ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889~1951)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの人生と思想

前期の『論理哲学論考』と後期の『哲学探究』

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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの人生と思想

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)は、鉄鋼財閥を起こしてオーストリアの産業の近代化に貢献した父カール・ウィトゲンシュタインとピアノの才能に恵まれていた母レオポルディーネとの間に、8人兄弟の末っ子として1889年に誕生した。経済的に非常に裕福な一族の生まれであり、父方も母方もユダヤ人(アシュケナジム)につながる家系であるが、ウィトゲンシュタイン自身はカトリック・キリスト教の洗礼を受けており、死後の葬儀もカトリック式で行われた。父親のカール・ウィトゲンシュタインは、画家のグスタフ・クリムトや彫刻家のオーギュスト・ロダン、詩人のハインリヒ・ハイネ、建築家のヨーゼフ・ホフマンらと親密な交流があり、パトロンとして経済支援も行っていたので、富裕なウィトゲンシュタイン家は教養趣味や知的刺激、文化的環境にも恵まれていたとされる。

しかし、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインらの8人兄弟は必ずしも幸せな人生を全うしたわけではなく、4人いた兄のうちの3人は精神的苦悩から自殺しており、残りの1人であるパウル・ウィトゲンシュタインも第一次世界大戦で右手を失って、左手のピアニストとして生きる事になった。ルートヴィヒにもうつ病の既往に基づく『自殺願望・希死念慮・孤立癖』があったとされており、その怜悧な思考力や哲学的な功績にも関わらず、彼の精神的懊悩は生涯を通して深かったようである。ルートヴィヒは同性愛者(ホモセクシャル)であり社交的な性格でも無かったためか、経済的には恵まれていたにも関わらず生涯を独身のままで終えている。音楽家のモーリス・ラヴェルは、右手を戦争で無くしたパウルのために『左手のためのピアノ協奏曲』という楽曲を捧げている。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは1903年までは学校に通わずにホームスクーリング(家庭教育)で初等教育の知識を学んでいたが、実技習得に力を入れているリンツの高等実科学校(レアルシューレ)で3年間の学校教育を受けてから、1906年にベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)に入学し、そこで機械工学を専攻している。ルートヴィヒは元々哲学の分野には関心がなく、シャルロッテンブルク工科大学(ベルリン工科大学)に入学した理由も、当時興味を持っていた航空工学を専門的に学ぶためであった。その後、工学の博士号取得のためにマンチェスター大学工学部へと移り、小型ジェットエンジンの推力で回転するプロペラ設計に従事して、1911年に『特許権』も取得している。

しかし、大学在学中にルートヴィヒの学術的な関心は、航空工学から『数学基礎論・論理学』へと移っていくことになり、数学者で哲学者のゴットロープ・フレーゲ(Friedrich Ludwig Gottlob Frege, 1848-1925)の勧めを受けて、イギリスのケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)に転学してバートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970)の下で論理学の研究を始める。ラッセルはウィトゲンシュタインを一目見て僅かな会話を交わしただけで、その並外れた論理学・数学の素質を見抜いたというエピソードも残っているが、ウィトゲンシュタインはこのケンブリッジ大学で終生の友人となるジョン・メイナード・ケインズとも出会っている。

ゴットロープ・フレーゲは1879年の『概念記法』の功績によって古代ギリシアのアリストテレス以来の最大の論理学者とも評価される人物であり、量化の記号を用いて命題論理と述語論理の公理化を行い、言語哲学・分析哲学の研究方法の基礎を確立している。バートランド・ラッセルも『数学原理(Principia Mathematica,1911-1913年)』で階型論理的に数学のパラドックスを解こうとする研究を行ったり、各時代の哲学者とその政治的・社会的な状況を結びつけて『西洋哲学史(A History of Western Philosophy)』という著作を書いたりしている。

ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学のアカデミズムの環境では、哲学の根本的問題に接近する思索を行うことができないと考えるようになり、ノルウェーの山荘(山小屋)に籠もって思想的な隠遁生活を送るようになる。前期ウィトゲンシュタインの主著である『論理哲学論考(1922)』の原型となるアイデアが生まれたのもこの時期であり、ウィトゲンシュタインは情熱的な哲学的思索に没頭し続けていた。しかし、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は断片的な命題や思考を箇条書きのように書き並べた独特なスタイルであり、大学が論文審査の要件としている『註釈・主文と引用の区別』がなかったため、ウィトゲンシュタインはこの段階では博士号を取得することが出来なかった。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア軍に志願兵として従軍してイタリア軍の捕虜になるような経験もしている。ウィトゲンシュタインは戦争中はうつ病と自殺願望に悩まされながらも幾つかの戦功を立て、戦闘の合間に言語が世界を写し取っているという“写像理論”に基づく『論理哲学論考(1922)』の草案を書き留めていった。戦争が終わって復員するとウィトゲンシュタインは全財産の放棄をして、経済的な余裕を失うことになる。フレーゲやラッセルに打診しながら『論理哲学論考』の出版を目指すが、その論文の内容や価値を真に理解する者(出版社)を見出すことができずに、失意の日々を過ごすことになり、1920年に小学校の教員免許を取得してから、ウィーンの南部のニーダーエスターライヒ州にある田舎の学校に教師として赴任した。

