哲学と科学

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哲学と科学という余りにも壮大で高遠な表題を掲げてしまいましたが、皆さんは哲学や科学についてどのようなイメージを持っているでしょうか。一般的に、哲学は何だか意味不明の用語を並べ立てて作られた理屈っぽい学問というイメージがあり、物理や化学などの自然科学は専門的になると複雑な数式を用いて考えるので理解が難しいというイメージがあるようです。

また、学問の目的や有用性という観点から考えると、哲学や歴史学、文学を始めとする文系諸学は、あまり実際的な目的がなく、社会生活の中で何かの役に立つ事が少ないように思われがちです。

文系諸学に批判的な人たちの中には『歴史で過去を学んでも何の役にも立たない。哲学で理屈っぽい事柄を述べても、何も状況は変わらない。文学作品を読んでも、実用的な知識は身に付かず娯楽に過ぎない。』などと揶揄する人たちもいます。

それに対して、自然科学の目的は極めて明瞭で、自然界の仕組みを実証的な手段である『観察・実験』を用いて法則や理論として明らかにする事です。自然科学の有用性を疑う事は文明社会に生きる私達には難しいですし、科学が何の役にも立たないという人はまずいません。

それは、私達が冷暖房で快適な生活が出来るのも、テレビやラジオで番組を楽しめるのも、車や電車に乗って短時間で移動できるのも全ては科学的知識を応用した結果だからという事を知っているからです。

自然科学が哲学を母体として生まれた学問である事はよく知られていますが、哲学は本来『全ての学問領域を包括する巨大な知の体系』でした。現在ある学問のカテゴリーは大きく分割すると、『自然科学』『社会科学』『人文科学(人文学)』の3つに分ける事が出来ます。

先ほど、自然科学は何かの役に立つが、哲学は何の役にも立たないという認識をする人もいるという話をしましたが、この場合の『役に立つ』というのは、社会的もしくは経済的な利得を生み出すことや個人の物理的な快適性を生み出すことを指すと考えられます。

哲学が何の役に立つのかという疑問を一旦留保しておいて、少し哲学の歴史を遡り、『人間は何故、哲学を始めたのか?』をギリシアの哲学者アリストテレスを参照して考えてみたいと思います。

ギリシア語で、哲学は『phylosophia(フィロソフィア)』と言いますが、フィロとは『愛する』を意味し、ソフィアは『知』を意味します。哲学は、原義から言えば『知を愛する学問』というように定義できます。あまり難しく考えず、大雑把な括りでいくと、哲学するとは、何か不思議なことや分からないことがあった時にそれを知る為に思索や考察を論理的にめぐらす事と言えるでしょう。

哲学の中で形而上学という分野があります。形而上学とは、形のないものについて考える学問、つまり、人間の感覚器官で見たり、聞いたり出来ない神や真理、愛、世界の構造といった対象について考える学問の事で一般の人々がイメージする哲学そのものとほぼ同じ意味です。

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形而上学という言葉は、アリストテレスの著作である『形而上学』からそのまま継承されてきました。彼はその著作の冒頭で『人は、生来的に知ることを欲している』と記しています。

人間の生まれながらの欲求には、本能としての食欲・性欲・睡眠欲がよく知られていますが、私達が新たな『知る刺激と快感』を求めて日々の生活を送っている事から考えると、アリストテレスが言うように知的欲求も人間の先天的欲求としてもあながち間違いとは言えないでしょう。新しい出来事や情報、知識が現状のままで全く増えないとしたら、私達はきっと退屈で仕方ないに違いありません。

だからこそ、読書をしたり、新聞やテレビでニュースや娯楽番組を見たり、インターネットで色んなサイトを回ったり、人と様々な会話をしたりして、毎日何か新しい情報を私達はいつも求めているのです。

アリストテレスは、よく『万学の祖』という風に呼称されますが、彼は哲学の歴史を通しても稀有な知的好奇心の幅広さを持っている博識な人で、人間及び自然世界についてのあらゆる事柄を思考の対象として学問をしました。

アカデメイアの頭脳とまで言われたアリストテレスが研究して著述した分野は、広範多岐にわたるもので、政治学、経済学、詩学、演劇学、倫理学、論理学、弁論術、天文学、自然学、生物学、物理学、宇宙論、博物誌、地誌など現代の学問の殆どを包摂する膨大なものでした。紀元前5世紀当時は、現代ほど学問が細分化されておらず、各分野の先人が殆どいないので専門化されていなかったのですが、その事を加味しても、すべての分野を自分独自の好奇心と努力で切り拓いていった功績は大きく評価されて当然でしょう。

アリストテレスの哲学とは、このように彼の強靭かつ持続的な知的欲求を満たす思索と研究の行為そのものであり、謎と不思議に覆われた未知の自然界と人間存在を理解しようとする知的な営みでした。このような観点から哲学を考えると『人間は、何故、哲学をするのか?』という問いは自明な解答を引き出すものとなり、『人間の本来的性質として、知らない事を知ろうとする欲求があり、知る事によって知的な快楽と満足感を得ることが出来るから』という事になります。

当然の事ながら、アリストテレスが哲学と呼んだものは、現代の哲学と同一のものではありません。当時の広大な哲学の領域は、時代の流れと共に様々な方向へ枝を伸ばしていき、物理学や生物学、宇宙論などは自然界を実証的に解明しようとする自然科学へ、政治学や経済学などは社会を研究対象とする社会科学へ、形而上学などの哲学、詩学、演劇学などは人文学へと分かれていったのです。

