ミラノ司教アンブロシウス(340頃-397)

ミラノの守護聖人アンブロシウス
皇帝権力と対等の地位に立ったミラノ司教アンブロシウス

ミラノの守護聖人アンブロシウス

アンブロシウス(340頃-397)はローマ帝国の末期に、ガリアのアウグスタ・トリヴィノールム(現・ドイツのトリーア)で生まれ、法学・弁論学などを学んでローマ帝国の高級官僚としての道を歩みました。前半生のアンブロシウスはキリスト教徒でもなく宗教的な信仰心とも無縁でしたが、368年にシルミウムの長官となり、370年にローマ帝国西方の中心都市であるミラノの首席執政官となることで順調にローマ官僚としての出世街道を進みます。

アンブロシウスが生きた4世紀は、『一神教(キリスト教)』と『多神教(ギリシア由来の宗教)』がローマ帝国の中でせめぎ合った時代であり、唯一神を信仰する一神教と皇帝を絶対君主とする専制君主制(ドミナートゥス)が強まった時代でした。『異質な他者・対等な権力(権威)』を容認しない皇帝権力とキリスト教の権威は、ローマ帝国が伝統的に持っていた『寛容の精神』を侵食していきました。ミラノ勅令(313)でキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(在位306‐337)は、強力な宗教的アイデンティティによってローマの求心力を取り戻そうと考えていました。

原理的に他宗教と共存できない一神教のキリスト教は、ネロ(37-68)をはじめとするローマ皇帝から幾度かの迫害を受けましたが、コンスタンティヌス大帝によって公認され、テオドシウス大帝(在位379‐395)から国教化(380)されることでその影響力を強めていきます。領土が広大になり過ぎたローマ帝国は、ディオクレティアヌス帝(在位284‐305)の四分割統治(テトラルキア)の時代から東西に分裂する予兆を見せていましたが、テオドシウス大帝の死後は完全に東西に分裂します。

コンスタンティヌス大帝が建設したコンスタンティノープル(現・イスタンブール)を首都する東ローマ帝国は、キリスト教を国教とする専制君主国家となり、『異民族の同化政策』を外交の基軸とした伝統的なローマ帝国とは全く異質な帝国になりました。ミラノにおいて絶大な権力を手中にするアンブロシウスは、最大の教父アウグスティヌスやキリスト教の保護者テオドシウス大帝と同時代人であり、アウグスティヌスに対して教義上の影響を与えたといいます。アンブロシウスは、アウグスティヌスと並ぶ四大ラテン教父(ヒエロニムス・グレゴリウス1世)の一人に数えられています。

キリスト教の世界観に傾倒したテオドシウス大帝は、380年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に認定して苛烈な異教弾圧(他の宗教施設の破壊・異教徒の迫害)をスタートさせ、これ以降のローマ帝国では実質的に『信教の自由』が奪われる事態となりました。政治的には、388年に元老院議員に対して古代ローマの多神教の廃絶を承認させ、ローマ帝国内においてキリスト教以外の宗教を信仰することが禁止されることになります。これら一連のキリスト教国教化のためのテオドシウスの命令を『テオドシウス勅令』と言いますが、テオドシウス勅令を出させるためにテオドシウスを背後で操ったとされるのがミラノ司教アンブロシウスなのです。

アンブロシウスは初めからキリスト教の高位聖職者になろうとしていたわけではなく、ミラノ司教アクセンティウスが死去した後の後継人事の中で、民衆の支持を受けて浮かび上がってきたのです。民衆の熱狂的な支持を受けたアンブロシウスは、キリスト教徒になる前にミラノ司教の地位に就き、その後に三位一体派(アタナシウス派)の教義(カテキズム)を学んで洗礼を受けました。アンブロシウス自身ははじめ司教になることに乗り気ではなく、娼婦を自宅に連れ込んで素行不良を演じたり、ベッタという名前の雌ラバに乗って民衆から逃げようとしたりしました。このベッタというラバに乗って逃げたという逸話から、『コルベッタ(走れ、ベッタ, Corri Betta)』というイタリアの地名が生まれたといいます。

