厳格無比の神学者ヒエロニムス(347-420)

学識教養に抜きん出ていたヒエロニムス
原罪と女性の刺激にこだわったヒエロニムス

学識教養に抜きん出ていたヒエロニムス

ローマ帝国の属州ダルマツィアのアクィレイアにあるストリドネで生まれたヒエロニムス(340頃-420)は、聖アウグスティヌス聖アンブロシウスと並ぶ四大ラテン教父の一人に数えられる神学者(聖職者)です。

ヒエロニムスは初めキリスト教には余り関心を示しておらず、ローマで弁論術・修辞学を学んだ後に、ギリシア語を習得してガリアや小アジアといった異郷の地で原理的な哲学の研究に明け暮れていました。後年の聖ヒエロニムスは、人間の罪に対して決して赦さない人、人間の誤りに対する妥協を見せない人として知られ、その苛烈で攻撃的な性格から正統派キリスト教の守護者として『キリスト教の獅子』という異名を取る聖人でした。しかし、人生の前半では、キリスト教の獅子と言われるような排他的な攻撃性はそれほど顕著ではなく、どちらかというと外国語を習得して難解な哲学の研究に勤しむ学究肌の人物でした。

ギリシア・ラテンの古典文学の研究とギリシアのアカデミックな哲学研究に没頭したヒエロニムスは、学術研究と語学に対する非凡な才能を持っており、ラテン教父の中では最も教養に優れた人物であったといいます。ラテン語の文章を記憶する暗記力も抜群であったヒエロニムスは、前期ストア主義(ストア哲学)を代表するセネカやエピクテトスの代表的な著作をすべて暗唱することができたと伝えられています。ヒエロニムスの神学における最大の功績は、後世に残る『聖書のラテン語訳(ヴルガータ訳)』の作成です。学識・語学に秀でたヒエロニムスのこの翻訳の仕事がなければ、西欧に共通する宗教聖典としての『聖書』の完成は相当に遅れることになったでしょう。

ヒエロニムスは、ヘブライ語の『旧約聖書』とギリシア語の『新約聖書』をローマの一般民衆が読めるラテン語に翻訳したのですが、この一般民衆向けに翻訳されたラテン語聖書のことを『ヴルガータ訳の聖書』と呼んでいます。ヒエロニムスがヴルガータ訳聖書を翻訳した事業は、マルティン・ルターのラテン語聖書の『ドイツ語訳』へとつながる事業であり、ヒエロニムスとマルティン・ルターがいなければキリスト教の正統教義を知識人と一般民衆に効果的に布教することは不可能だったと思われます。ラテン語のヴルガータには『公布されたもの』という意味があります。

ヘブライ語とギリシア語で書かれた旧約・新約の聖書を、ラテン語に翻訳する事業は当時の第一級の知識人でないと出来ない作業であり、ヒエロニムスは三ヶ国語を自由に使いこなせる無類の知識人でした。ヒエロニムスはラテン語・ヘブライ語・ギリシア語の三ヶ国語に精通していたため『三ヶ国語に精通した人(vir trilinguis)』という異名を取っていました。ヒエロニムスがヘブライ語を学ぶきっかけになったのは、373年頃にアンティオキアで罹った重病であり、彼はその時に自分の人生を神学に捧げることを決めました。ヒエロニムスはシリアの砂漠で過酷な禁欲の隠遁生活に入り、一切の邪念を廃した中でヘブライ語の学習と神学・哲学の研究を推し進めたのです。自己の心身を完全に律する強靭な容赦のない精神力、それがヒエロニムスの持つ最大にして唯一の特徴であったと言っていいかもしれません。

原罪と女性の刺激にこだわったヒエロニムス

シリア砂漠での苛烈な学究の時期を終えたヒエロニムスは、ローマへと戻りローマ教皇ダマスス1世(在位366-384)に厚遇されて聖職者の叙階を受けることになります。ヒエロニムスによる聖書のラテン語への翻訳が行われたのも、ローマ教皇ダマスス1世の強い支持と後援を受けた時期でした。ダマスス1世が崩御した後はローマでの好意的な庇護を受けられなくなり、ヒエロニムスは聖地エルサレムやエジプトへと旅して自己の知見と経験の幅を広げ、イエス生誕の地であるベツレヘムに滞在してラテン語訳の聖書を遂に完成させました(405年頃)。