膨大な知の遺産を人類に残したアリストテレスの哲学は、後世のキリスト教世界に絶大な影響を与え、キリスト教の神学と密接に結合して、神の存在を保証する知的基盤とされました。中世キリスト教世界に至るまで、アリストテレスの哲学に基づく世界観や存在論は絶対的権威としての地位を得た為に、長い間、アリストテレスの学問を疑うような建設的な研究を行うことさえ出来ませんでした。

アリストテレス自身は創造的な哲学者でしたが、アリストテレスを絶対的な権威として盲目的に崇める中世の僧侶や学者たちは進歩のない頑迷な保守主義者だったのです。

ある人物や書物を絶対視する事の弊害は、自分が正しいと確信している事柄を公の場で主張できない事と観察や実験の結果として目に見える事実と絶対的権威が矛盾している場合に、事実を捨てて、権威を信奉しなければならない所にあります。

世界観や神の存在といった大きな事柄でなくとも、皆さんも日常の生活場面の中で、権威主義の弊害を目のあたりにする事はよくあると思います。例えば、会社の上司が間違った根拠を元にある人を厳しく叱責していても、自分より上の立場であるという事を理由に反論する事ができない場合なども権威が事実を捻じ曲げている一つの例でしょう。

自由主義が浸透していると思われる現代でも、権威による事実の捏造は至る場面で行われているのですから、封建主義の中世において権威というものが如何に絶大な統制力を持っていたかは容易に想像できます。

中世を通して絶対的な知の権威であり巨人であったアリストテレス哲学は、紀元前に構築された体系であり、その内容を詳細に検証していけば多くの誤謬を含むものでした。観測機器も実験施設も過去の知の蓄積も殆どない古代ギリシアにおいて編成されたアリストテレス哲学に、自然科学分野で多くの間違いがあるのは当然の事ともいえ、その誤りの原因は哲学の方法論である思索行為即ち思弁的性格にありました。

アリストテレス哲学の天体論や宇宙論に関する誤りを指摘したガリレオ・ガリレイ等をはじめとする後世の学者たちは、頭の中で論理に従って仮説を構築するだけのアリストテレス時代の思弁の方法論ではなく、実際に自然世界を観察して観測事実や実験事実に基づいたデータを出してアリストテレスを反駁し、その宇宙観を否定しました。

哲学的には、16世紀以降の経験主義という大きな流れの中で、思弁だけによる形而上学の誤りが実際的な経験的事実によって指摘され、徐々に哲学から自然科学という分野が分離していきます。

アリストテレス哲学から近代科学へ移行していく際に、最大の威力を発揮したのは『観測・実験による経験的な事実の発見』でした。

自然科学的な観測事実に基づく証明の手順によって、従来、あらゆる研究分野を含む巨大な学問であった哲学は少しずつその範囲を侵食されていきます。哲学は、古代~中世においては、何でもありの学問で、知の全領域を指し示す代名詞のような扱いを受けてきましたが、時代の推移と共に段階的にその適応領域を縮小してきました。

現代で、宇宙科学や生物学や経済学などを哲学と呼ぶ人はいません、哲学は歴史学のように過去の哲学者や思想家の足跡を辿る哲学史としての意味合いが強くなり、哲学固有の領域としては、存在や認識の問題、論理学、倫理学(善悪・価値や意味の問題)そして科学の基盤の検証や科学批判、社会時評などが残されているばかりとなりました。

哲学は、個人の頭の中で概念を創造し、理論的仮説を組み立てる主観的な学としての性格が強く、客観的な部分としては科学的基盤を検証し批判する科学哲学などがあります。

科学は、実験や観察といった実証的な方法論によって証拠を積み重ねながら理論や法則を導き出し、それを検証可能な仮説として提示する客観的な学としての性格が強く、今後も様々な分野に枝分かれしながら高度に発展していく事となりそうです。

しかし、人間が生きる際の原動力となるのは、主観的に意味や価値を創出する哲学的思索の次元であり、今後も哲学が学問としての評価はどうであれ、その必要性が完全になくなってしまうことは無いように思われます。

ある物事について徹底的に考える楽しさ、世界観や人生観を自分の言葉で論理的に構築していく充実感が哲学にはあり、過去の先哲たちの思考や理論も、現代に生きる私達が人生に悩み迷った時に何らかの手助けとなり、物事を判断する際には、示唆に富む『思索の軌跡・思考の枠組み』を提示してくれます。

同時に、科学も実用的な学問としてその有効性が失われる事はないでしょう。科学は私達の世界理解を客観的次元で深めてくれ、社会生活を便利で豊かにする道具を発明してくれます。また、これから重大な問題となってくる環境保護に役立つ技術を生み出し、生命の設計図である遺伝子や精神機能を司る脳の秘密も徐々に解き明かしてくれるかもしれません。

哲学と科学は世界と人間の理解の為の両輪で、どちらが欠けても人間の知の体系のバランスが崩れるように思えます。哲学と科学及びその他の諸学が、人間の根源的欲求である知的好奇心を満たし続け、私達の生をより味わい深く豊かなものとしてくれるように期待したいと思います。

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