時を知らせる鼓(つづみ)の音も、普通の音とは違って聞こえるので、その音が何なのか知りたがって、若い女房たち20人ほどが、そこに行って、階段で高い楼に登ったのを、下から見上げると、誰も彼も薄鈍(うすにび)色の裳、唐衣、同じ色のひとえがさねに紅色の袴を着て、登っている姿は天女のようだとはさすがに言えないけれど、空から下りてきたように見える。同じような若い人でも、押し上げるのを手伝った人は、上の人たちに交じることができなくて、羨ましそうに見上げているのも、とても面白い。

左衛門の陣まで出かけて行って、大騒ぎした人たちもいたようだが、「これは、いけないことである。上達部(かんだちめ)のお座りになる椅子などに女房たちが登り、政官(じょうがん)などの腰掛ける床子(しょうじ)をみんな打倒して壊してしまった。」などと、咎め立てする者もいるが、女房たちは(苦情をまったく)聞き入れない。

建物がとても古くて瓦葺のせいだろうか、暑さがこの世のものではないほど暑いので、御簾の外へと夜も出てきて寝ることになった。古い所なので、ムカデというものが、一日中上から落ちてきたり、蜂の巣の大きなものに蜂が付いてたかっている様子など、とても恐ろしい。

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[古文・原文]

156段(続き)

殿上人、日ごとにまゐり、夜も居明して物言ふを聞きて、「あに、はかりきや、太政官(だじょうかん)の地の、今やかうの庭とならむ事を」と、誦じ(ずじ)出でたりしこそ、をかしかりしか。

秋になりたれど、かたへだに涼しからぬ風の、所からなめり、さすがに虫の声など聞えたり。八日ぞ、帰らせたまひければ、七夕祭、ここにては例よりも近う見ゆるは、ほどの狭ければなめり。

宰相の中将斉信(ただのぶ)、宣方(のぶかた)の中将、道方(みちかた)の少納言などまゐり給へるに、人々出でて物など言ふに、ついでもなく、「明日はいかなることをか」と言ふに、いささか思ひまはし、とどこほりもなく、(斉信)「人間の四月をこそは」と答へ給へるが、いみじうをかしきこそ。

過ぎにたることなれども、心得て言ふは、誰もをかしき中に、女などこそ、さやうの物忘れはせね、男はさしもあらず、詠みたる歌などをだに、なまおぼえなるものを、まことにをかし。内なる人も、外(と)なるも、心得ずと思ひたるぞ、理(ことわり)なる。

この四月の朔日(ついたち)ころ、細殿(ほそどの)の四の口に殿上人あまた立てり。やうやうすべり失せなどして、ただ頭の中将、源中将、六位一人残りて、よろづのこと言ひ、経よみ、歌歌ひなどするに、「明け果てぬなり。帰りなむ」とて、「露は別れの涙なるべし」といふことを、頭の中将のうち出だし給へれば、源中将ももろともに、いとをかしく誦(ずん)じたるに、(清少納言)「急ぎける七夕かな」と言ふを、いみじうねたがりて、(斉信)「ただ暁の別れ一筋を、ふとおぼえつるままに言ひて、わびしうもあるかな。すべてこのわたりにて、かかる事思ひまはさず言ふは、口惜しきぞかし」など、返す返す笑ひて、

「人にな語りたまひそ。必ず笑はれなむ」と言ひて、あまり明うなりしかば、「葛城(かづらき)の神、今ぞずちなき」とて、逃げおはしにしを、七夕のをりにこの事を言ひ出でばやと思ひしかど、宰相になり給ひにしかば、必ずしもいかでかは、その程に見つけなどもせむ、文書きて、主殿司(とのもづかさ)してもやらむ、など思ひしを、七日にまゐり給へりしかば、いとうれしくて、その夜の事など言ひ出でば、心もぞ得たまふ、ただすずろにふと言ひたらば、怪しなどや、うち傾き給はむ、さらばそれにを、ありし事をば言はむ、とてあるに、つゆおぼめかで答へ給へりしは、まことにいみじうをかしかりき。

