77.崇徳院の歌:瀬をはやみ岩にせかるる滝川の~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『77.崇徳院の歌:瀬をはやみ岩にせかるる滝川の~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

崇徳院(すとくいん)

せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわんとぞおもう

川の瀬の流れが速いので、岩にせき止められている滝川が二つに分かれても、いつかまた合流するように、愛しい人と別れてもまたいつか逢いたいと思う。

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[解説・注釈]

崇徳院(すとくいん,1119~1164・在位1123~1142)は、第75代天皇で、父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)である。実際は、鳥羽天皇の祖父の白河院と待賢門院璋子との間にできた子という説もあり、この疑惑が鳥羽天皇と皇子時代の崇徳院との関係を悪いものにしていた。

第一皇子だった崇徳院は5才で即位したが、不義の子とした父の鳥羽院から疎んじられて、22才の時に鳥羽院の指示で異母弟・近衛天皇に無理やり譲位させられたのである。近衛天皇が崩御すると、同母弟の後白河天皇と皇位を争って『保元の乱(1156年)』が勃発して、戦いに敗れた崇徳院は讃岐島に流されてそのまま隠岐で崩御してしまった。

この歌は、滝のように激しく流れる川があり、その川の水が岩にぶつかって二つに分かれても、再び同じ一つの流れに戻っていくということから、別れた恋人ともまたいつか再び逢うことができるというロマンスの情趣を掛け合わせている。『われても』に、『川の水の流れが岩に当たって分かれる』ということ、『愛しい恋人と別れる』ということの二つの意味が掛け合わされているのである。

この歌は、保元の乱や隠岐島への流罪の前に詠まれた崇徳院の歌であるが、ただ愛しい人との再会を願う『恋の歌』というだけではなく、どこか『崇徳院の怨霊伝説』と重ねてしまうところのある歌になっている。表面的には、別れた恋人との再会を願う歌ではあるのだが、いつか都に戻って再び権力の座に復権したいという『崇徳院の怨念・執着』のようなものも感じさせられる歌である。

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