業(カルマ)と輪廻・解脱:『無我・無常』の仏教は業(カルマ)をどう説明したか?

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原始仏教のアビダルマ(阿毘達磨)とは、釈迦牟尼世尊(ブッダ,紀元前6~5世紀頃)の説いた教えと言行からなるアーガマ(阿含)を、釈迦の死後300~900年が経過して弟子がまとめた教義体系である。上座部仏教(小乗仏教)の教義でもあるアビダルマの特徴であり限界でもあるのは、『法(ダルマ)』の外から世界や法を客観的かつ合理的に眺める過度に理論的・知的な姿勢であり、『普遍的な法(ダルマ)の中で煩悩・苦悩に塗れて生きる私』という“当事者性(生きて苦しむ私の視点)”が抜け落ちているのである。

古代インドの宗教・思想に共通する人間の苦の原因として『輪廻(りんね)』があり、死んでも生前の『業(カルマ)』に応じて何度も生き返って新たな苦しみを受けることになるとされる。古代インドのバラモン教は秘術的な祭式・祭祀によってその輪廻を解脱しようとしたし、釈迦の仏教も学問・修行・瞑想によって無常を悟ることでその輪廻を解脱しようとしたのである。業(カルマ)というのは端的には『行為』のことであり、『行為の結果として長く残存するもの(行為の結果であり再び行為の原因にもなるもの)』である。

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『輪廻(サンサーラ)』とは『業(カルマ)』によって生じる生まれ変わりであり、苦しみを伴った生命の無限回の転生であるが、業を消し去るか超越するかした『解脱』の境地においてその輪廻転生のループを止めることができるとされる。古代インドのウパニシャッド哲学では“ブラフマン(梵=宇宙の根本原理)”“アートマン(我=自己・自我の中心にある個体の生命原理)”を合一化・冥合する『梵我一如(ぼんがいちにょ)』によって、業(カルマ)を超越した解脱の境地に到達できるという考え方もある。

ウパニシャッド哲学は、『ブラフマン(梵)』を宇宙の根本原理として尊重する哲学だが、紀元前1世紀のバーダラーヤナが開祖となり8世紀の学者のシャンカラの活躍で知られる『ヴェーダーンタ学派』では、ブラフマンのみが唯一の宇宙の普遍的実在であるとされ神格化されていった。輪廻の原因となる『業(カルマ)』の概念そのものは、バラモン教(古代ヒンドゥー教)の思想家や祭式にも取り入れられているし、バラモン教の聖典ヴェーダの研究である『初期ウパニシャッド(紀元前800年~紀元前500年)』にも登場するもので、紀元前10世紀より前の民間信仰にまで遡るとされる。

仏教の『六道輪廻(りくどうりんね)』では、人間は生前の行為の善悪(業のカルマ)によって『天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界』のいずれに生まれるか、どんな生命・動物として生まれるかが決まるとされるが、こういった業によって何に生まれ変わるかが決まるという輪廻の考え方自体は、初期ウパニシャッド(古ウパニシャッド)の時代からある。

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古代ウパニシャッド哲学における『アートマン(我)』というのは、古代ギリシア哲学やキリスト教でいう『霊魂』のようなもので、人間・動物などの個体に生命力を吹き込んでいる『個体の生命原理』である。人間が死ぬとその人間の身体に宿っていた『アートマン(個体の生命原理・霊魂)』が身体から抜け出していき、そのアートマンに現世で獲得した知識や業(カルマ=行為の余勢の影響)がくっついて、新たな身体に合一していくという仕組みになっている。

古代ウパニシャッドと釈迦の仏教思想の最大の違いは『自我(アートマン)の実在』を認めるか否かであり、仏教は『諸法無我(しょほうむが)』で自我が実在しないという前提を立てているから、死んだ肉体から自我の生命原理である霊魂(アートマン)のようなものが抜け出していくという話にはならない。

ウパニシャッド哲学では、アートマンという自我・霊魂の生命原理が『業(カルマ)を背負って次の身体(母胎)に移っていく基体』になっている。更にその後のウパニシャッドの『サーンキヤ学派』では、死後に身体を構成していた粗大な元素は消失するが、微細な元素と感覚・思考の機能は新たに微細な有機体を再構成して、それが『業(カルマ)』になるのだとした。ウパニシャッドでは輪廻する主体は、業(カルマ)がくっつくアートマン(自我・個体の生命原理)だったが、それがサーンキヤ学派において微細な元素から構成される有機体というやや科学風の考え方に変わっていったのである。

