塩野米松『登頂 竹内洋岳』の感想

以下は、『登頂 竹内洋岳(塩野米松著,筑摩書房)』の紹介と感想になります。

竹内洋岳(たけうちひろたか)は、日本人で初めて8000m峰の全14座に登頂したプロ登山家である。2012年5月26日にダウラギリ(8167m)に登頂したことで、地球上にある8000m峰全14座を登り切ることに成功した。竹内は『日本人初の8000m峰全14座登頂の記録』について、9座まで登頂した後に亡くなった山田昇(やまだのぼる,1950-1989)・名塚秀二(なづかひでじ,1956-2004)に続いて全14座を登ろうとした日本人がいなかったことが、自分が初になれた最大の理由だと語る。また、現代の軽量かつ高性能な登山の道具や世界の高山に関する豊富な情報があったからこそ、自分は全14座登頂を成し遂げられたのだと謙遜した口調で語っている。

1986年10月16日、世界で初めて8000m峰の全14座を無酸素で登りきったのは、イタリアの登山家ラインホルト・メスナー(1944-)であり、メスナーとイェジ・ククチカ(2番目に全14座登頂をしたポーランドの登山家)に続いて現在まで30人の登山家が全14座を登頂していて世界的に見れば珍しい記録ではないのだという。日本人のクライマーで達成した人がいなかったことを恥ずかしく思っていた竹内は、『全14座を必ず登り切る』という強い覚悟と決意を持って成し遂げたのだが、世界でそれまでに29人の登山家が達成していた記録とはいえ、8000メートル以上の超高山に遭難せずに無事に登り切るというのは、当たり前のことながら簡単・容易なことではない。

竹内洋岳は、『マカルー→エベレスト→K2→ナンガパルバット→アンナプルナ→ガッシャブルムⅠ峰→シシャパンマ→カンチェンジュンガ→マナスル→ガッシャブルムⅡ峰(雪崩遭難に見舞われて背骨・肋骨を骨折する大怪我をしたが1年後に再度挑戦して登頂)→ブロードピーク→ローツェ→チョー・オユー→ダウラギリ』という順番で8000m以上の高山の全14座に登頂している。

本書は、著者・塩野米松がプロ登山家の竹内洋岳から8000m峰の登山体験を聞き書きするというスタイルで書かれており、竹内のブログや他の関係者のインタビューからの情報も組み合わせて、超高所での生き生きとした体験や感情を再現している。『竹内本人の生の声・感想・体験談』に触れられる興味深い本に仕上げられているが、8000メートル峰の12座登頂までの経緯を記した塩野の前作『初代 竹内洋岳に聞く』の続編として読むことができる。本書は残された2座であるチョー・オユー(8201m)ダウラギリ(8167m)に対する挑戦がメインになっており、超高所登山の限界状況の厳しさやその時の気持ち・興奮が臨場感を持って伝わってくる。

第一章では、8000m峰の山や登山、環境がどういったものなのかという経験談を踏まえた概略が記されているが、森林限界を遥かに超え、地上の3分の1以下の酸素濃度しかない8000m以上の峻厳な環境にまで入れる動物は、人間以外にはアネハヅルとインドガンの鳥しかいないのだという。アネハヅルとインドガンは渡りの本能と必要性によってヒマラヤ山脈の8000m峰を仕方なく飛び超えていくが、何の必要性もないのに自ら好き好んで積極的に8000m峰の世界に踏み込もうとする物好きな動物は『人間』だけというのは面白い。それだけ、人間の極限状況に対するチャレンジ精神や好奇心が強いことの現れでもあるが、8000mという高度は『高度順化』を段階的に行わなければ、ものの数十分で人間が簡単に死亡してしまうような環境なのである。

8000m以上の高さの場所は、酸素濃度が極めて低くて高山病になりやすいだけではなく、人が吹き飛ばされるようなジェット気流が吹いたり、気温がマイナス20度から30度にまで低下したりするような過酷な環境条件の場所である。第一章では、ベースキャンプ(物資の補給拠点)を段階的に目的地に近づけていく、登ったり下りたりしながらキャンプを前進させていく『極地法』とベースキャンプから一気に頂上を目指して下山してくる『アルパインスタイル』の違いについて説明されている。現代の高山登山では『無酸素+アルパインスタイル』が一流の登山家のスタイルとして定着している観はある。