ウィトゲンシュタインが田舎の小学校教師になる道を選んだ後も、バートランド・ラッセルは『論理哲学論考』の出版を目指して努力を続けており、1921年に友人のチャールズ・ケイ・オグデンを通してイギリスのキーガン・ポール社と英訳版の出版契約を結ぶことができた。ヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』では、オリジナルであるドイツ語版を掲載してもらう契約も結んだ。英語版・ドイツ語版共に論理記号に関連した誤植の多さが目立っていたが、翻訳をした数学者のフランク・ラムゼイ(Frank P. Ramsey)とチャールズ・ケイ・オグデンが、誤植だらけのドイツ語版を見ながらその疑問点をウィトゲンシュタインに直接問い合わせたお陰で、『誤植・誤解による間違い』の多くが修正されることになった。

ウィトゲンシュタインは経験と規律を重んじる熱心な教師として働いたが、保守的な農村の教育風土や教え子の親の価値観とは相容れることがなく、次第に地域から孤立していき『生徒に対する体罰事件』を起こして教職を辞職することになる。教員を辞めてからはウィーンで庭師をしながら隠棲生活を送り、姉マルガレーテ・ストーンボローの新居の設計を行ったりもしたが、オランダの数学者ブラウアーの基礎数学に関する講演を聞いたことが切っ掛けとなり、再び哲学への意欲と情熱が回復してくる。

1929年にウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の教壇へと戻る。そこで、前期ウィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』を自己批判するような“無根拠な言語ゲーム”の内容を持つ後期ウィトゲンシュタインの主著『哲学探究』の思索を旺盛に進めていくのである。しかし、ウィトゲンシュタインの生前に出版された著書は『論理哲学論考(論考)』『小学生のための語彙集』だけであり、『哲学探究』はウィトゲンシュタインの死後から2年経った1953年に出版された著作である。

1939年に師のムーアが退職したことでウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学の哲学教授となり英国市民権を獲得するが、大学を退職してからの晩年の仕事は、アイルランド西海岸の田舎で行われた。1949年に前立腺がんという診断を受けたウィトゲンシュタインは、人生最期の2年間をオーストリアのウィーン、アメリカ、オックスフォード、ケンブリッジと色々な土地を巡って過ごした。1951年、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をする予定だった友人たちが到着する僅か数日前に、ケンブリッジで死去することになった。臨終の場におけるウィトゲンシュタインの最期の言葉は、『素晴らしい人生だったと伝えてくれ』だったとされている。

前期の『論理哲学論考』と後期の『哲学探究』

“20世紀の言語論的転回”を成し遂げたとされるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの思想・哲学は大きく、前期の『論理哲学論考(1922年)』と死後にまとめられた後期の『哲学探究(1953年)』とに分けることができる。ウィトゲンシュタインの哲学を更に細かく分類すると、以下のような時期に分けることもできるが、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は科学的世界観の確立を目指す“ウィーン学団(Wiener Kreis, Vienna Circle)”の思索活動や研究テーマにも大きな影響を与えている。

ウィトゲンシュタインの哲学は、観念的・思弁的な形而上学を否定して科学主義的な経験・実験・論理によって命題を証明しようとする『論理実証主義(logical positivism)』とも深いつながりを持っており、論理的な思考と客観的な根拠によって事象を明らかにしていこうとする論理実証主義は『科学哲学・言語哲学(分析哲学)』の基盤になっていった。エルンスト・マッハの経験主義哲学やルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの論理実証主義を前提とする『ウィーン学団』では、オットー・ノイラートルドルフ・カルナップによって数学・論理学を基礎知識とする諸科学の統一(原理的に検証不能な形而上学や偽の命題の排除)が目指されることになり、そのための宣言も為されている。ウィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考(論考)』は、このウィーン学団や論理実証主義の思想潮流において聖書のような位置づけに置かれることになった。

