古代ギリシアの7賢人・ソロン

ソロンの改革の成果:借金の帳消し・債務奴隷の禁止・財産政治の開始

7賢人の一人に数えられるソロンは、紀元前6世紀頃に活躍したアテナイ(アテネ)の政治家・立法家で、紀元前594年ソロンの改革を行って、それまで行われていた貴族政治を終結させ財産政治の端緒を築いた。ソロンの改革以前には、古代アテナイ初の成文法であるドラコンの立法(B.C.621)というものがあり、曖昧であった慣習法を成文化したが依然として貴族に有利な法律であった。

ドラコンの法は、貴族優位の法であるというだけでなく、非常に厳格冷徹な法律で殺人罪だけでなく窃盗罪などに対しても死刑の規定が為されていた。貿易経済の発展によって経済力を高めた平民達は、ドラコンの法の融通の効かない非現実性と貴族に有利な不公正性に対して不満を高めていった。そこにソロンが現れて、ドラコンの法を公正で現実的な条文へと改正し、武器を自弁できる裕福な平民に政治参加への道を開いたのである。

ソロンの改革の重要な点は、以下の2つである。1つは、参政権を得られない貧困層の平民の不満を緩和する為に借金(負債)を帳消しにする徳政令を出した事と借金によって奴隷身分に転落することがないようにした事(債務奴隷の禁止)である。もう一つは、戦争に重装歩兵として従軍するのに必要な武器を自弁できる富裕層の平民に対して参政権を認め、貴族以外の者も政治参加できるようになったという事である。財産政治とは、従来、貴族の神聖な義務であった共同体防衛の為の戦争行為に参加することの出来る裕福な平民に参政権を認める政治形態である。財産を持つ平民に参政権を与え、財産を持たない平民の負債を帳消し(セイサクテイアー)にした財産政治の始まりが、ソロンの改革の成果であるといえる。

古代ギリシアやローマにおいて、自分の国家を防衛する為に戦争に参加する事は最大の名誉であり、武器と防具、馬を準備して戦争に参加することは忌避すべき義務ではなく積極的に望む権利であった。また、国家の繁栄と防衛の為の戦争に参加する市民(貴族)だけが、国家の政治に参加する権利を有するという原則があった。その為、それまで貧しくて戦争に参加できなかった平民達が、貿易活動によって経済力を蓄えて戦争に参加できるようになった時に、貴族に対して参政権を要求し始めたのは当然の流れともいえる。

独裁的な僭主になる事を拒絶したソロン

ソロンは、貴族階級と平民階級の対立の激化を抑制する為に『ソロンの改革』を行い、数々の名誉ある行動の結果として民衆から絶大な支持を得たが、その人気を理由にして独裁者になることは決してなかった。

ソロンの栄誉ある功績の一つに、彼の生誕地サラミスをメガラから防衛したことがある。メガラは当時の強国で、アテナイは何度もメガラとの戦闘に破れてサラミス防衛に対して消極的になっていた。意気消沈して戦意を挫かれたアテナイ市民は、今後、サラミス防衛の為の戦争を扇動するものがあれば死刑に処するという決議を民会で行った。

メガラからサラミスを守りアテナイの栄光を高める為にソロンは、頭に花冠をかぶり狂気を装って政治の中心地アゴラに乗り込み、エレゲイア調の戦意高揚の歌を歌ったのである。

こんなことなら私は、アテナイ人である代わりに、祖国を取り換えて、ポレガンドロス島やシキノス島の(ような小さな島の)人間でありたいものだ。

すぐにも人々の間でこんな噂が立つことだろうから。

『見ろ、こいつもサラミスを裏切ったアッティカの男だ』と。

さあ、サラミスへ行って、愛しい島の為に戦おう。そして、このつらい恥辱を晴らそうではないか。

ディオゲネス・ラエルティオス著『ギリシア哲学者列伝・上』 岩波文庫より引用

国家や民衆を動かして戦争を引き起こすことは現代では倫理的に大きな問題があるが、古代ギリシア世界では戦争を回避して他国の侵略を看過することは耐え難い屈辱であり、戦う勇気を喪失することは市民としての誇りを捨てることと同義であったのだ。また、古代文明社会には、人権思想などは存在せずどの国も奴隷制度によって労働経済を支えていたので、自分の共同体を侵害されて捕虜になることは、奴隷階級に転落したり処刑されたりすることを意味していた。正に、共同体の栄光と個人の生存が不可分に一体化していた時代だったのである。

相次ぐメガラとの敗戦によって戦意喪失して、弱気な政治決定に傾いていたアテナイは、ソロンの捨て身の訴えによってメガラと再戦し見事打ち破ることが出来た。また、ソロンはメガラとの戦争が、大義名分のない土地や財産の獲得を目的にした戦争ではないことを証明する為に、サラミスの土地の墓を暴き、そこに埋葬されている遺体が皆『アテナイの埋葬の慣習』に従っていることを確認したのである。

メガラとの戦争の勝利によって、ソロンは民衆から圧倒的な支持を受け尊敬を集めた。民衆はソロンによる独裁政治の樹立を希望したが、民主的な政治形態こそあるべき政治の姿だと信じるソロンは決して独裁者になることを受諾しなかった。

