19.伊勢 難波潟〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『伊勢 難波潟〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

難波潟 短き蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

伊勢(いせ)

なにわがた みじかきあしの ふしのまも あわでこのよを すぐしてよとや

難波潟に生えている短い丈の蘆(あし)、その蘆の節と節の間のようなほんの短い時間でさえも逢うことができないままに、この世の時を過ごしていけと(冷たく)いうのだろうか。

[解説・注釈]

伊勢 (872頃-938頃)は、平安中期に活躍した女流歌人で、三十六歌仙の一人に数えられるが、宇多天皇の女御(中宮)である温子に仕えていた女官でもあった。伊勢は藤原基経の次男で温子の弟に当たる藤原仲平(ふじわらのなかひら)と恋愛関係になっただけではなく、その後に仲平の兄・温子の兄である藤原時平(ふじわらのときひら)とも男女の仲になったという。

現在の大阪湾の一部だった『難波潟(難波の干潟)』には、沢山の蘆が生えているが、その蘆の茎にある節と節の間の短さを、『僅かな短い時間』に置き換えて表現している。空間的な節と節の間の短さだが、それを自然なリズムの句を用いて、『僅かな短い時間』に見立てている。そのほんのちょっとの時間さえ自分と逢ってくれない男の薄情さを嘆き悲しんでいる(愛しながらも憎んでいる)のだが、伊勢は実際にも『恋多き女(高貴な身分の男にモテる教養と美貌の女)』だったのである。

藤原時平・仲平の兄弟と別れた伊勢は、その後も宇多天皇(うだてんのう)の寵愛を受けることになり皇子を出産した。それだけではなく、更に宇多天皇の子・敦慶親王(あつよししんのう)とも深い男女関係になって、歌人となる中務(なかつかさ)を産んでいるのである。

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