『歎異抄』の第六条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第六条

一。専修念仏(せんじゅねんぶつ)のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ相論(そうろん)のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらう。そのゆへは、わがはからひにて、ひとに念仏をまふさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、弥陀の御もよほしにあづかて念仏まふしさふらうひとを、わが弟子とまふすこと、きはめたる荒涼のことなり。

つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきてひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説(ふかせつ)なり。如来よりたまはりたる信心をわがものがほにとりかへさんとまふすにや。かへすがへすも、あるべからざることなり。自然(じねん)のことはりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々。

[現代語訳]

ひたすらに念仏を唱える修行をしている同胞の中で、あの者は私の弟子だ、いや他の人の弟子だといっていがみ合う争論があるということですが、こんな(仏法に反する)争論などもってのほかです。親鸞は一人の弟子さえも持っていません。その理由は、私の意図によって他人に念仏をさせたならば、その人は私の弟子とも言えるでしょうが、実際には阿弥陀仏の念仏への誘いの光明に預かって念仏をするようになった人なのですから、その人を自分の弟子だなどと申し上げることはとんでもないことです。

前世からの一緒にいるべき縁(運命)があれば弟子として伴い、離れるべき縁(運命)があればその弟子と離れることもあるのですから、師に背いて別の師について念仏をすれば往生することが出来なくなるなどということは、言語道断な誤った考え方です。阿弥陀如来様から頂いた信心を我が物にしてしまって、それを取り返そうとでもいうのでしょうか。返す返すも、そんなことはあってはならない事です。(ある師の元を去っていた弟子であっても)自然の理法に従っていれば、仏の無限の恩を知り、また師の恩を知ることもあるでしょう。

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