喫茶去(きっさこ)

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喫茶去
(きっさこ)

[意味・エピソード]

中国の唐(618~907)の時代の禅師・趙州(じょうしゅう,778年~897年)の禅語録にある言葉である。『喫茶去』とは『お茶をどうぞ召し上がれ・お茶を一服いかがですか』といった意味であり、『去』は強調の助辞なので特別な意味はない。

趙州和尚が新到(新参者)の僧侶に対して、『以前にもここに来たことがありますか?』と尋ねると、『いいえ、来たことはございません』と新到が答えたので、『そうですか、どうぞお茶を召し上がれ』と言ってもてなした。次にまた別の新到の僧侶に対して、『以前にもここに来たことがありますか?』と尋ねると、『はい、来たことがございまず』と新到が答えたので、『そうですか、どうぞお茶を召し上がれ』と言ってもてなした。

その様子を見ていた院主(寺務総長)が、『趙州老師、初めて参った新参者にお茶を召し上がれと言われるのは分かりますが、以前にも来たことがある者にもお茶を召し上がれとまた言われるのでしょうか?』と尋ねた。『院主さん』と趙州が呼びかけ、院主が『はい』と返事をすると、再び趙州は『さあ、どうぞお茶を召し上がれ』と語りかけてきた。この時に、院主ははたと禅宗の奥義について悟ったのである。

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立場の違う三人に対して、ただ『喫茶去(お茶をどうぞお上がりなさい)』とだけ言ってすっとお茶を差し出す趙州の境地は、お客が誰であろうと分け隔てなく平等に真心を持って接するという『無分別(無差別)』の悟りの境地に達しているのである。あちらとこちらを隔てる分別の心を乗り越えている趙州は、お寺を訪ねてくるすべての人たちに対して、真心を込めてお茶を差し出そうとする。

そこには自分が好きな人だからとか、お金持ち・権力者だからとかいった『特別扱い』などは微塵もなく、自分のお寺にやってくるすべての人たちを分け隔てなくもてなしてあげたいという真情の優しさだけがあるのである。『貴賎・貧富・賢愚・男女・老若』などの価値判断や利害の区別がそこには全くない、ただ無心で気持ちの籠った一杯の茶碗だけが差し出されてくるのであり、そこに禅門の『茶礼』の奥義が宿っているのである。

茶道家は禅宗を期限とする『喫茶去』や『一期一会』の禅語を好んで掛け軸にしたりもするが、一休宗純(いっきゅうそうじゅん,1394年~1481年)から村田珠光(むらたじゅこう,1422年~1502年)へと伝えられた禅の茶礼は、わび茶を標榜した千利休(せんのりきゅう,1522年~1591年)の手によって『茶の湯・茶道(さどう)』として大成されることになった。千利休は茶の湯(茶道)の奥義について、素朴な喫茶去の精神を引き継ぐようにして、『茶の湯とは、ただ湯をわかし茶を点てて飲むばかりなる本を知るべし』とだけ語っている。

参考文献
有馬頼底『茶席の禅語大辞典』(淡交社),秋月龍珉『一日一禅』(講談社学術文庫),伊藤文生『名僧のことば 禅語1000』(天来書院)

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