100.順徳院の歌:ももしきや古き軒端のしのぶにも~

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優れた歌を百首集めた『小倉百人一首』は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した公家・歌人の藤原定家(1162-1241)が選んだ私撰和歌集である。藤原定家も藤原俊成の『幽玄(ゆうげん)』の境地を更に突き詰めた『有心(うしん)』を和歌に取り入れた傑出した歌人である。『小倉百人一首』とは定家が宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の要請に応じて、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)にあった別荘・小倉山荘の襖の装飾のために色紙に書き付けたのが原型である。

小倉百人一首は13世紀初頭に成立したと考えられており、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院までの優れた100人の歌を集めたこの百人一首は、『歌道の基礎知識の入門』や『色紙かるた(百人一首かるた)』としても親しまれている。このウェブページでは、『100.順徳院の歌:ももしきや古き軒端のしのぶにも~』の歌と現代語訳、簡単な解説を記しています。

参考文献
鈴木日出男・依田泰・山口慎一『原色小倉百人一首―朗詠CDつき』(文英堂・シグマベスト),白洲正子『私の百人一首』(新潮文庫),谷知子『百人一首(全)』(角川文庫)

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[和歌・読み方・現代語訳]

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

順徳院(じゅんとくいん)

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なおあまりある むかしなりけり

宮中の古い軒端に生えている忍ぶ草のように、いくら偲んでも偲びきれない昔の素晴らしい御代であるな。

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[解説・注釈]

順徳院(じゅんとくいん,1197‐1242 在位1210‐1221)は、第84代天皇で後鳥羽天皇の第3皇子である。父の後鳥羽院に協力して『承久の乱(1221年)』で鎌倉幕府に敗れて佐渡に配流されたが、そのまま佐渡ヶ島の地で崩御した。

この歌は、建保四年(1216年)に順徳天皇が20歳の時に詠まれたもので、次第に京都の朝廷と鎌倉幕府との関係が緊張感を強めていた時期でもある。順徳天皇は王権が磐石であった『昔の天皇の治世・御代』への憧れと尊敬の思いを歌で詠み上げており、順徳天皇が憧れていた過去の治世というのは『延喜・天暦の治(醍醐天皇・村上天皇)』『天智天皇・持統天皇』ではないかと推測される。

古代中国の春秋戦国時代においても、過去の周王室が主宰する政治秩序に戻ることが正しいとする『復古主義・王室尊重』の権威主義的な価値観が見られ、儒教の孔子が『周礼(周の礼制・治世)への回帰』を政治の理想として説いたりもした。古代日本のヤマト王権から平安時代中期までは、天皇家(皇室)・藤原氏が主宰する朝廷を中心とした政治秩序が確立していたが、次第に武力を掌握した武士が台頭して公家を圧迫し、天皇の王権が衰退して武士の幕府が政治支配の実権を握るようになっていった。

順徳院はこういった王権の衰微と武士の増長を嘆いており、天皇家の権威権力が最盛期にあったと思われる『過去の治世』を理想化して追慕しているのである。藤原定家が選集した『百人一首』は、王権が強大であった『天智天皇・持統天皇の歌』から始まり、王権が衰微して遂には家臣であるべき武士と戦う羽目になって島流しにされた『後鳥羽院・順徳院の歌』で締めくくられている。この歌の配列は、天皇・朝廷の権威の歴史的変化を示唆するような定家の考えがあってのことだろう。

順徳院は頭脳明晰で決断力のある天皇だったと『増鏡(ますかがみ)』では伝えられており、歌人・学者・文化人としても活躍している。和歌に関連する著作には、歌学書『八雲御抄(やくもみしょう)』、家集『順徳院御集』を書いている。順徳院が書いた朝廷の有職故実(ゆうそくこじつ)の研究書である『禁秘抄(きんぴしょう)』は、非常に文化的・歴史的な価値のある書物である。

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