ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション論と公共圏

ユルゲン・ハーバーマスの意識哲学からコミュニケーション論への転回
ハーバーマスのコミュニケーション論と公共圏

ユルゲン・ハーバーマスの意識哲学からコミュニケーション論への転回

マックス・ホルクハイマーやテオドール・アドルノをドイツ・フランクフルト学派の第一世代とすると、ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Habermas, 1929-)は第二世代を代表する思想家である。ユルゲン・ハーバーマスはユダヤ人の多い学者サークルであったフランクフルト学派の中では数少ないドイツ人であり、第二次世界大戦の時にはナチス政権下でヒトラー・ユーゲントに所属したという履歴を持っている。

ハーバーマスは1954年に『歴史の内なる絶対者――シェリング「世代」哲学の一研究』という論文を提出してボン大学で博士号を取得しているが、ジョルジ・ルカーチ『歴史と階級意識』やアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』の影響を受けてドイツ観念論から西欧マルクス主義へと思想的な転換を遂げることになる。1956年にテオドール・アドルノの助手として採用されフランクフルト学派(社会研究所)の思想家の一員となるが、階級闘争的な共産主義革命に肯定的だったハーバーマスは、所長のホルクハイマーと政治思想の実践的側面において対立することが多かった。

ハーバーマスはフランクフルト大学の教授職に就任することを希望していたが、ホルクハイマーとの政治思想的な軋轢があったので、1959年に社会研究所を離れることになった。1961年にハイデルベルク大学の哲学の教授となって研究者生活を送っていたが、1964年にホルクハイマーがフランクフルト大学を退官すると、ハーバーマスはフランクフルト大学に戻って哲学・社会科学の教授職に就いた。

現代思想における最後の巨人とも言われるハーバーマスは論争好きなことでも知られ、博士号取得以前の学生時代にもフランクフルター・アルゲマイネ新聞に『ハイデガーと共にハイデガーに反対して考える』という論文を寄稿してハイデガーとの論争を引き起こした。それ以降にも、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタール、ジョン・ロールズ、二クラス・ルーマンといった著名な思想家たちと意見を激しく戦わせて論争を展開した。フランクフルト学派の第二世代を代表するユルゲン・ハーバーマスの思想の特徴は、第一世代のホルクハイマーとアドルノが指摘した『批判理論』による道具的理性の批判をコミュニケーション論へと昇華させたところにある。

ホルクハイマーとアドルノは西欧近代哲学(啓蒙思想・市民社会)の伝統を支えた理性主義(主観優位の思想)が、自己保存を目的とする他者支配のための道具主義に堕落したことで、第二次世界大戦やアウシュヴィッツ(ホロコースト)といった野蛮な暴力的事象が発生したと考えた。フランクフルト学派の第一世代は『近代的理性と政治的実践の不信(拒絶)』という特徴を持っているが、第二世代のユルゲン・ハーバーマスは第一世代の極端過ぎる理性批判を否定して、間主観的なコミュニケーションを可能とする『コミュニケーション的理性』の復権を企図したのである。ハーバーマスは、第一世代のフランクフルト学派やG.W.F.ヘーゲル、カール・マルクス、マックス・ヴェーバーなどの近代思想の哲学者の理性認識を『独我論的・観念論的な意識哲学』であるとして退け、社会経済構造・政治体制によって個人が道具化(部品化)される『労働‐生産のパラダイム』『相互的なコミュニケーションのパラダイム』に大きく転換させようと試みたのである。

ハーバーマスが1981年に発表した『コミュニケーション的行為の理論』では、ホルクハイマーとアドルノの『主観‐客観の対立図式』の完全な克服が意図されており、第一世代の『主観的な意識哲学』の方法論は、第二世代のハーバーマスによって『客観的な言語哲学(分析哲学)』の方法論へと変換されていくのである。晩年のテオドール・アドルノは『美学・芸術における制作活動』によって、道具的理性の支配を抜け出した『外的対象との関係性(自然との宥和)』を実現しようと考えたが、ハーバーマスはアドルノの『外的自然(モノ)』に関わろうとする美学志向を、主観‐客観が対立する近代思想(労働‐生産の下部構造)のレベルに留まるものとして批判する。ハーバーマスは『外的なモノ』ではなく『対等な他者(ヒト)』とコミュニケイトすることに近代哲学を克服する可能性を見出し、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の言語哲学の言語ゲームを参照しながら、相互主観的なコミュニケーションの重要性を強調していく。