ベースキャンプを小刻みに前進させて、大量の荷物・物資を集積させていく極地法のほうが安全性は高いが、大勢の人員(シェルパの労働力)と大量の物資を必要とするのでコストが高くなるだけでなく、『登山家個人の力量』が分かりにくくなるという問題もあるのだろう。竹内氏が語るように極地法でしか登れないような距離の長いルートもあるし、一概に極地法よりもアルパインスタイルのほうが優れているとか劣っているとか断言できる種類のものではない。だが、『他人の労働力をできるだけ借りない・いったん登ったキャンプの地点から何度もベースキャンプに下りない・自分たちの力で登頂したという登山家個人の力量を見せやすい』といったところからアルパインスタイルにこだわる登山家が多くなる。

ピンキリである8000メートル以上の高山の登山費用についての話も興味を惹かれるが、無酸素でシェルパを使わず、特別な道具も新たに調達しないという条件であれば、“100万円前後”くらいで8000m峰にチャレンジできるのだという。反対に、安全性・快適性・支援性を強化して、『酸素量を多くしたい・複数のシェルパに案内されて支援して貰いたい・最新の専用の道具を揃えたい』といったことになると、500~600万円以上くらいのコストは覚悟しなければならないようだ。無論、竹内洋岳氏らが挑戦している低コストのアルパインスタイルの8000m峰の登山は、一般的な登山家が容易に真似できるものではない、シェルパもつけず酸素ボンベも持たないという厳しい条件だと、日本の3000m峰の冬山にある程度登り慣れている人でも恐らく無理なのではないかと思う。

13座目のチョー・オユー登山では、それまで長年パートナーを組んでいたラルフ・ドゥイモビッツ(1961-)ガリンダ・カールセンブラウナー(1970-)が既にチョー・オユーとダウラギリに登っていた事もあって、ブログで新たに別のパートナーを募集することにした。ネパールの首都カトマンズに集合・解散で、年齢・性別・経験は不問、資金はなければ貸し付けも可能という条件で、竹内洋岳はチョー・オユー登山のパートナーを募集したのだが、8000m峰でこういったパートナー募集は異例の試みだろう。

竹内はヒマラヤ登山に触れる人がもっと増えて欲しい、自分がしてきた面白くて感動的な登山の体験をもっと他の人にも多く伝えていきたい、ヒマラヤ登山に挑戦したいけれどその機会が得られない人にきっかけを与えてやりたいといった思いから、ブログを介した『登山パートナーの一般公募』に踏み切ったということである。 『経験不問』とはいっても、普段、夏山や低山を登っているような一般の素人登山者が、チョー・オユーの無酸素登頂を目指す登山に無謀な応募をしてくるとも思えず、やはりそれなりに登山のキャリアがあり体力・技術にも自信がある人でないと応募する勇気はでないだろうが。

11人の有効申込み者の中から3人に絞り込まれ、その3人に一緒に残雪のある高山に登山をして貰ってレポートを提出するという課題が出されたが、最後に選ばれたのは仙台市在住でアコンカグアとマッキンリーの登山経験がある阿蘇吉洋(あそよしひろ,35歳)だった。竹内洋岳と山岳写真家・中島ケンロウと阿蘇吉洋の『トンチンカン・コンビ』で、チョー・オユー登山にチャレンジした様子が『第3章 チョー・オユーへ』に詳しく書かれているのだが、国内外で相当な登山経験があり山岳マラソンもやっている阿蘇吉洋が、全く竹内・中島のペースについていけないなど、8000m峰の登山の特殊な条件や厳しさが伝わってくる。

特に竹内洋岳という登山家の異常なまでのタフネスと身体能力の高さ、高度順化のスムーズさが印象的であり、6000~7000メートルくらいの高所で阿蘇・中島が『高度順化による体調不良』に喘いで寝込んだり苦しんだりしている時に、竹内氏だけはピンピンとして元気な様子なのである。阿蘇氏は登山・移動のスピードがどうしてもでないということに苦しめられてしまうが、それでも竹内・中島の3倍以上の長い時間をかけてでも必ず追いついて登ってくるという点では並外れた精神力というか根性・気合を持った登山家である。竹内氏が『諦めて途中で帰ってしまったのかと思った』と思うくらいに阿蘇氏は遅れに遅れているのだが(地元のおじいちゃん・おばあちゃんにも追いつけないくらいにへばっているのだが)、10時間以上の時間をかけて歩き続け、ベースキャンプからC1にまで諦めずに登ってくる。

