シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909~1943)

シモーヌ・ヴェイユの人生と思想

『重力と恩寵』に見るシモーヌ・ヴェイユの自己否定の哲学

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シモーヌ・ヴェイユの人生と思想

シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909~1943)は若干34歳で夭折したフランスの女性哲学者だが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方の戦争を体験して、神学的な霊性と哲学的な直感に根ざした独特な思想を展開している。シモーヌ・ヴェイユはパリでユダヤ人の医師である父親と教育熱心な母親との間に生まれたが、児童期から偏頭痛の持病を発症して身体の弱さに悩まされた。『数学の天才・神童』と評価されて後に数学者になった兄のアンドレ・ヴェイユには知的な劣等感を抱いていたという。

シモーヌ・ヴェイユが14歳の思春期に陥った“精神的危機”は、自身の知的能力や学術的な素養の劣等感に根ざしたものであり、その劣等コンプレックスは兄のアンドレ・ヴェイユや過去の哲学者ブレーズ・パスカルと自分を比較した場合に、自分が余りに平凡で無力であることに発していた。14歳のシモーヌ・ヴェイユは自分の能力と知性の欠如を恨んで、このまま真理を獲得できずに生きるのであれば死んだほうがマシとまで思い詰めてしまうのだが、彼女は自分が思っているほど凡庸・無能な人間では無論なく、その後、アンリ4世校に進学して僅か22歳で哲学の『アグレガシオン(大学教授資格)』を取得している。ヴェイユは『神を待ち望む』の記述において『人がパンを望む時に石を受ける事はない』という福音書的な確信に近づき、人間が真理を望みその真理の王国に到達するための努力を怠らなければ、どんな人間でも真理に到達できるという宗教的な啓示を得ることになる。

アンリ4世校では『人間論』『幸福論』などで知られる哲学者アラン(Alain, 1868-1951)にヴェイユは師事しており、21歳で高等師範学校(エコール・ノルマル)の卒業論文『デカルトにおける科学と知覚』を書いて、ブランシェヴィック教授に提出し、22歳で上記したようにアグレガシオン(大学教授資格試験)に合格している。哲学者のアランは世間に知られた通名(ペンネーム)であり、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエ(Emile-Auguste Chartier)といった。

1931年にル・ピュイのリセで哲学教授に任命されたが、資本家に搾取されている当時の貧しい労働者階級の境遇を分かち合うために工場・農場での仕事も体験し、社会主義の革命的組合主義者(サンディカリスト)とも政治的な接触を重ねている。シモーヌ・ヴェイユは与えられた短い時間と空間の枠組みにおいて、労働現場と政治活動にその身を投じながら自身の知性と思想を深化させていったが、ル・ピュイ市議団に対する失業者の陳情を煽動したことが事件になったりもしている。

1932年にオセールに転任して従来の共産主義思想(フランス共産党の政治手法)やソ連のスターリニズムとも距離を置き始め、1933年には『我々はプロレタリア革命に向かっているのか』という論文で、スターリンが強権的に指導しているロシア革命の現状を厳しく非難している。ソ連共産党内部でスターリンとの権力闘争に敗れて、パリに亡命してきたトロツキーをヴェイユは自宅に匿ったりもしているが、彼女の社会主義思想は一貫して『労働者の現実的な立場・境遇の実体験』に基づいたものだったとされている。1934年にはリセで1年間の長期休暇を取得して、一介の女工として肉体的にきつい工場労働を経験しており、1935年8月には知識人としての慢心を戒める工場体験を終えて、ポルトガルの漁村を訪れ『キリスト教は従属的な奴隷の宗教である』という認識を新たにする。

1936年8月には、マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府とフランシスコ・フランコ率いる反乱軍が戦った『スペイン内戦(1936年7月 - 1939年3月)』に左派アナーキスト系の全国労働連合(CNT)の義勇兵として参戦したが、9月に戦闘で火傷を負ってフランスに帰国している。友人である作家のベルナノスに、この時の戦争体験について手紙に書いて送っている。反ファシズム陣営である人民戦線政府をソビエト連邦が支援して、フランシスコ・フランコ将軍をファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持した内戦であり、このスペイン内戦は第二次世界大戦の前哨戦としての意味合いも持っていた。1937年には宗教的転機とも言える体験をしており、イタリアのアシジで聖フランシスコが祈願したとされる小聖堂の前で跪いている。

1938年になると幼少期からの持病であった偏頭痛が悪化して教職を休職しており、ソレムのベネディクト修道院で『キリストが降りてきてその御手に抱かれた』という神秘的なキリスト体験をしており、シモーヌ・ヴェイユの哲学的思索は宗教的な色彩を強く帯びるようになってくる。1940年には、戦争の前線で兵士と痛みや不安を分かち合うための『第一線看護婦部隊編成計画』を執筆したが、この時期にも古代ギリシアの哲学書や古代インドのウパニシャッド哲学(『バガヴァッド・ギーター』)に関する読書を精力的に続けていた。しかし、『ユダヤ人法』により公職追放処分を受けて、ユダヤ人迫害の危険が差し迫った為に、シモーヌ・ヴェイユは両親と共にナチズムの脅威を逃れて、パリからマルセイユへと移住することになった。

