阿寒岳(あかんだけ,雄阿寒岳1370m・雌阿寒岳1499m)

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阿寒岳の標高・特徴・歴史

阿寒岳の標高は、『雄阿寒岳1370m・雌阿寒岳1499m』である。登山難易度は、雄阿寒岳は中級者向け、雌阿寒岳は初級者向けの山である。阿寒岳は、マリモで有名な阿寒湖を挟んで夫婦のように並んで聳える二つの山から構成されている。

阿寒岳の登山口のアクセスは、JR北海道・根室本線の『釧路駅(くしろえき)』が起点となる。雄阿寒岳へは、『釧路駅から滝口までの阿寒バス(約2時間)』である。雌阿寒岳へは、『阿寒湖畔温泉から雌阿寒温泉までのタクシー(約20分)』『阿寒湖畔温泉から阿寒湖畔登山口までのタクシー(約20分)』『阿寒湖畔温泉からオンネトーまでのタクシー(約20分)』である。

アイヌの伝説では、大昔にこの土地にいたカムイ(神)たちが荒れ狂う海を見て穏やかな大地を作ろうと話し合い、『阿寒湖・雄阿寒岳・雌阿寒岳』を創り出したとされている。アイヌ語でも雄阿寒岳は『ピンネシリ(男山)』、雌阿寒岳は『マチネシリ(女山)』と呼ばれていた。雌阿寒岳の周囲には、阿寒富士(1476m)、フップシ岳(1226m)、フレベツ岳(1098m)などの山もある。

雄阿寒岳は、円錐状のがっしりとした印象を与える独立峰の凛々しい山容である。雌阿寒岳は、雄阿寒岳と比較するとなだらかな険しさの乏しい山容であり、どこか女性らしい感じを受ける山である。どちらも火山だが、雄阿寒岳は活動停止しており、雌阿寒岳は今も活動中であり緩やかに噴煙が上がり続けている。

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雄阿寒岳は『阿寒湖・ペンケトー(上沼)・パンケトー(下沼)』といった湖沼に囲まれた円錐形をしたフォルムの美しい独立峰で、登山口から登り始めるとすぐに『太郎湖・次郎湖』が見えてくる。雄阿寒岳はエゾマツやトドマツなどの針葉樹林にブナ林が混じった美しい混交樹林帯を持っており、八合目辺りまで登り詰めると雌阿寒岳のなだらかな景色が目に飛び込んでくる。

雌阿寒岳の山裾には北海道三大秘湖の一つとされる『オンネトー(アイヌ語で大きな沼・年老いた沼)』が広がっているが、オンネトーは過去の噴火活動で土砂が堆積して造られた神秘的な自然湖である。雌阿寒岳はアカエゾマツを中心とした鬱蒼とした広い針葉樹林帯を持ち、メアカンフスマやメアカンキンバイといったこの山の固有種の高山植物も見つけることができる。

頂上付近の火口壁では、秀麗な整った形をした『阿寒富士』を背景に眺めながら、火口から噴煙が立ち上がっている壮大な景観を楽しむこともできる。雌阿寒岳の火口内部には『青沼・赤沼』という火山性の沼も形成されており、頂上からは阿寒湖を挟んだ雄阿寒岳の凛々しい山容も眺められる。

阿寒湖はマリモで知られるが、湖の最深部は深さが44mもあり、湖水の酸素濃度は日本で一番高い。阿寒湖には、チャーター便の船で渡ることのできる『ヤイタイ島』が浮かんでおり、ヤイタイ島には龍神を祀った『白龍神社』が建てられている。湖の東端には、火山活動によって泥湯が煮立って噴出している『ボッケ(アイヌ語で煮え立つという意味)』を見ることもできる。

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深田久弥の阿寒岳への言及

深田久弥は著書『日本百名山』で、阿寒湖を昭和以前の明治~大正期には誰も訪れる人もなかった鄙びた僻地として記述している。阿寒湖が観光地として栄えるきっかけとなったのは昭和9年(1934年)に国立公園に指定されたことであり、昭和前期には夏場はずっと前から予約していなければ旅館を取ることができないほどの賑わいを見せたのだという。

観光客の大多数はいわゆる『登山客』ではないので、雄阿寒岳・雌阿寒岳に実際に登ろうとする人は当時もほとんどいなかった。観光客のお目当ては阿寒湖の二大名物として知られていた『マリモ』『石川啄木の歌碑』であり、歌碑には『神のごと 遠く姿をあらはせる 阿寒の山の雪のあけぼの』という歌が刻まれていた。

深田久弥は阿寒湖の観光地化や石川啄木の歌の商業的利用には冷ややかな態度を示しており、石川啄木はただ釧路の海上から遠くに阿寒岳を望んだだけであり、実際に阿寒湖には訪れていないのだと皮肉交じりに語っている。深田は阿寒湖と直接の由縁がない石川啄木よりも、むしろ幕末の蝦夷地の探検家・松浦武四郎(松浦竹四郎,まつうらたけしろう)の詩碑のほうが歴史的・文化的に重要だとしている。

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松浦武四郎は江戸末期の弘化2年(1845年,27歳の時)から安政5年(1858年)まで、当時未開のアイヌ人の土地であった蝦夷地(えぞち)を探検した人物であり、松浦武四郎は阿寒湖を訪れただけではなく、雄阿寒岳に登ったとも伝えられている。釧路市の丘の上にある公民館の前庭には、小さな松浦武四郎の銅像が建てられているというが、深田は『阿寒湖の方角を睨み、片手に筆、片手に帳面を持った和服姿の銅像』を気に入っていたようである。松浦武四郎の銅像の傍らには、一人のアイヌ人がかしずいていて、道を教えるように阿寒湖側を指さしている。

深田久弥が阿寒岳を訪れたのは昭和34年(1959年)の夏だが、その時にはちょうど雌阿寒岳が火山活動を活発化させて噴火していた。雌阿寒岳は噴火のために『登山禁止』になっていたので、深田が実際に登ったのは円錐型の雄大な山容をした雄阿寒岳だけである。雌阿寒岳は登山の歩行距離は長いが、なだらかなので散策的登山(トレッキングの登山)をしやすいと語っている。雄阿寒岳は標高は雌阿寒岳よりも低くて距離も短いけれど、急峻な地形をしていて険しいという印象を持っている。

雄阿寒岳の頂上は岩だらけで、岩間からチシマギキョウの可憐な紫の花を見ることができたが、生憎(あいにく)の霧で頂上からの展望は全く得られなかったという。深田は雄阿寒岳の頂上でたっぷり二時間を過ごして、東の大原始林から熊が出現するのではないかとヒヤリとした気分を味わい、湖畔へと下る『新道』を泥まみれになりながら下山した。自分一人で孤高の境地を満喫した雄阿寒岳の頂上では、下界にいる『俗な観光客の群れ』を想像して、ここまで登ってくる人間が自分以外にほとんど誰もいないことにまた満足している。

帰り道では、復元された人工のアイヌ部落に立ち寄り、草葺きの家屋、熊の彫刻を作っているアイヌ風の民族衣装をまとった人を見ているが、『一種のショー(紛い物)に過ぎない』と深田の視線は冷めていたようだ。釧路から弟子屈(てしかが)にかけての原始林の素晴らしさを賞賛しながら、双湖台からパンケトー、ペンケトーの湖沼を眺め、深田は次の観光地である摩周湖(ましゅうこ)へとバスで移動していった。

参考文献
深田久弥『日本百名山』(新潮社),『日本百名山 山あるきガイド 上・下』(JTBパブリッシング),『日本百名山地図帳』(山と渓谷社)

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