アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)

裕福な家庭に生まれたフランチェスコの回心
フランシスコ修道会の創設による信仰の回復

裕福な家庭に生まれたフランチェスコの回心

フランシスコ(Francesco, 1181頃-1226)はイタリアのウンブリア地方アッシジの町で、裕福な織物商人(高利貸も営む)の子として生まれましたが、20代前半までのフランシスコは禁欲・清貧・謙譲を説くキリスト教の信仰生活とはほど遠い生活をしていました。フランシスコの父は織物商を生業とするお金持ちのピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、母はピカでしたが、母親のピカは生まれたばかりの子どもに初め“ジョヴァンニ”という名前をつけました。

しかし、父のピエトロ・ディ・ベルナルドーネは自分がフランスでの商売で大きな利益を上げたことから、『フランス風』という意味を持つ“フランチェスコ(フランシスコ)”のほうがいいと言って、結局、フランチェスコという名前に決定しました。後年になると父親のピエトロは、フランチェスコが修道士になるくらいだったら、ジョヴァンニという名前のほうが良かったという後悔をしたともいいますが、ピエトロは息子フランチェスコに自分と同じ裕福で有能な商人になって欲しいと考えていたようです。

10代のフランチェスコは、外向的な明るい性格で派手な娯楽(歌謡)や交友を好んでいましたが、時に、友人と王族のような豪華なパーティを開いて父親の財産を浪費したりすることもありました。衣服は華美で上質な絹織物を好んでおり、友人と贅沢な遊びをするために、家にある宝石・高級家具・芸術品などを持ち出したりすることもありました。更には、突然、ペルージアとの戦争に参加するといって家を飛び出し、ペルージア軍の捕虜になって父親が莫大な身代金を支払わせられたこともありました。

家族に散々な迷惑を掛けて放蕩三昧を尽くしたフランチェスコでしたが、1206年頃から、フランチェスコは急速に宗教的な回心を見せ始めることになります。しかし、キリスト教の禁欲と献身の精神に従って『信仰者としての人生』をひたすらに生きることは、父親のピエトロが期待した息子の人生とは違っていました。フランチェスコは小さな頃から、自宅の近くにあった小さなカトリックの教会で、サン・ジョルジョという年老いた司祭の教えを受けていましたが、父親が気づかないうちに放蕩(贅沢三昧)な生活から禁欲の信仰者としての生活に転換を始めていたのです。

中世ヨーロッパでは、ハンセン病(ライ病)は神罰を受けた『穢れた病気』として忌み嫌われており、医学知識が十分に発達していないこともあって感染力が強いという誤解を受けていました。ハンセン病の患者は公共の道路を通る時に、鈴の音を鳴らして自分たちの接近を告げなければなりませんでしたが、みんなが患者を恐れて避けている時に、フランチェスコは往来に飛び出してハンセン病患者の身体を強く抱き締め、病者に対する慈愛の念を示しました。

キリスト教の根本精神である『弱者への献身・病者への慈愛』を実践的に示したフランチェスコは、急速に熱烈な宗教者としての顔貌を見せ始めるのです。フランチェスコは『神への献身』を示すために、自宅にある高級な絹織物を勝手に売却して、聖ダミアノ教会の修復のためにそのお金を寄付しました。この『世俗のものは、神のものへ』という所有権の放棄と安楽の否定は、中世キリスト教の修道士に共通した禁欲精神であり、フランチェスコが後に築いたフランシスコ修道会では一切の余剰(贅沢)と安楽を戒める『清貧の思想』が徹底して教育されました。

西欧のキリスト教圏における修道会(修道院)の歴史は、イタリアのモンテ・カッシノ寺院を建設したヌルシアのベネディクトゥス(480頃-547)にまで遡るとされていますが、世界史における修道院(世俗的欲望を否定した生活を送る信仰拠点)の歴史はローマ帝国時代(3世紀)のエジプトにおける遁世的な修行者集団にあると言われています。修道士は修道会が規定した『会則』に従って禁欲的な生活を送り、自分の人生のすべてを勤勉と清貧による『神への奉仕』に費やすことになりますが、フランチェスコの時代には少しずつ修道会の風紀が乱れており、修道院の院長の中には封建領主のような権勢を誇って恥じないものも出てきていました。