ヒエロニムスは、人間は生まれながらにして罪人であるという『原罪』の概念を非常に重要視し、自分自身が赦されざる一番の罪人であることを自認してさえいました。『キリスト教の獅子』と呼ばれるような強靭で排他的な精神力によって、キリスト教の正統教義を確立していったヒエロニムスは『罪に対して赦す事の無かった人』として知られ、『禁欲・節制・勤勉』などの徳目の実践にこだわりました。ヒエロニムスは性的興奮や好ましからぬ欲望を引き起こす『女性の身体性』『原罪の根源』として認識しており、女性との身体的な接触を病的なまでに嫌っていました。この辺は、若い頃には女性と放蕩三昧を尽くして肉の喜びを知っていた聖アウグスティヌスとは対照的なのですが、ヒエロニムスは徹底した『禁欲の聖職者』であり、エロスの喜びは精神的堕落の最大の原因と見なしていたのです。

こういったヒエロニムスの女性恐怖や身体的快楽の蔑視は、『男尊女卑的な中世的偏見』を助長する好ましくない影響をもたらしましたが、禁欲の人であったヒエロニムスはベツレヘムで男性用と女性用の二つの修道院を建設したことでも知られます。ヒエロニムスはローマ滞在時に、元老院議員トソキウスの未亡人パウラとその娘エウストキウムと宗教的な交流を持ち、経済的に裕福であったパウラの資金援助を受けてベツレヘムの修道院を建設したのでした。ヒエロニムスは若い娘のエウストキウムにも徹底した禁欲とエロスからの脱却を勧めるのですが、ヒエロニムスを尊敬していたエウストキウムは『ヒエロニムスの教義』にあまりに忠実であったため、断食・倹約・節制が行き過ぎて死んでしまいました。

ヒエロニムスは卓越した聖書研究者であり優れた人格を持つ聖職者でしたが、彼の問題点は何事も徹底的に突き詰めなければ気が済まない『強迫的な完全主義』でした。極端な禁欲主義の実践を唱導したヒエロニムスは、『女性が性的なことを空想するだけで罪である・処女性を失った女性は深い罪を犯している』と語り、一度『性的な罪悪』を犯した女性は決して完全な免罪を得ることは出来ないとしました。このエロスを罪悪とする極端な考え方は、『暗黒の中世』を象徴する男尊女卑(女性差別)を強化する作用をもたらし、女性の性的逸脱(エロスの過剰)に対する私的制裁を正当化するような野蛮な帰結へと至ります。男性の心を惑わした魅力的な女性を魔女(悪魔)だと独断的に認定して処刑するような『魔女狩り』も、こういった女性の身体性やエロスを忌避する信仰の延長戦上にあったと考えられます。とはいえ、ヒエロニムスも男性である以上、性的な欲求や想像とは無縁でいることはできず、シリアの砂漠の中で裸体の女の幻覚を見たこともあります。その時にヒエロニムスは、愚劣な想像を生じさせた自己の精神の堕落に激しく怒り、自分自身を厳しく鞭で打ち据えて神に懺悔しました。

知識人や神学者として超一級であったヒエロニムスですが、その人格は攻撃的かつ排他的であり、自分が正統と信じる考え方に反する人間を決して赦そうとはしない激烈さを持っていました。一切の贅沢と快適を否定する禁欲のために、ボロボロの身なりをして周囲に悪臭を撒き散らしていたため、鉄の十字架像を引きずって歩くヒエロニムスに敢えて近づこうとする者は殆どいなかったとも言われる奇人としての側面も持っていました。その為、聖書のラテン語訳という歴史的な功績を考えるとローマ教皇に選出されてもおかしくないヒエロニムスでしたが、周囲の高位聖職者の支持を得ることができず教皇にはなれませんでした。

しかし、ヒエロニムスはそういった世俗的な栄光や名声への欲求は全くなく、禁欲と節制を貫徹して神にすべてを捧げる人生にこそヒエロニムスの考える『生きる意味』があったのです。自己にも他者にも一切の妥協や堕落を赦さない厳格無比の神学者、それが聖ヒエロニムスを表現するのに最も相応しい言葉だと思えます。ヒエロニムスは人間に好意や尊敬を寄せられることに関心はなく、神の定めた規律と倫理にのっとって生きられるか否かにしか関心がなかったのでしょう。

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