前期ウィトゲンシュタインの論理学の発想と主張は『論理哲学論考(1922年)』にまとめられているが、この著作は数字が振られた短い断章を箇条書きのように並べるという独特の文体で書かれている。ウィトゲンシュタインの説明では、『命題2』に対しては2.1、2.2、2.3……が註釈(敷衍する内容)になっており、 更に2.1に対しては2.11、2.12、2.13…が註釈(敷衍する内容)になっているという。『論理哲学論考』の基本的な主張・思想は、小数点以下が付いていない以下の“七つの断章”に整理することができる。

『論考』に示される前期ウィトゲンシュタインの哲学は、『摩擦(ザラザラ)のないツルツルの透明な氷原』に喩えられることもあるが、形式論理学の対象となる『論理言語』を対象にしたものであり、そこには人間の日常生活やコミュニケーションの要素が全く含まれていない。それに対して、『哲学探究』に示される後期ウィトゲンシュタインの哲学は、『摩擦(ザラザラ)のある整地されていない大地・泥濘』に喩えられており、人間(自己)と人間(他者)との間で展開されるコミュニケーションの不確実性(非論理性)を含む『日常言語』を対象にしたものなのである。

ウィトゲンシュタインの前期と後期の思想の変化、泥臭い日常言語の分析への転換に対して、師のバートランド・ラッセルは『トルストイが百姓の前に身を屈したように、ウィトゲンシュタインも常識の前に身を屈した』と批判的に捉えた。だが、『言語の使用(コミュニケーション)』によって言語の意味が産出されるという“言語ゲーム(他者の発言・記述の了解に基づく自己完結的な言語体系)”のコンセプトは、論理分析から日常言語分析への方法論の転換をもたらすことになり、その後の英米思想や分析哲学に甚大な影響を与えることになった。

ウィトゲンシュタイン自身は、前期と後期の思想上の変化や転換の必要性について『哲学探究』で以下のように述べているが、後期ウィトゲンシュタインは『ザラザラとした摩擦・抵抗・不確実性』を欠点と見なすような世界観を捨て去る方向を目指したと言える。ウィトゲンシュタインは、“摩擦のないツルツルの氷原(=純粋な論理学的世界)”“摩擦のあるザラザラの大地(=不完全な人間同士が相互に織り成す生活的世界・コミュニケーション的世界)”との間で終わりの無い葛藤に晒されていたのである。

“我々は全く摩擦のないツルツルした氷原の上に彷徨いでた。そこでは諸条件がある意味では理想的なのだが、正にそのために我々は先に進むことができない。我々は先へ進みたい。そのためには摩擦が必要である。ザラザラした大地へ戻れ!”

前期ウィトゲンシュタインは哲学の目的について『哲学の目的は思想の論理的な明晰化である。哲学は学説ではなく活動である』だと述べていたが、後期ウィトゲンシュタインは古代ギリシア哲学以来の観念的な実証を伴わない形而上学を批判する『メタ哲学』を展開した。ウィトゲンシュタインは“哲学者の仕事”について、原理的に解決も実証もできない『形而上学的な問題群(真善美・精神と物質・神と真理・自由意志と決定論など)』について無益な考察をすることではないと主張し、これらの形而上学的な命題は古代以来の哲学者たちが『言語の使い方(使用法)』を間違っているだけだとした。

後期ウィトゲンシュタインは、言語を“形式的な論理言語”としてではなく“実践的な日常言語”と見なすようになっており、言語は根源的に『日常的なコンテクスト(コミュニケーションの便宜)』のためにのみ機能すると考えるようになっていった。その日常言語としての言語が、日常的な領域や用途を超えて用いられる場合に、形而上学的な問題や偽命題(=原理的に答えのないナンセンスな命題)の提示が起こってくるのである。ウィトゲンシュタインは『言語が思考の可能性を決定する』という前提に立って、『神の存在・人間の存在意義・時間や空間の本質・自由意志の有無・善悪の起源』などは、言語の日常言語としての機能を超えた『偽命題(原理的に答えようがなく検証もできない問題)』に過ぎないと喝破したのである。

ウィトゲンシュタインの提示した哲学的方法論とは、『形而上学的な真理探究』における伝統的な言語の誤った使い方(日常言語の誤用)を否定するものであり、日常的なコンテクストを離れた非現実的な言語の使い方を是正させるものであった。そのため、後期ウィトゲンシュタインは哲学者の仕事について『ハエ取り壷に迷い込んだハエを導き出すような仕事』と述べており、哲学史の大部分が原理的に解決不能(検証不能)な偽命題に敢えてこだわってきただけに過ぎないことを曝露してしまったのである。『言語ゲーム』は無根拠でありつつも根源的な性格を持っており、日常生活やコミュニケーションに適応した『正しい言葉の使い方』によってのみ、哲学的命題はナンセンスさを越えて有意味なものになるのである。

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