縄文時代・弥生時代の日本の食文化と稲作(米)の伝来

日本列島で紀元前1万5000年頃に始まったとされる『縄文時代』は、簡素な文様の縄文土器と石を擦って尖らせた磨製石器、竪穴式住居での定住、雑多な物があるゴミ捨て場の貝塚、狩猟採集文化(縄文末期には局所的に農耕文化も出現)を特徴とする新石器文化の時代です。

かつて縄文時代は獲物が不安定な狩猟、低カロリーな木の実や野生の果物・山菜が中心の採集に頼っているため、食生活が貧しくて飢えている人や早死にする人が多かった時代と考えられていました。しかし、現在では縄文時代の食生活が弥生時代以降の時代よりも貧しかったという仮説は否定されつつあります。

縄文時代の人骨の化石は『歯のエナメル質』が極端に摩耗しておらず、食べられないほどに固い木の根や皮、骨などを無理矢理に食べていた痕跡がないと言われています。縄文時代は辺り一面が氷原に覆われていた(耐え難いほどに寒冷な気候で食べられる動物も植物も少なかった)氷河期の末期に当たり、次第に温暖で湿潤な気候へと変化していく中で、豊かな自然環境と山林・水源(河川)の恵みを最大限に享受することができたと推測されています。

中東をはじめとするユーラシア大陸では『乾燥気候による食料減少・戦争や飢餓による生存の危機』に晒されましたが、温暖湿潤気候で河川(水源)の多い日本列島は『自然が生み出す四季の恵み・旬の食材・人口規模の小ささ』によって比較的豊かな狩猟採集文化を形成することができたと考えられています。

物質的に豊かな現代の進歩主義の価値観を前提にすれば、狩猟採集文化の縄文時代は農耕文化の弥生時代よりも劣っている未開文化(文化の停滞)だと思い込みやすいのですが、視点を変えれば縄文時代というのは『農耕牧畜といった不断の労働・階級社会や蓄財の支配構造』がなくても、一万年以上にわたって日々の食料を賄うことができた豊かで安楽な時代という見方もできるわけです。

縄文時代から弥生時代の日本列島は、『複雑な地形と海岸線・南北の気候(稲作文化の適性)の違い・急峻な山並みや河川』といった特徴を持つ多文化が併存する社会を構成しており、九州・近畿から関東南部にかけての『稲作文化(瑞穂の国)』と関東北部・東北・北海道の『畑作文化・狩猟採集文化』とに大きく分かれていきました。

約5500年前から約4000年前まで続いたと見られる青森県の三内丸山遺跡には、栗の木が栽培されたと見られる跡地が残されており、同時期に当たる縄文時代中期には九州地方の南部や周辺の島嶼部で、熱帯地方を原産地とするサトイモが栽培されて大量に食べられていたといいます。縄文時代という自然に自生している植物を採取して食べるだけの原始的な時代というイメージで語られがちですが、約5000年ほど前には人間が自分たちのために植物の木や苗、種を目的を持って植えるという『農業の原初的形態』が見られ始めていたのです。

無論、東西の気候の違いによる稲作・畑作・狩猟採集の区分だけではなく、海・川に近い地域では『漁業・貝の採取』が盛んに行われ、山・森に近い地域では『イノシシやシカの狩猟・木の実や山菜の採取』によって食料を確保していました。縄文時代の貝塚に捨てられている獣の骨を見ると、最も沢山食べられていたのは肉量・脂肪が多いシカ(鹿)とイノシシ(猪)であり、『肉』を古語では『シシ』と呼んでいました。縄文時代の肉食文化では『肉』以上に、必須栄養素である塩分・ミネラルを摂取するための『内臓・骨髄』を食べることが盛んに行われていました。

イノシシの語源は『猪の肉(いのしし)』であり、シカも古代には『鹿の肉(かのしし)』と呼ばれる事がありました。6世紀に殺生戒・肉食禁忌を持つ仏教が朝鮮半島から伝来すると、日本(特に朝廷の公家・貴族)では肉食文化が急速に廃れていきましたが、山林に近い村里では依然としてイノシシやシカの肉が食べられ続けました。イノシシは海の鯨(くじら)に匹敵する栄養分の高い肉の食材として、村人たちから『山くじら』と呼ばれ重宝されていたのです。

イノシシとシカ以外にも、ウサギやネズミ、イタチ、タヌキ、キツネ、モグラ、キジ、カラス、ハトなどありとあらゆる野生動物の肉が縄文時代には食べられており、アイヌの遥か遠い祖先に当たると見られる北海道の原住民はエゾシカとサケを大量に食べていました。アイヌの神話的な伝承では、カムイがエゾシカとサケの骨を撒いて繁殖させたと伝えられており、アイヌの先祖たちにとって貴重なタンパク源として食べられていた事が分かります。