そのため、16世紀にマルティン・ルターやジャン・カルヴァンの宗教改革の嵐が吹きぬけた地域では、修道院は『堕落の罪』を犯しているということで徹底的に破壊され、特権的な聖職者(教皇・神父・修道士)を必要としない聖書中心のプロテスタンティズムの信仰へと置き換えられていくことになります。結局、父親から殴りつけられて勘当されたフランチェスコは、衣服を脱いで裸体のままアッシジ街道へと立ち去り、粗末な袋を被って乞食同然の布教生活をするようになりました。

フランシスコ修道会の創設による信仰の回復

粗末な衣服をまとって屋根の抜けたボロボロの教会(ポルツィウンコラ)に住んでいたフランチェスコですが、次第に彼の徹底した『清貧・労働・謙譲の徳』を慕って仲間や弟子が集まってきました。中世ヨーロッパの12世紀には、愛と禁欲を本質とするキリスト教の精神が衰退して、総本山であるローマ・カトリック教会も腐敗しかけていました。そのため、世俗の欲望に流されない『真の信仰』を求める宗教者も少なからずいて、フランチェスコのような欺瞞や堕落のない本物の信仰生活に救いを見出す弟子もいたわけです。

1208年には、福音書の三節を戒律とすることを決め、『全ての財産を放棄して、福音の伝道と神への奉仕に人生を捧げる』ことを誓願しました。1206年の時点で、聖ダミアノ教会の十字架から『早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい』という啓示を受けたのが、修道会設立の直接の契機となったようです。この徹底的な信仰のための戒律をローマ・カトリック教会に承認させるために、フランチェスコはローマへと向かいますが、余りにも粗末な身なりと周囲に漂う悪臭のためになかなか聖ラテラノ大聖堂への入場を許可されませんでした。フランチェスコと少数の弟子の一行は、外見だけから見ると憐れな乞食の集団にしか見えませんでしたが、その内面に燃え盛る『強靭な信仰』は、崩壊しつつあったキリスト教精神を回復させるものでした。規律と清貧によって建設される修道会の復興は、聖ラテラノ大聖堂の『信仰上の礎石』を補修するような作用をもたらすことになります。

初めは教会の門番から追い返されていたフランチェスコ一行ですが、遂に教皇インノケンティウス3世(在位1198‐1216)と謁見することが出来ました。教皇インノケンティウス3世がフランチェスコに会いたくなかった理由として、身なりがみすぼらしいことだけではなくて、本来、慈愛・禁欲・清貧・労働の徳を率先して示さなければならないローマ・カトリック教会の指導者である自分が贅沢で優雅な生活をしていたこともあります。

絢爛豪華な大聖堂で寝起きするインノケンティウス3世にとって、一切の所有物を持たず清貧の生活を貫く聖フランチェスコは、『お前の神(キリスト)への信仰は本物なのか?』という問いを鋭く突きつけてくる存在だったわけです。1210年、フランチェスコは教皇インノケンティウス3世に、自分の信じる信仰と戒律についての所見を述べて修道会設立の認可を求めましたが、インノケンティウス3世はこのフランチェスコの申し出に修道院を建設しても良いという認可を与えました。教皇の認可を受けたフランチェスコは“従順・清貧・貞潔・勤勉”を基本戒律とする『フランシスコ会(小さき兄弟の修道会)』を設立します。

その後、信者数の増大に合わせて、フランシスコ会は『第1教団(男子修道会)・第2教団(女子修道会)・第3教団(在俗会)』へと分かれていきますが、女子集団である第2会の創設者は、貴族階級の富裕な家柄に生まれながら信仰の道に目覚めて出家した聖キアラ(キアラ・ディ・ハバローネ, 1193-1253)でした。18歳で出家してフランシスコ会に加わった聖キアラは、聖フランチェスコから非常に厚遇された人物であり、兄妹のような深い情緒的関係でつながっていたとも言われ聖キアラは『兄弟フランチェスコが植えた草花』と自らを比喩しています。