ナチズムの迫害や弾圧の恐怖が迫る状況下で、ヴェイユは『根こぎ(根)』『憐れみ』といった哲学的モチーフを生かした戯曲『救われたヴェネチア』を執筆している。その後は、ドミニコ会のペラン神父や農耕哲学者のギュスターヴ・ティボンと出会って、農場で地道な農作業に従事しながら、同時並行的に哲学論文の作成や詩作、『霊的自叙伝』の執筆を行ったりしていた。1942年7月にはマルセイユ経由でニューヨークへと亡命しており、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領に『第一線看護婦部隊編成計画』の実現を求めたりもしている。

祖国フランスの危機を憂いていたヴェイユは、クーチュリエ神父に質問状形式で『ある修道士への手紙』を送り、1942年11月にはフランスに帰国して解放戦争に参加しようと思いロンドンにまで帰っている。ロンドンを亡命政府の拠点にしていたシャルル・ド・ゴール将軍(Charles Andre Joseph Pierre-Marie de Gaulle, 1890-1970)率いる『自由フランス』に共鳴して、戦後のフランス再建案である『根をもつこと』を書いている。しかし、ナチ占領下のフランス解放を目指すレジスタンス活動の途中で体調を崩し、急性肺結核を発症してしまう。ヴェイユは自ら十分な食事を取ることを拒絶して衰弱していき、1943年8月24日に34歳の若さでその生涯を終えることになった。シモーヌ・ヴェイユの主著は『重力と恩寵』であるが、彼女の著書はそのすべてが死後に出版されたものである。

『重力と恩寵』に見るシモーヌ・ヴェイユの自己否定の哲学

シモーヌ・ヴェイユの思想哲学は学術的に体系化されておらず断片的なものであるが、共産主義やキリスト教神学(ローマカトリックの世界観)の影響を受けながらも、特定の党派や組織に依存しない『個としての自立性・独創性・詩情』を備えたものである。マルクスの共産主義を真に理解するためにヴェイユは厳しい工場労働の現場に身を投じ、キリスト教の世界観や神秘性を真に理解するためにローマカトリックのティボン神父(ギュスターヴ・ティボン)と直接的に語らっているが、ヴェイユの哲学は徹底的な『現場主義・経験主義』に基づくものでもあった。

『労働・宗教・政治・戦争・歴史』などの現場に直接的にコミットし続けたシモーヌ・ヴェイユだったが、彼女は教条的な組織の主義主張に染まることはなく、硬直的な教会・政治結社の教義(ドグマ)を盲目的に信じることもなかった。シモーヌ・ヴェイユの哲学の思索や概念は、キリスト教カトリックの世界観や神秘体験の影響を受けてはいるものの、ヴェイユ自身は正式なカトリックの洗礼を受けた事はなく、自分自身を『教会の敷居の上に立つ者(教会の権威からは距離を置く者)』として位置づけていた。現場主義の情熱的な行動力とイエス・キリストの受難(パッシオン)を体験的に解釈した『憐れみ(コンパッシオン)』の感覚によって、シモーヌ・ヴェイユの思想的な世界と概念は“真理(神)”を目指して独創的な発展を遂げたのである。

シモーヌ・ヴェイユの哲学の始まりは、自分の平凡な才能の限界によって“真理”を得られないのであれば死んだほうがマシというほどの激しい劣等コンプレックス(悲観的認知)から始まっているが、ヴェイユの哲学の究極的な目的は『真理の獲得』であると同時に『シニカルな神との邂逅(神を否定するほうがより神に近い)』であった。ヴェイユは真理・神に到達する数少ない道として『美』を想定しており、美を憧憬して美しいものに惹きつけられ、更にその美に服従(屈服)するのは人間の本性であると考えた。ヴェイユは『美しいものに対する支配・所有』ではなく、『美しいものによる自己否定』こそが真理(神)に至る道であるとしており、完全で普遍な美に対しては、人はそれがそのままであってほしいという以上の欲求は持てないとしている。

美しいものはそれそのものの存在が『目的・真理』であり、美しいものを手に入れることによって快楽を得たり自己を高めたりする『道具・手段』にすることはできない。シモーヌ・ヴェイユは『美は常に約束するが、決して具体的な何かを与えることはない』と語っており、自己拡張的な“対象に対する自己の支配・所有・独占”を否定している。“真に美しいもの”に対すると、人は自己の無力さや醜さを痛感させられて、その前で自己否定して憧憬するしかなくなってしまうのであり、その美を自分のものにしたり支配したりする事などは決して出来ないのである。ヴェイユは『完全な美』に対して距離を置いて憧れて眺めることしかできない人間の無力さや自己否定に、真理に至る道を見出したのである。