ハーバーマスやウィトゲンシュタインが想定した相互主観的(間主観的)なコミュニケーション行為とは、エドムンド・フッサールの現象学(超越論的主観性)のような『観念的・想像的・モノローグ的な相互主観性』のことではない。ハーバーマスの言う相互主観的なコミュニケーションとは、実際に生きていて言語的コミュニケーションができる『複数の主体』が相互に意見や感情を表現することであり、その表現を他者(聞き手)が『了解』することで『合意としての真理』が非暴力的に形成できるとするものである。ユルゲン・ハーバーマスは、フッサールやハイデガーの意識哲学・存在論に見られるような『生きている他者の主張(反論)』を無視した『独我論的・モノローグ的な思想展開(一般的な結論や規則の提示)』に強く反対し、実際に相手とコミュニケイトして『了解』を得るというプロセスを重視する(モノローグの観念論ではない)相互主観的なコミュニケーション論を提起したのである。

ハーバーマスのコミュニケーション論と公共圏

フランクフルト学派の第二世代を代表するユルゲン・ハーバーマスは、第一世代の思想を言語論的に転回して、言語的なコミュニケーションによる『道具的理性・全体主義(ファシズム)からの離脱』を構想した。ハーバーマス以前に近代哲学の完成者と呼ばれるG.W.F.ヘーゲル(1770-1831)が人間の行為を『労働』『相互行為』に分けていた。

ヘーゲルは、身体を使った目的合理的な生産行為を『労働』、言語を使った意思疎通的な関係行為を『相互行為』としたが、相互行為(コミュニケーション)よりも労働のほうを絶対精神(国家・民族の意識)の自己展開に欠かせない重要な要素と見なしていた。商品や道具、設備、原材料といった『生産手段・成果物』を生み出さない相互行為(コミュニケーション)は、西欧哲学(啓蒙思想)の中で軽視されがちであったが、特に、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが構築したマルクス主義(共産主義思想)では相互行為(言語的コミュニケーション)よりも労働(身体的な生産行為)が重視された。

しかし、ユルゲン・ハーバーマスは共産主義革命が成功したソ連や東欧のような共産主義国家(社会主義国家)において、『国家権力・支配階層による人民の隷属的な支配』が終わるわけではない過酷な現実を冷静に観察し、近代市民社会が奨励する『労働(生産行為)』だけでは人間は決して自由・幸福にはなれないという世界観を持つに至る。ハーバーマスは『労働』は物理的な飢餓と貧困から人民を解放するが、『相互行為(コミュニケーション)』は政治的な隷属と支配から人民を解放する唯一の手段であると考えるようになる。モノローグ的な意識哲学を脱却したハーバーマスは、一人で内省的に論理を巡らして結果を出すのではなく、複数の主体(他者)の間でコミュニケーションを重ねて相互主観的な了解を志向することこそが大切であることに気づくのである。ハーバーマスは、エドムンド・フッサールの現象学にある『主観的意識の反省』や『ノエマ‐ノエシスの作用』によって他者を想像的に作り出す方法では、『主観の檻(独我論的な世界観)』を抜け出すことが出来ないと考えた。

その結果、ウィトゲンシュタインの言語ゲームにおける複数の他者(主体)の間でのみ成立する『規則(言語規則・社会規則)』に着目するようになる。つまり、ハーバーマスは自分が実際に生きている生活世界(現実社会)に複数の人間の間に共通して通用する『規則(文法・常識・規範)』がある以上、『主観と切り離された他者(客体)の存在』は自明のものであると結論して、モノローグ的な意識哲学のパラダイム(主観‐客観の対立)から相互主観的な言語哲学のパラダイム(複数の他者との意思疎通)へと移行したのである。ハーバーマスのコミュニケーション論は、『了解』を志向する言語ゲームを実施する『複数の主体』と『ダイアログ(対話)の機会』によって成り立っているが、ハーバーマスの意識哲学からコミュニケーション論への転回のことを『言語論的転回・相互主観的転回』と呼ぶこともある。

『合意・了解による真理』への接近はどのようにして保証されるのかということについて、ハーバーマスはコミュニケーション的理性による3つの規範条件(形式的妥当性)を考えた。コミュニケーションにおける不一致や対立(相互理解の困難)のことを『ディスコミュニケーション』というが、ディスコミュニケーションは『真理性・規範適合性・誠実性』という3つの規範条件によって解決の道筋が探られることになる。コミュニケーション的理性は、客観的世界においては発言が事実か否かという『真理性』を妥当性(規範条件)として要請するが、社会的世界においては言動が社会規範に合致しているかという『規範妥当性』が要請され、主観的世界においては発言が虚偽ではなく真摯な態度で話しているかという『誠実性』を要請するのである。この3つの妥当性が満たされている時には、理想的コミュニケーションが成立するだけではなく、『強制のない合意』が成り立つ可能性が高くなる。

ハーバーマスは、言語的な相互行為を『コミュニケーション的行為』『戦略的行為』に分類したが、コミュニケーション的行為とは複数の発話主体が相互に了解を志向する『一般的な会話』のようなコミュニケーション形態のことである。戦略的行為とは、他者を道具・手段として目的合理的に利用する『政治・行政・経済の分野』における相互行為(法律・命令・取引)のことである。戦略的行為は、必ずしも相手の了解を志向せず、相手を自分の言語的行為に従わせて目的を合理的に達成しようとするコミュニケーション形態である。ハーバーマスは、コミュニケーション的行為によって『解放的な民主化』の社会進化のプロセスが進み、戦略的行為によって『効率的な目的的処理』の社会進化のプロセスが進むと考えた。