ペイシストラトスは、財産政治の下で参政権を与えられなかった貧困層の絶大な支持を受けて、強引に僭主の座に就いて独裁的な僭主政治(B.C.561-528頃)を始めることとなる。ペイシストラトスの僭主政治は、貧困層の恵まれない民衆の生活水準を向上させる政治で、どちらかといえば貴族にとって不利益になることが多い政治であった。ペイシストラトスの政治は独裁的な僭主政治だったが、市民全体から搾取し抑圧するような悪政というわけではなかった。

しかし、その結果の良否に関わらず、ソロンは独裁的な政治形態を嫌い、民衆の政治的な意思決定をペイシストラトスのような僭主に委ねることに反対した。ペイシストラトスが僭主になろうと画策しているときに、ソロンは民会に乗り込んでいってペイシストラトスが政治権力を掌握しようとするのを阻もうとしたのである。

アテナイ人諸君、私はあなた方の中のある人たちよりは賢いし、ある人たちよりも勇気がある。つまり、ペイシストラトスの詭計を見破れないでいる人たちよりは賢いし、またそれを知りながらも、恐怖心のために沈黙している人たちよりは勇気があるのだ

しかし、この時には、既に民会の権力機構の殆どがペイシストラトスの独裁に肯定的になっていたので、ソロンは本当に狂人扱いされてその意見は完全に黙殺されてしまった。ソロンは自分の説得では民衆を動かすことができず、民衆が喜んでペイシストラトスの独裁に服するのを見て落胆しアテナイを後にして旅に出ることになる。ソロンはまずエジプトへと進路を取り、それから海路でキプロス島に出かけて、更にリュディア王国のクロイソス王の元へと赴いたという。

この僭主政治を巡る対立で面白いのは、ソロンとペイシストラトスの往復書簡を読んでみると、お互いにそれほど嫌悪したり憎みあったりしている様子が伝わってこないということである。傑出した政治家としての能力を持っていた2人は、感情的衝突ではなく政治的信条の違いからアテナイで毅然と袂を分かったというのが正しいのではないだろうか。

以下に、ペイシストラトスがソロンに宛てた手紙とソロンがペイシストラトスに宛てた手紙の一部を、『ギリシア哲学者列伝・上』より引用しておく。

ソロン宛のペイシストラトスの手紙

しかし、私としては貴殿が私の企図を明るみに出されたことに対して、貴殿を咎めはしません。それは私への敵意によってというよりも、むしろ国家に対する好意によってなされたことなのですから。そして、それはさらに、私がどのような支配体制を確立しようとしていたかを、貴殿がご存知なかったからでもあります。

もし、知っておられたなら、おそらく貴殿はその支配の確立を我慢されたでしょうし、国外に出られることもなかったでしょうから。だから、私を信用してもう一度帰国して頂きたい。

もっともソロンはペイシストラトスから何一つ不快な目に遭わされることはないだろうという旨の誓約をするわけにはいきませんが。ただしかし、私の政敵の他の誰もそんな目に遭ったことはないということは知っておいて頂きたいのです。そしてもし貴殿が、私の友人の一人になることを望まれるなら、貴殿は最高の待遇を受けられることになるでしょう。

私は貴殿の中に裏切りや信用できないものを認めてはいませんから。またもし、他の条件でアテナイに住むことを希望されるのなら、ご希望どおりに致しましょう。どうか、我々のことで、貴殿が祖国を失われることのないようにして頂きたいものです。
ペイシストラトス宛のソロンの手紙

私は貴殿から何一つ害を受けることはあるまいと信じております。というのも、貴殿が僭主となられる以前から、私は貴君の友人でしたし、そして現在も私は、僭主制を快く思っていない他のどのアテナイ人よりも、貴君と敵対的な関係にあるわけではないのですから。アテナイ人にとって一人の人間に支配されるほうがよいのか、それとも民主制の下で暮らすほうがよいのかは、我々2人のどちらも、自分の考えによって決める事にしましょう。

クレイステネスによるアテナイの民主化

アテナイの政治形態は、『貴族政治(貴族制)→財産政治(財産制)→僭主政治(僭主制)→民主政治(民主制)』というように変遷していくが、民主政治を確立したのはクレイステネスである。

紀元前510年にペイシストラトスの後継者となった僭主が民衆の不興と怒りを買って追放されると、アテナイにはクレイステネスが現れて紀元前508年クレイステネスの改革を断行する。

クレイステネスの改革によって、貴族と平民の権力格差を是正する為の10部族制が施行され、貴族階級の権力基盤であった伝統的な地縁血縁に基づく部族制度が廃止される運びとなった。この改革によって、貴族階級は従来のような強い影響力を行使することが不可能になり、貴族は有名無実化して平民と同化する傾向を見せた。

更に、クレイステネスは、民主政治が堕落して衆愚政治に陥った時に独裁者の出現を抑止する為に、陶片追放(オストラシズム)の制度を考案した。陶片追放とは、市民に陶器の破片に『将来、僭主として台頭してきそうな人物(必ずしも悪徳な嫌われ者ではない)』を書かせて投票を行い、6,000票以上を集めた人物は10年間アテナイの都市から追放されるといった制度であった。クレイステネスは、偶然の民意によって民主制を維持するのではなく、制度設計によって自動的に民主制が維持されるような計画を立てたのである。

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