RCC(ロッククライミング・クラブ)と藤木九三

RCC(ロッククライミング・クラブ)・藤木九三とは何か?

RCC(Rock Climbing Club)とは、設立当時において先鋭的な岩登りをすることを目的としたクラブで、大正13年(1924年)に藤木九三(ふじききゅうぞう,1887-1970)を筆頭とする関西地方のクライマーたちによって兵庫県神戸市で設立された。これは日本で初めて技術水準と教育指導を重要視した本格的な岩登りのクラブであり、日本のロッククライミングの歴史の起点となったクラブとも言われている。RCCは、新田次郎の小説『孤高の人』のモデルになった登山家・加藤文太郎が所属していたことでも知られる。

京都府福知山市に生まれた藤木九三は、大正から昭和前半を代表するロッククライマーであり、朝日新聞社の記者の仕事をしながら日本初の岩登りを主題とするRCCを立ち上げたことで知られる。東久邇宮の登山に随行する特派員として、1916年に槍ヶ岳に登っているが、馴染みの深い六甲山の岩場を『ロック・ガーデン』と名付けたのもこの藤木九三である。

藤木九三・水野祥太郎・西岡一雄らが活躍した初期のRCC(ロッククライミング・クラブ)は1932年(昭和7年)に解散したが、藤木は1930年春から日本を離れてパリに渡っていた。そのフランスのパリでもロッククライミングを主題とした登山を行い、1930年6〜9月にかけてモンブランのマッターホルンの岩稜を岩登りで登攀している。RCCを開設してからロッククライミングの経験と技術を積み重ねた藤木九三は、1925年に『岩登り術』という日本初となるロッククライミングの理論的・技術的な教科書とも言える書籍を書き上げている。

1925年の8月には、案内人・松井憲三を受けながら『北穂高岳・滝谷コース』の初登攀に成功している。1932年には樺太にある突岨山に登頂、1935年には北朝鮮にある白頭山に、記者として京都帝国大学の登山部の遠征に随行して登る。1936年1月には四国最高峰の石槌山に冬期の初登攀を果たしている。藤木九三らの戦前のRCCは昭和7年に解散するが、戦後になってRCCの活動を復興しようとする運動が関東の先鋭的なトップクライマーの間で起こり、奥山章・吉野満彦らの呼びかけで1958年(昭和33年)に『RCCU(ロッククライミング・クラブU)』が再設立されることになった。

当時日本を代表する一流のクライマーが集結したRCCUでは、ロッククライミングの実践的な登攀と技術的な研究、各地の実地調査を積み重ねながら、日本の主要な岩場それぞれにグレイドと呼ばれる難易度を設定した『RCCグレイド体系』を確立した。日本各地にある岩場のグレイド(難易度)について記したのが、『日本の岩場―グレイドとルート図集(山と渓谷社,1965年)』である。ヨーロッパアルプスの三大北壁の登攀を成し遂げたり、エベレストの困難な南西壁にチャレンジしたりという冒険的・挑戦的な活動も展開して、その技術的・理論的な成果を『現代アルピニズム講座(全7巻・あかね書房),1968年〜1969年』という大著にまとめたりもしている。

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