皇帝権力と対等の地位に立ったミラノ司教アンブロシウス

キリスト教神学におけるアンブロシウスの最大の業績は、得意のギリシア語を生かして東方の教父哲学(バシレイオス・ナジアンゾスのグレゴリオスなどの思想)を西方の教父哲学と融合させたことであり、アタナシウス派の三位一体論の正統性を強固にしたことです。バロック時代の画家アンソニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)の代表的な宗教画作品に『皇帝テオドシウスの教会進入を拒む聖アンブロシウス』という作品がありますが、アンブロシウスはキリスト教会の宗教権威をローマ皇帝の政治権力と対等な位置にまで引き上げた人物として知られます。つまり、ローマ教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を屈服させた『カノッサの屈辱(1077)』よりも約700年前に、国家の最高権力者である皇帝を屈服させた聖職者が存在したわけです。

ミラノ司教アンブロシウスは元々、東西のローマ皇帝と対等に付き合うほどの豪胆で器量のある人物でした。390年に北ギリシアのテッサロニケで、東ローマ帝国皇帝テオドシウスが1万5千人の民衆を虐殺する事件を起こすと、テオドシウス帝に破門を宣言して公開謝罪を要求しました。アンブロシウスはテオドシウスが神聖な教会に入場することを拒絶し、テオドシウスに対して民衆に公開謝罪することを要求しましたが、テオドシウスはこの要求を受け容れて謝罪しました。これは、ローマ世界の最高権力者であるローマ皇帝が、キリスト教会の神の代理人である高位聖職者に膝を屈して赦しを請うという極めて象徴的な事件となりました。正に、『世俗の政治権力』『神聖な宗教権威』が拮抗する時代が到来したのであり、政治が自己の正当性を証明するために宗教(神)を利用したり、宗教が自己の物理的な防衛力を強めるために政治(君主)を利用するようになっていくのです。

ミラノ司教アンブロシウスは、東ローマ帝国のテオドシウス帝だけではなく、西ローマ帝国のヴァレンティニアヌス2世(在位375-392)に対しても極めて強硬な態度を取り、イエス・キリストの贖罪の象徴である十字架の前で跪けないのであれば、ミラノ司教管区から退出せよと主張して追い出しました。アンブロシウスはキリスト教史上でも稀な政治的駆け引きの才能を持つ傑物であり、絶えず『キリスト教の権威』が『ローマ皇帝の権力』よりも上であることを色々な場面で示そうとしたのです。アンブロシウスは、軍事力を持たない言葉の力に頼る僧侶(聖職者)が、軍事力を統括する皇帝を圧倒するという異常な事態を引き起こしたのでした。

アンブロシウスは教会を『清純な遊女』と定義しており、着飾らず化粧をし過ぎない純朴な女性を高く評価していたといいます。アンブロシウスが起こした数々の奇跡やエピソードは、彼に長年連れ添った秘書のパウリヌスによって記録されており、アンブロシウスの抜群の弁論の才能は、幼児の時に口の中に入った蜜蜂が不思議な作用のある蜜を垂らしたからだとされています。アンブロシウスは一貫して三位一体論を説く正統のアタナシウス派を支持したため、アリウス派を支持するユスティナ(ヴァレンティニアヌス2世の母)と対立しましたが、ユスティアは様々な謀略を仕掛けてもアンブロシウスを打ち倒すことが出来ませんでした。

聖アンブロシウスは絶大な権力と名声を手に入れながらも、利己的欲求に翻弄されることのなかった人物で、『私の財産や生命が欲しいのであれば与えよう。しかし、神に属するものは神にしか与えることはできない』といった内容の演説を群衆に対して行いました。ミラノでは伝統的に『アンブロシウス聖歌』というラテン語の歌が歌われていますが、これは聖アンブロシウスの事績の影響を受けたものだといわれています。

慎重の低い小柄な身体を持ちながらも、圧倒的な理性と弁舌によってミラノを保護し、アタナシウス派のキリスト教の教義基盤を確立したアンブロシウスは、後にローマ・カトリックの聖人に列せられることになりました。アンブロシウスには、イエス・キリストと同様に『麻痺した女性の足を治癒させた・盲人の視力を回復させた・天使の言葉を聴くことができる』など15の奇跡にまつわるエピソードが残されており、キリスト教史においてアウグスティヌスに先行した伝説的な人物になっています。

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