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善悪の業(カルマ)となるウパニシャッド哲学のアートマンの発想は、紀元前1200~1000年の古代インドの聖典・賛歌の『リグ・ヴェーダ』にまで遡るといわれる。このリグ・ヴェーダでは、人間はその死後に地・水・風の中に散っていって『無』になるが、無にならない部分もあってそれが祖霊のいる天上界へと『影』のように上っていくのだという。この『影』がアートマン(個人我ともいわれる個体の生命原理)の原型になったとされる。

仏教の六道輪廻でも人間として生まれ変わるか、人間の中でも王侯貴族として生まれるか、貧困者・奴隷として生まれるか、人間以外の牛・馬・カエルなどの動物として生まれるかは事前に『業(カルマ)』によって規定されるとする。しかし、諸法無我の仏教では自我を否定するので、アートマン(個人我)のような業の担い手はなく、人間の死とは有機体を構成していた『無数の法(ダルマ)』が解消されることだと、説一切有部のアビダルマでは解釈された。

仏教では肉体的要素も精神的要素も、世界・生命を含むすべての根本原理である『法(ダルマ)』の集合によって構成されていて、人間・動物が死ねばその無数の法(ダルマ)がバラバラに解消されてしまうのだが、そのバラバラに解消されたダルマの中に前世の業(カルマ)がわずかに含まれているのである。ウパニシャッドのように人間の肉体の中に『霊魂・個体の生命原理(=アートマン)』があると考えなくても、仏教では肉体と精神を構成している『無数の原子的な微細な法(ダルマ)』の中に、次の生命体を構成する『業(カルマ)』が含まれているというように考えるのである。

『業(カルマ)』が、原子的・微細・瞬間的な法(ダルマ)によって構成されているというアビダルマ(説一切有部)の仏教の考え方は、『実在を瞬間的な生滅によって解釈する(恒常的に存在を続ける実在というものはない)』という仏教独自の『諸行無常』『空(シーニャ)』を意識させる存在論にもつながっている。アビダルマでは、ダルマの存在の瞬間性を強調することによって、自我(アートマン)を用いずに業(カルマ)による輪廻転生を合理的に説明しているのである。

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説一切有部のアビダルマでは、ダルマの瞬間的な生滅による業(カルマ)の再構成というアイデアによって、『諸行無常』『諸法無我』という仏教の基本理念を、業(カルマ)が流転する輪廻と両立させているのである。その後の大乗仏教の龍樹(ナーガールジュナ)世親(ヴァスバンドゥ)の仏教思想になると、ダルマの瞬間性による消滅と再構成は否定されることになるが、龍樹の『中論(中観思想)』では業(カルマ)といった自己同一的な刹那のダルマは『空(シーニャ)』に過ぎないとして退けられることになる。

瞬間なダルマの消滅と再構成は、龍樹(ナーガールジュナ)によれば、ダルマがいったん消滅した後の業(カルマ)の永続性を説明できない論理矛盾な考え方であり、輪廻を説明するためには『業の永続性』と『ダルマの持続性』の両方がなければならないとした。大乗仏教の中観や唯識においては、唯一の実在としての法(ダルマ)も否定されることになり、世親(ヴァスバンドゥ)『唯識二十論』では業(ダルマ)も地獄・獄卒・針の山なども『主観的な表象』で物理的な実在ではないと結論づけられている。

大乗仏教の特に唯識(ゆいしき)では、無限の過去から知識・記憶・感情が蓄えられている精神分析家カール・グスタフ・ユングが提唱した『普遍的無意識(集合無意識)』にも似た『阿頼耶識(あらやしき)』といったものが想定されている。唯識はこころ(認識)の転換によって人間の苦しみや迷いを消し去るというものであり、『業(カルマ)』はこの阿頼耶識の無限の過去からの因果の流れとして解釈され、個人の行為のみの業の因果から切り離して輪廻を上手く説明しているのである。

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