魚介類の海洋生物も食べられていて、海・内湾・河川・湖沼などの水場が近い土地では『漁業・釣り』が行われていました。北海道・東北地方の沿岸部では、ある程度まで遠い沖合に出て魚を取る外洋漁業も実施されていました。日本各地で海水と淡水に棲む魚介類が食材として活用されていたのです。サケやカツオ、イワシ、マグロ、コイ、フナ、フグ(フグ毒を取り除く技術・知恵があったかは不明)など40種類以上の魚類、アサリやハマグリ、カキ、サザエ、シジミ、タニシなど300種類以上の貝類の骨や貝殻が貝塚には残されています。

木の実では大量に採取できるトチの実やドングリ(カシの実)が食べられていましたが、そのままではアク(苦味・渋味)が強すぎて食べられないので、乾燥させた後に水に何日も漬け木灰を加えるなどして、『アク抜き』に手間暇をかけていたようです。縄文人が住む竪穴式住居の真ん中には、直径1メートルほどの『炉(囲炉裏)』があり、この炉の火で食べ物を煮炊きしたり暖房・照明にしたりしていました。縄文時代には木の実や山菜、肉・魚は『生食』はせずに、縄文土器を炊事道具(鍋)にして、火を通してから食べていた(味覚的な美味しさもありますが食中毒・消化不良の胃腸障害・感染症を防ぐため)と考えられています。

紀元前4~3世紀頃の弥生時代に入ると、九州・近畿地方の西日本を中心にして稲作文化(水田耕作)が普及し始め、日本は次第に『米中心の食文化・米社会=瑞穂(みずほ)の国』へと移行していくことになります。現在では縄文時代の九州北部でも、水田での稲作が行われていた可能性が指摘されていて、縄文時代と弥生時代の境界線はやや曖昧になっていますが、日本に稲作が輸入されたのは紀元前5世紀前後だと推測されています。最初に水田耕作の稲作が始められたのは、朝鮮半島に近い九州北部であり、福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)や佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)に水田の遺構らしきものが残されています。

九州北部から瀬戸内海沿岸、近畿地方、東海地方(濃尾平野)、関東地方(関東平野)へと約100年間のスパンで稲作(米文化)は急速に伝播していきましたが、この稲作の短期間での伝播・普及には、中国大陸や朝鮮半島から渡ってきた元々米を作っていた人たちが関係していたのではないかと考えられます。米・稲作の伝達経路については、中国大陸の河母渡遺跡(かぼといせき)から直接伝来してきたという説、中国大陸から朝鮮半島を経由して伝わってきたという説がありますが、(先史時代であり文献資料・公的書類などは何もないため)正確な米の伝達・伝播の経路は解明されていません。

720年に編纂された『日本書紀』では、葦原中国(あしはらのなかつくに)にいる食べ物の神様である保食神(うけもちのかみ)が、月夜見尊(つくよみのみこと)に誤解から殺されてしまい、その遺体の腹部から水稲(コメが実った稲)が生えてきたと伝えられています。

保食神は月夜見尊をもてなすために、国の方角を向いて『飯(いい)』、海の方角を向いて『鰭(はた)の広(ひろもの)と狭(さもの)』、山の方角を向いて『毛の麁(あらもの)と柔(にこもの)』といった食べ物を口から吐き出したのですが、口から出てきた食べ物を不浄・無礼と感じた月夜見尊から切り殺されてしまったのです。保食神の遺体の頭からは牛と馬、目からは稗(ひえ)、額からは粟(あわ)、眉からは蚕(かいこ)、腹からは米・稲、陰部からは麦・大豆・小豆が発生して、天照大神(あまてらすおおみかみ)はこの食料をとても喜んで人民の食べ物にしたと伝えられています。

稲作(米づくり)が始まってからの日本列島は、『国(平野)』で米・稲・麦の穀物が作られるようになりましたが、『海』では魚介類を取るための漁業・漁撈(ぎょろう)が行われ、『山』では鳥獣を捕獲するための狩猟や木の実・山菜の採集が引き続き行われていたのです。紀元前4~3世紀頃から紀元3世紀頃までを『弥生時代』と呼んでいますが、当時の日本列島は祭祀に使われていた祭器の違いにより、『銅矛・銅戈(九州北部)』『銅鐸(近畿地方)』『平型銅剣(瀬戸内海沿岸)』といった文化圏に分かれていたと考えられています。

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