73.前権中納言匡房の歌:高砂の尾の上の桜咲きにけり~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤和俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『73.前権中納言匡房の歌:高砂の尾の上の桜咲きにけり~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ

前権中納言匡房(さきのごんのちゅうなごんまさふさ)

たかさごの おのえのさくら さきにけり とやまのかすみ たたずもあらなん

高い山の峰にある桜が見事に咲いたものだ。人里に近い山の霞よ、どうか立たないで美しい桜の姿を見せていて欲しい。

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[解説・注釈]

前権中納言匡房(さきのごんのちゅうなごんまさふさ,1041~1111)は、平安時代後期の漢学者の大家として知られる大江匡房(おおえのまさふさ)のことである。大江匡衡(おおえのまさひら)と59番作者の赤染衛門(あかぞめえもん)の曾孫に当たる人物で、幼少期から学問の才能に抜きん出た神童として評価されていたという。

後三条天皇に重用されたことで政界でも改革の大鉈を振るったことで知られ、勢威のある時には藤原摂関家も干渉しづらいほどの発言力を持っていたとされる。当代きっての博覧強記の知識人・漢学者であり、『続本朝往生伝(ぞくほんちょうおうじょうでん)』『江家次第(ごうけしだい)』など多くの著作を後世に残している。和歌の家集にも『江師集(ごうのそちしゅう)』などがある。

『高砂(たかさご)』は、播磨国(はりまのくに,現兵庫県)にかかる歌枕として使われることもあるが、ここでは砂が積もりに積もってできた山という語源から『高い山』という意味で用いられている。『外山(とやま)』というのは、『奥山・深山』の対義語であり、人里に近い身近な山のことである。

この和歌は、人里近くにある『外山』と遠く離れた『高砂の尾の上』を対照的に呈示することで、言語的な遠近法の格調と効果を味わうことができる技巧に優れた歌でもある。出典『後拾遺和歌集』の詞書には『内大臣の家にて人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、遥かに山桜を望むといふ心をよめる』とあり、大江匡房の主人であった内大臣・藤原師通(ふじわらのもろみち)の屋敷の酒宴で詠まれた歌である。

この歌にある高い山に咲き誇る美しい山桜は、主人・藤原師通の栄耀栄華の素晴らしさを賞賛するために、分かりやすい比喩として用いられたとも解釈することができるだろう。酒の入る祝宴の席に相応しい和歌の構成が、洗練された感性と技巧の中で考えられているのである。

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