ローマ・カトリックから聖人に列せられた聖職者は何らかの奇跡を起こしていますが、聖フランシスコ(聖フランチェスコ)は鳥獣・草花など自然界のあらゆる生き物と心を通わせることができ、リエティのグレッチョという地では、生きた人間を使ってキリスト降誕の『プレゼビオ』を作り、真夜中の0時に本当に赤ん坊が生まれたといいます。聖キアラも、敬虔な信仰によってイスラームのサラセン軍を撤退させたり、死後に生母マリアが来臨したなどの聖人としての奇跡のエピソードが残されています。第3教団の在俗会というのは、修道士にならずに世俗に留まりながら清貧と禁欲の生活を送り、宗教的思索と信仰に人生を捧げた人たちのことであり、客観的には浮浪者・無職者としか見えない人たちも多く含まれていました。そういった俗世の生活に苦しむ人たちにも、自己アイデンティティを帰属させられる場(第3教団)を作ることにより、聖フランチェスコは万人に平等な救済の機会を与えようとしたのでした。

『小さき兄弟姉妹の修道会』と呼ばれるフランシスコ会は、聖フランチェスコの死後に世界最大の修道会へと成長していきますが、第3代総長エリア・ボンバローネの時代に、中央集権的(独裁的)な総長の修道会運営に対する反発が強まり、第4代総長ピサのアルベルトの時に地方分権的な運営体制への変革が図られました。フランシスコ会には、元々、ひたすら禁欲的に労働と祈りに励む修道士の数が多く、聖書研究(教義解釈)や神学教育に携わる知識人階層(司祭・神学者・哲学者)の数が少なかったのですが、司祭であるピサのアルベルトやファバーシャムのハイモの時代からドミニコ会に並び立つための聖書研究や神学指導、教義解釈のための哲学が盛んになっていきます。ハイモは修道会の信仰を補強するために学術研究に注力して、各地方の管区に学校機関を設立して、フランシスコ会の神学的な知的基盤(知識インフラ)を整備した人物とも言えますが、『学問・読書を重視する派閥』と『清貧・労働を重視する派閥』との対立を強めたという側面もあります。

1235年に、パリ大学の教授・ヘールズのアレキサンダーがフランシスコ会に入会したことがフランシスコ会の決定的な学術的転機となり、フランシスコ会内部の学術研究はスコラ哲学に大きな影響を与えるほどに発展していきます。アレキサンダーの弟子筋に当たる人物として、トマス・アクィナスボナヴェントゥラがいますが、ボナヴェントゥラは過度の禁欲を抑制してフランシスコ会に中庸的な節制とプラトン的な哲学を持ち込むことに成功しました。元々、フランシスコ会は『インテリ(知識人)になるための読者・学問』を軽視して『神の下僕になるための労働・清貧』を重視する傾向がありましたが、深い哲学的素養を持っていた聖ボナヴェントゥラは、行き過ぎた清貧を戒めてフランシスコ会の中に『知を愛する態度(フィロソフィア)』を程よく注入しようとしたのです。

聖ボナヴェントゥラは『人生の短さ』を哲学的に解釈して、所有権や身体的快楽を徹底的に放棄して『欠乏の苦痛』を味わうことが真の信仰の本質ではなく、余りにも短すぎる人生の中で『聖なる神(世界)』を直観して体感することにこそ信仰の価値があると説きました。トマス・アクィナスはアリストテレス哲学の影響を受けて、『第一原因としての神』を認識し中世の神学体系を整理した偉大な神学者・哲学者ですが、トマス・アクィナスの後の時代に、ドゥンス・スコトゥスやオッカムのウィリアムといった哲学者が現れてキリスト教神学は近代的な合理主義の影響を強く受けるようになっていきます。

身体に聖痕(スティグマ)が現れるほどの強靭な信仰を持っていた聖フランチェスコが蒔いたフランシスコ会の種(人材)が、普遍論争を終結させる『オッカムの剃刀(装飾的な概念を切り捨てる合理主義精神)』を生み出します。そして、近代哲学(ルネ・デカルトの自我)への扉を開くオッカムの剃刀は、それまで絶対的真理の座にあった『神学的な普遍概念』を検証不可能なものとして、『学問(客観的現実)の外部』へと切り落としていったのでした。オッカムの剃刀が神学の次に標的にしたのは観念論的な哲学であり、哲学の後に出現する学問領域の主役は、『仮説に対する検証』が可能で実際の生活水準の向上に役立つ自然科学(科学技術)でした。

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