99.後鳥羽院の歌:人もをし人もうらめしあぢきなく~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『99.後鳥羽院の歌:人もをし人もうらめしあぢきなく~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は

後鳥羽院(ごとばいん)

ひともおし ひともうらめし あじきなく よをおもうゆえに ものおもうみは

人が愛おしく思われ、逆に恨めしく思われることもある。つまらない苦しい気持ちで世の中のことを憂慮するが故に、物思いをしている自分にとっては。

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[解説・注釈]

後鳥羽院(ごとばいん,1180‐1239 在位1183‐1198)は、第82代天皇で、高倉天皇の第4皇子として生まれた。歌道に深い興味と造詣を持っていた天皇であり『和歌所』を設置して『新古今和歌集』を勅撰している。後鳥羽院は藤原定家を高く評価して抜擢した天皇であるが、後年は定家と衝突することとなり関係は急激に悪化してしまった。

撰者の藤原定家もまた後鳥羽院に対して『愛憎半ばの感情』を持っていたはずで、その定家が敢えてこの後鳥羽院の歌を選んだというところに歴史的な情趣を感じることができる。

1221年の『承久の乱』で鎌倉幕府(執権の北条義時)に敗れて隠岐島に配流されており、その地で崩御した悲劇の法皇としても知られる。

治世の君主としての立場で世の中を眺めて、幕府が朝廷を圧倒していくどうにもならない状況を前に物思いに耽っているという『帝王の歌』である。人間のことが愛おしくも思えるし、憎らしくも思えるという矛盾した『感情の両価性』は、当時の後鳥羽天皇の率直で複雑な感情の吐露として受け取ることができるだろう。

人臣の上に立つべき身でありながら、鎌倉幕府の強大化を前にしてどうするべきか煩悶し、周囲にいる人たちへの愛おしさと憎らしさとが募っていく、王権が衰退していく時期の帝王ならではの孤独感・責任感・不安感・苛立ちといった複雑な思いが見事に詠まれている。

後鳥羽院は『政治的な野心』と『芸術的な造詣(和歌・蹴鞠・弓馬・相撲など)』の両面において抜きん出ていた英主であったが、時代の趨勢には抗えず鎌倉幕府との戦いである『承久の乱(1221年)』に敗れて隠岐に流されてしまう。流された隠岐島で詠んだ歌を集めた『後鳥羽院遠島百首』という歌集も編まれている。

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