結局、1回目のチョー・オユー挑戦は『気象条件の悪さ・雪崩リスクの判断』によって断念せざるを得なくなるのだが、阿蘇氏はスピードの遅さによって時間的に生還することが困難だということで、サミットプッシュに参加できなかったのは残念である。登頂を断念する場面では、竹内氏でなければ見抜けなかった『雪崩の後の二次的な雪崩発生のリスク(上部にある氷・雪の塊の不安定さ)』がでてくるのだが、中島氏が『自分だけであれば気づかずに進んでいただろう』と述べる一方で、竹内氏は『危険地帯に10歩も踏み込んでしまったこと(雪崩に遭遇しなかったのは運が良かっただけということ)の後悔』について何度も言及している。

確かに、急いで通り過ぎれば雪崩を回避してもっと前に進めたかもしれない、だが、雪崩が起こるリスクが一定以上に高いと判断される時には速やかに退却すべきであるという竹内氏の登山に対する慎重な姿勢(生命を捨てるような一か八かの登り方の否定)が伝わってきた。2回目の臥薪嘗胆となるチョー・オユー登山は、竹内洋岳と中島ケンロウの二人で挑戦するのだが、写真家の中島ケンロウの学生時代からの履歴や経験、竹内との出会いなどについてのエピソードも書かれている。山岳系の旅行代理店のウェックトレックに就職する前には、消防署の就職に決まっていたが、ネパールの海外登山のために消防署の内定を蹴ったのだという。

中島氏から見た竹内洋岳の最初の印象は、『普段は何もトレーニングをしてなさそうだし、見た目もヒョロヒョロしているし、本当に山に登れるのだろうか?』というものだったそうだが、実際にチョー・オユー登山を一緒にしてみると『竹内氏の高度順化の早さ・歩く登る速度の速さ』が超人的に並外れていて驚かされている。チョー・オユーの頂上はだだっ広い台形上でどこが頂上なのか分からないくらいの広さだというが、竹内氏は頂上からC2へ降りる途中で『道迷い』をしてしまう。8000mの高さでの道迷いだから、下手をすれば死んでしまう致命的なミスであり、実際、竹内氏は丸二日間、若干の睡眠を取りながら歩き続けてバテバテになってC2に帰ってきた。

仮眠を取っていた場所で顔見知りのシェルパに会って下山を急かされなければ、竹内氏は落命していた可能性もあるが、ここで竹内氏を救ったのは『偶然の幸運』と『400mを登り返すという判断』だった。竹内氏は道に迷って何度も幻覚に襲われて、右足が凍傷になりながらも、何とか生還して最後のダウラギリに挑むことになった。普通の登山でも自分が道迷いをしたかもしれないと思って、来た道を引き返してもう一回登り返すというのは『面倒できつい判断』であり、ついつい『もう少しこの道を歩いたら降り口が見つかるんじゃないか』という甘くて楽な判断に傾いてしまう。しかし、この時の竹内氏がその甘くて楽なほうの判断をしていたら、それ以上進めない場所で行き詰まってしまい命を落としていた可能性が高いだろう。

竹内氏はチョー・オユーについて、『8000m峰の中では登りやすい山というイメージがあるが自分はそうは思わない』と語り、チョー・オユー登頂の難しさの理由として『頂上付近の土地の広さ(8200mの高さから頂上まで二時間も歩く広さ)』を上げている。『超高所での滞在時間の長さ』はそのまま体調悪化のリスク、つまり、生存確率の低さにつながってしまうということである。14座の最後になるダウラギリでも、C4からC3のルートを見失ってしまうピンチに陥るが、この時は完全な道迷いではなく『正しいルートの上にいること』がわかった上でのルートのロスト(C3からヘッドトーチが確認できる)だったので、一晩のビバーク後(雪中での過酷な立ち寝だが)に何とか自力で下りてくることができたという。

日本人初となる8000m峰の全14座登頂を成し遂げた竹内洋岳だが、彼は最後のダウラギリを登った時に『14座という山』はなく『ダウラギリという山』を登ったのだと語っており、一つ一つの個性ある山を楽しみ抜くこと、その個性を味わうことを重視している。

『スポーツとしての登山』にも全身全霊で取り組んでいる竹内氏だが、『無二の個性を持つ山・自分自身との戦い』と真摯に向き合っていて、本書を読むと改めて『登山の魅力・厳しさ・味わいの奥深さ』を教えられたような気持ちになる。竹内氏には、自分だけではなく他の人にもヒマラヤの高山を登る挑戦や感動の素晴らしさを伝えようとするオープンな姿勢があり、『竹内氏のパートナー募集』に応じた阿蘇吉洋氏の頑張りと根性にも感動させられた。全14座登頂の記録に頓着せず止まることのない竹内洋岳は、次はどの山に登ろうとするのだろうか。

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