53.右大将道綱母 嘆きつつ~ 小倉百人一首

優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『53.右大将道綱母 嘆きつつ~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

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鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

[和歌・読み方・現代語訳]

嘆きつつ ひとり寝る夜の あくる間は いかに久しき ものとかは知る

右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)

なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは いかにひさしき ものとかはしる

嘆きながら一人で寝る夜が明けるまでの時がどんなに長いものであるか、あなたはそれをお分かりになっているのでしょうか。

[解説・注釈]

右大将・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは,生年不詳-995)は、『蜻蛉日記』の作者として知られる平安中期の女流歌人であり、藤原倫寧(ふじわらのともやす)の娘である。本朝三美人の一人に数えられる美しい女性とされており、その夫は『藤原家の摂関政治』の基盤を固めた政略家の藤原兼家(ふじわらのかねいえ,929-990)である。

右大将道綱母と兼家の間に生まれたのが藤原道綱である。権勢と財力を欲しいままにした藤原兼家は、当然の如く女好きな男でもあり、藤原道綱母は『兼家の浮気癖』に悩まされ続け、『蜻蛉日記』に兼家との結婚生活の不満・嫉妬を書き綴ったりもしている。日本一とも言える朝廷の権力者である藤原兼家の妻となった道綱母は、必ずしも幸せで穏やかな結婚生活を送れなかったようであるが、この歌が詠まれた天暦9年(955年)初頭の経緯は『蜻蛉日記』の上巻に記されている。

天暦9年8月に、難産の末に藤原道綱を出産した道綱母だったが、9月頃に兼家の手箱の中に他の女に送ろうとしていた手紙を発見し、次第に兼家が自分の元を訪れる頻度が減っていた。用事があるから会えないという兼家の様子を怪しんだ道綱母が、使いの者に兼家の後をつけさせると、兼家は町の小路にある浮気相手の女の家へとそそくさと姿を消してしまったのだった。この『嘆きつつ ひとり寝る夜の あくる間は いかに久しき ものとかは知る』という歌は、そんな夫・兼家の浮気に嫉妬して怒っている道綱母が、自分の苦しい心中を察して貰おうと思って詠んだ歌なのである。しかし、その道綱母の必死の訴えが、女好きの権力者である兼家の心に届いたかというと微妙なのである。

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