月ごろいつしかと思はへたりしだに、わが心ながら好き好きしとおぼえしに、いかで、さ、思ひまうけたるやうにのたまひけむ。もろともにねたがり言ひし中将は、思ひも寄らで居たるに、(斉信)「ありし暁のこと、いましめらるるは。知らぬか」と、のたまふにぞ、(宣方)「げに、げに」と笑ふめる。わろしかし。

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[現代語訳]

156段(続き)

殿上人(てんじょうびと)が毎日やって来て、夜を明かして女房たちとおしゃべりしているのを聞いて、「あに、はかりきや、太政官(だじょうかん)の地の、今やかうの庭とならむ事を」と詩を吟じ始めたのは面白かった。

秋になったけれど、半分も風は涼しくならない、場所のせいだろうか、さすがに虫の声などは聞こえてくる。八日に宮中にお帰りになったので、七夕祭をここでするが、ここではいつもより庭の祭場が近くに見えるのは、場所が狭いからなのだろう。

宰相の中将斉信(ただのぶ)、宣方(のぶかた)の中将、道方(みちかた)の少納言などがいらっしゃったので、女房たちが出てきてお話するのに、私(清少納言)は突然に話の流れもなく、「明日はどんな詩を謳われますか。」と言うと、わずかも考えず、返事に詰まることもなく、斉信は「人間の四月の詩でも吟じましょう。」とお答えになられたが、とても素晴らしい知性であられた。

もう過ぎ去ってしまったことで、それをよく覚えていて返事をするのは、誰だって素晴らしいことだけれど、女の場合はそのような物忘れはしないが、男というものはそうではなく、自分の詠んだ歌でも、しっかり覚えていないことがあるのだから、本当におかしなことである。室内の女房も、外の男たちも、心得ていないという感じに思えたが、それも道理である。

この四月の一日頃、細殿の四の口に殿上人たちが大勢立っていた。段々と殿上人たちはお姿を消していった、その後にはただ頭の中将(斉信)、源中将(宣方)、六位の蔵人一人だけが残って、色々なことを語り合い、経を読んだり、歌を歌いなどしていた。「もう夜も明けきってしまった。帰りましょう。」と人々が言って、「露は(織姫が彦星と別れる時の)別れの涙であろう。」という詩を、頭の中将が吟じ始められたので、源中将も一緒に、とても風情がある感じで吟詠したのだが、私(清少納言)が「急ぎすぎの七夕ですね。」と言ったので、とても悔しがって、頭の中将が「ただ暁の別れという一点だけから、ふと思いついたままを詩で吟じただけだったのですが、そう言われてしまうと情けなくもあります。大体この辺りで、こういった詩をよく考えずに吟じてしまうと、悔しい残念な思いをしてしまう。」などと、何度もお笑いになられて、

「このことは人には言わないで下さい。きっと笑われてしまいますから。」と言って、とても明るくなったので、「葛城の神は、今帰るべき時だ。」と言って、逃げていかれてしまったので、七夕の時にまたこの事を持ち出したいと思ったのだが、宰相(参議)に昇進されたので、ちょうど七夕の時にお会いできるわけでもあるまい、だから手紙でも書いて、主殿司(とのもづかさ)を使いにしてお聞かせしようなどと思っていたが、ちょうど七日の夜に中宮御殿にいらっしゃったので、とても嬉しくなって、あの夜の事などをお聞かせしたら、きっと思い出されるだろう、(それでは面白くないので)前置きなく突然にふとそのことを言ったら、何のことかと怪しく思って首をおかしげになるだろう。そうなればそれについて実際にあった事を種明かしでお話しましょうと思って言ったのに、全く戸惑わないでお答えになったのは、本当に素晴らしくて面白いことであった。

ここ数ヶ月、いつかと思って心待ちにしていたが、我が心ながら物好きなことだなと思っていたのに、どうしてまた、考えていて待ち受けていたかのようにお答えになれたのだろう。一緒に悔しがっていた中将は、全く思いも寄らない感じでいたのに、斉信が「あの暁の日のことを、戒められているんだよ。覚えていないのか。」とおっしゃるとようやく、宣方が「なるほど、確かに」とお笑いになっている。(当意即妙な雰囲気をダメにする)悪いことである。

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