47.恵慶法師 八重葎〜 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『47.恵慶法師 八重葎〜』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

八重葎 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり

恵慶法師(えぎょうほうし)

やえむぐら しげれるやどの さびしきに ひとこそみえね あきはきにけり

幾重にも雑草が茂っている子の宿は寂しい風情だが、誰もやってこないこの宿にも、秋の季節だけは忘れずにやって来るのだ。

[解説・注釈]

恵慶(えぎょう,生没年不詳)は、播磨国で国分寺の僧侶をしていた平安中期の歌人で、中古三十六歌仙の一人に挙げられる人である。この歌は、多くの雑草に覆われて荒れ果てた宿の寂しい佇まいを読んでいるが、原典・出典になっているのは『拾遺和歌集』に収められている『河原院にて、荒れたる宿に秋来るという心を、人々よみ侍りけるに』という部分であり、栄耀栄華を誇った河原院の荒廃とそこに訪れる立秋の秋の季節を詠んだものであった。

『河原院』は、当時の有力貴族だった源融(みなもとのとおる,百人一首の14番作者)が建設した邸宅であり、在原業平らが集まってそこで歌会を開いたり文学のサロンで談話を行ったりしていたとされる。源融の時代には平安貴族の和歌文化と富裕な暮らしを象徴する邸宅だったが、源融の死後に財力が衰えたり賀茂川の氾濫の被害を受けたりして、次第に荒れ果てた寂しい屋敷へとその姿を変えていった。

源融の曾孫である安法法師(あんぽうほうし)の時代には、荒廃した河原院の廃園に再び風流な歌人・文化人が集まってサロンを結成するようになり、この歌を詠んだ恵慶法師もその歌会サロンの一員にその名前を連ねていた。しかし、源融の時代と比較すると公卿などの上級貴族はおらず、中流・下流の俗世に不満を抱く貴族たちの集まりとなっており、『精神の自由な解放・風雅な時間や談話の共有』が主な目的となった。恵慶法師は『過去の貴族文化の繁栄とその喪失の悲しみ』を歌に詠んでおり、こういった諸行無常の虚無や情趣に感じ入る精神は、中世期に入ると『艶・幽玄』という概念で表現されるようになってゆく。

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