『生活世界(自由の王国)』の行為領域において『解放的な民主化』が進められ、『システム(必然の王国)』の行為領域において『効率的な目的的処理』のプロセスが進んでいくが、ハーバーマスはどちらも社会進化のために必要な合理的プロセスであると定義している。ディスコミュニケーション(コミュニケーションの失敗や困難)を解決するための了解を目指す相互主観的なコミュニケーションのことを『討議・議論(ディスカッション)』と呼ぶ。マルクス主義の革命思想では、経済的搾取と政治的支配によって人間性が抑圧された『必然の王国』から自然な人間性が解放された『自由の王国』への史的唯物論的な発展を成し遂げようとしたが、この試みは共産主義政権が『集権的な労働力の配置・資源の再分配(官僚主義的な計画経済)』のみを重視して『主体的なコミュニケーション的行為(民主的な意志決定プロセス)』を軽視していたために挫折したとハーバーマスは考える。

『生活世界』では『言語』というコミュニケーション・メディアによって解放的な民主化が進行していき、具体的には家族・友人関係・地域共同体・NGO・NPOなどが生活世界の行為領域に属している。『システム』では『貨幣』『権力』というコントロール・メディアによって効率的な目的的処理(効率的な個人の支配と資源の分配)が進められ、具体的には政府・行政機関・司法機関・市場経済・企業などがシステムの行為領域に属していることになる。

目的合理性や経済効率性などの原理によって作動する『システム』は絶えず、道徳的なコミュニケーション的合理性の原理によって運営される『生活世界』を侵食しようとしているが、他者(個人)を抑圧・支配するシステムがコミュニケーションを重視する生活世界を脅かすと、各領域に病理現象が発生してくることになる。『システム(政治経済的な強制力)』による『生活世界(道徳性・コミュニケーション的理性)』の破壊によって、『社会領域におけるアノミー(無規範状態)・文化思想領域における虚無主義・精神衛生領域における精神疾患』などの病理性が現れてくる危険があるとハーバーマスは語る。

ハーバーマスは、資本家と労働者が対立する『マルクス主義的な階級闘争』ではなく、『生活世界の合理化とシステムの合理化のコンフリクト(摩擦)』によって上記した社会病理が発現すると考える。システム(必然の王国)による生活世界(自由の王国)の支配に抵抗するためには、『公共圏』での了解を志向するコミュニケーションと討議による『民主的な意志の集約』が必要になってくる。『コミュニケーション的行為の理論(1981)』『公共性の構造転換(1962)』などで提示されている『公共圏』の概念はハーバーマスの思想に一貫する中心的概念であり、『公共圏』とは了解を志向するコミュニケーションが成立する相互主観的な社会空間のことである。公共圏は、多種多様な意見を集約する討議(ディスカッション)のアリーナ(闘技場)とそれらの意見の個別的なネットワークによって構成される社会空間である。公共圏は『個人間のローカル・コミュニケーション(部分的なコミュニケーション)』をマスメディア(テレビ・ラジオ・新聞・書籍)やインターネットを利用して、幅広く公開することでより一般的で広範な公共圏へと発達していく。

多数の個人(市民)が参加する一般化された公共圏では、各テーマ・各問題に対する多種多様な意見が提示され『討議のプロセス』を経ることで、より有意義で説得力のある意見へと集約されていくのである。ハーバーマスは公共圏における討議を経て集約された意見が、政治的・経済的構造(制度)を変化させる『民主的な意志決定』につながることを期待したが、高度資本主義によって運営される現代の先進国では、『福祉国家化・消費文明社会・マスメディアの広告事業化・政治のエンターテイメント化』によって公共圏が政治的・経済的な批判機能を喪失してしまったという問題が指摘される。

ハーバーマスの『公共性の構造転換』は、公共圏の批判機能(討議機能)の喪失を主要テーマにした論文である。この論文では、市民的公共圏が『文化的公共圏→政治的公共圏→経済的な消費活動の場』へと変質したことで、『公論(政治的変革・社会改善を促す公共性の高い言論)』を提起する機能を失ったとする。市民的公共圏やマスメディアが、再び『消費の享楽(思考停止)』を乗り越えて『公論(公共的な意見の集約)』を取り戻すためにどうすれば良いのかがハーバーマス思想の行き着く問題点である。『生活世界(コミュニケーション的合理性)』を侵食する『システム(国家行政・資本主義経済)』を間接的に統御する『市民社会の再建(非経済的・非国家的な個人相互の主体的なネットワーク化)』が大きな課題となっている。

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