91.後京極摂政前太政大臣の歌:きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『91.後京極摂政前太政大臣の歌:きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん)

きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねん

こおろぎが鳴いている 霜の降る寒い夜、私は狭い筵に自分の衣だけを敷いて、一人で寂しく眠るのだろうか。

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[解説・注釈]

後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん,1169‐1206)は平安末期・鎌倉初期の歌人であり、九条兼実の子として生まれ摂政や太政大臣といった朝廷の重職を歴任した。後京極摂政前太政大臣とは、藤原良経(ふじわらのよしつね,九条良経ともいう)のことである。76番作者・藤原忠通の孫でもあり、歌を藤原俊成に学んで歌壇で活躍する人物の一人となった。

漢詩や書画にも優れた才能を持ち、『新古今和歌集』の仮名序を執筆する功績も残しているが、38歳の若さで病気で急死してしまった。温厚篤実な人柄で朝廷内での貴族からの人望が厚かったとされ、平安時代末期の歌壇のパトロンとして藤原定家らを経済面で支援したともいう。

この歌は、正治二年(1200年)に編纂された『後鳥羽院初度百首』に掲載されている歌である。恋しい女性のいない独り寝の夜の寂しさを情感たっぷりに歌い上げている。共寝の時には男女は袖を重ねて寝るのだが、一人寝の時には自分の袖だけを敷いて寝ることになるという情景・心情の違いを上手く表現している。『さむしろ』というのは、『寒し』と『狭筵(さむしろ)』の掛詞である。

晩秋の一人寝の悲しみや寂しさを詠んでいるが、作者の藤原良経はこの歌を詠む直前に妻を亡くしており、良経の喪失感の悲しみという実体験を踏まえた重みのある歌だとも言える。『きりぎりす』というのは、今の『こおろぎ』のことであり、こおろぎはそのしみじみとした鳴き声から、人間と悲しみを共有できるような特別な虫としてイメージされやすかった。

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