40.平兼盛 忍ぶれど〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『40.平兼盛 忍ぶれど〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

平兼盛(たいらのかねもり)

しのぶれど いろにいでにけり わがこいは ものやおもうと ひとのとうまで

忍んで隠していたのだがやはり私の恋心は表情・態度に出てしまったな。『恋をしているのではないか』と人から問われてしまうほどに。

[解説・注釈]

平兼盛(たいらのかねもり,生年不詳〜990)は、平安中期の歌人で三十六歌仙の一人である。光孝天皇の玄孫の血筋であり、59番作者の赤染衛門の父とも伝えられている。後撰和歌集を代表する歌人の一人である。

『小倉百人一首』に収載されているこの40番と次の41番の歌は、村上天皇の治世の天徳4年(960)の内裏歌合(だいりうたあわせ)の時に詠まれた『題詠(与えられた主題に沿って詠む歌)』である。人に気づかれないように隠していたはずの恋心が、その意図に反して『目に見える態度・表情・顔色』になって現れてしまっていたという驚きと気恥ずかしさを伝えた歌である。

平兼盛が活躍した平安時代中期は『貴族の自由恋愛』が認められていた時代だったが、それでも『世間の目線・名誉や評判』を気にしながら恋心を伝え合うといった純粋な恋愛が殆どであった。隠していた人に知られてはならない恋心を知られてしまうということは、ある種の『不名誉・失態・廉恥』だったので、この兼盛の歌は村上天皇も強く共感されて気に入られていたという。

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