ヴェイユは自己の影響力を拡大させて他者を支配しようとすることが『人間本性』だと看破していたが、強者が弱者を虐待して善人が悪人を指弾する世俗の現実を嫌悪しながらも、キリスト教でいう『小さく弱き者=不幸な状況にある者』こそが真理に接近できる資格を持つとも考えていた。弱者は強者の前で自由意志と選択の可能性を奪われてしまい、ただその力関係と命令に服従するだけの物質になってしまうが、この自由な精神を失って他者に屈服してしまい、人格的な価値が損なわれた状況を指してヴェイユは『不幸』と呼んだのである。ヴェイユは自分自身が工場労働者や農夫、義勇兵として労働(戦闘)をする体験をしているが、それらの体験を通して『思考力・人格性・自由意志を奪われた状態である不幸』についての洞察を深めており、『自己否定的な不幸』を体験することによって人が真理(神)に接近するという思想を固めていった。

『不幸な状況』とは自分が自由意志を持つ一人の人格として尊重されないことであるが、その不幸は自分自身を放棄して他者を救ってあげようとする『隣人愛』によって解消されることになる。隣人愛というのは、強いから愛するや美しいから愛する、正しいから愛するといった“条件つきの愛”ではなくて、その人がただその人であるということのみによって愛するという“無条件・無償の愛”なのである。

隣人愛は愛する者を取り込んで所有するような愛ではなく、絶対者に対する無条件の愛を他者にも及ぼそうとするものであり、『小さく弱き者』に対する“注意力”によって隣人愛は発揮されることになるのである。神への集中した注意力こそが“祈り”であり、注意力の働いている祈りは個人の私欲に塗れた思考を停止させて、無欲かつ純粋な神(真理)を待つ待機状態を準備することになるのである。『美』だけではなく『不幸』が真理に至る道になっているというのは、不幸が個人の思考を停止させる役割を果たして、無欲・純粋な神を待つ待機状態につながっているからである。

努力や忍耐をしてその報いを求めるのではなく、ただひたすらに真理を待望するのが『自己否定』であり、ヴェイユは悲惨や絶望さえもそのまま見つめる純粋さを持つことで、その『注意力』が真理探究に向かっていくことになると考えたのである。そこには自己の不完全性や無力さを徹底的に自覚する修道僧的な態度があり、究極的には『自己の生存・生命』よりも『真理・神への到達』を優先するというストイックな思想が胚胎していたのだった。ヴェイユは純粋な不幸による絶望と無力をありのままに受け容れるという奇跡的な精神力こそが、『不幸を経由した神(真理)への到達』の鍵であると考えていたようである。

シモーヌ・ヴェイユは『自己否定としての神(真理)』を前提として自己の哲学を確立していったが、人間が自己を増大させようとするのは自然であり、自己を縮小させようとするのは超自然であるという常識的な認識も持っており、東洋哲学・仏教思想にもつながる『自己無化』というのはある種の奇蹟によってのみ成し遂げられることなのである。ヴェイユが書き残したノートを友人のティボン神父が編集したのが主著の『重力と恩寵』であるが、ヴェイユは『魂の自然な動きはすべて物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけがそこから除外される』と冒頭で述べており、下落や崩壊、悪徳へと向かう“重力”に抵抗する“恩寵”に神の存在のリアリティを見ているのである。

世俗の世界は人の魂を低き(悪い方向)に押し流していく『重力』に支配されているが、その重力を抜け出して魂を上昇させるためには自助努力ではなくて、『神・真理の待望』こそが必要であるという。人間を下落させて押さえつけようとする『重力の下降運動』に対抗できるのは『恩寵の上昇運動』だけであるが、その恩寵の上昇運動は自分を高めようとする努力ではなく、自分が無力であるが故に神・真理の顕現をひたすら待つという『待望』によってもたらされるのである。『三位一体論』においては神であるイエス・キリストは、わざわざ神から最も遠い場所で重力に押し流されている人間の元へとやって来て、人間の贖罪のために十字架上で磔刑に処されたが、ヴェイユによればこの磔刑も世界創造(不完全な世界の創造)も『神の自己否定』として解釈されている。

“重力の下降運動”と“恩寵の上昇運動”を二元論的な世界の運動原理としているヴェイユの『重力と恩寵』では、神の磔刑や世界創造の自己否定を“人間の自己否定”に照応させているのだが、人間は神が創造した不完全なこの世界を受け容れるために、『隣人愛と美への愛』による自己否定(自己拡張欲求の否定)を進めていかなければならないと説いている。神の実在感が欠如していて、不幸や災厄でこの世界が満ちていることが、この世界が神そのものであること(神の天地創造の自己否定であること)の証明であるとヴェイユは語るが、それは自分の幸福や世界の正しさとは無関係にただこの世界を愛するという“真理(神)への道”を示してもいるのだ。

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