キリスト教の誕生とパレスチナの地

キリスト教の聖典は『新約聖書』『旧約聖書』であり、キリスト教の神の母胎は、ユダヤ民族が信奉するユダヤ教の神ヤーヴェ(ヤハウェ,YHWH)にある。ユダヤ民族は、モーセの十戒の第3戒にある『神の名をいたずらに口にしてはならない』を長い年月にわたって厳守した為、神の名前を示すテトラグラマトン(神聖四文字)の正確な呼び方を忘却してしまったとされている。

テトラグラマトン(神聖四文字)は、“YHWH”あるいは“JHVH”であり、現在ではヤーヴェ(ヤハウェ・ヤーウェ)と読むものとされているが、中世時代まではエホバという語訳が採用されていた。神の名をみだらに唱えてはならないとする戒律を遵守するユダヤ人達は、通常、神の名を口にすることはなく『主(アドナイ)』『御名(ハシェーム)』と呼んでいる。

ユダヤ教が成立した経緯とイスラエルの民族の歴史については、『世界の宗教史の略年表(紀元前)』を参照して頂きたい。ここでは、ユダヤ教の『旧約聖書』の概略とキリスト教が誕生した歴史的背景について説明していこうと思う。

キリスト教を生んだ“パレスチナの聖地”と救世主(キリスト)を渇望した時代背景

唯一神を信じる一神教であるキリスト教は、厳格な一神教であるユダヤ教の影響を強く受けていて、その教義と歴史の延長線上に誕生した。キリスト教が誕生した紀元前後の中東地域は、ローマ帝国領に組み込まれていたが、アレクサンドロス大王の大遠征(B.C.334)によって広まったヘレニズム文化の雰囲気が色濃く残っていた。

アレクサンドロス大王は、相次ぐ東方遠征によって大帝国を建設した功績が注目されやすいが、ペルシア帝国のオリエント文明とポリス(都市国家)のギリシア文明を融合させた歴史的意義は大きい。ヘレニズム文化の流行によって、中東地域(パレスチナ)にギリシア語訳の旧約聖書が浸透していった。

キリスト教は、イエス・キリストという唯一神の子によって創始され、1世紀前半からその伝道の歴史が始まることになる。イエスとは、旧約聖書にユダヤ人の指導者として出てくるヨシュアと同じ名前であり、当時の一般的な名前の一つであった。キリストとは、『油を塗られし者・神に祝福された者』という意味であり、宗教的な『救世主』を指示する言葉である。

イエスが創始した初期のキリスト教(原始キリスト教)は、中東のパレスチナ地域で誕生した。現在、イスラエルのユダヤ人とイスラエル建国によって居住地を追われたパレスチナ人(イスラム教徒・キリスト教徒が混在)の間で、激しい紛争が繰り返されているパレスチナがキリスト教誕生の地である。パレスチナ地域にある都市エルサレムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の共通の聖地であるために、その所有権を巡ってさまざまな紛争の主戦場となってきた歴史を持つ。エルサレムの領有を巡って数多の戦争が勃発したが、エルサレムはヘブライ語で『平和の都』という意味を持っている。

パレスチナ地域の範囲は、現在では、イスラエル、エジプト(北部)、シリア、ヨルダン、レバノンという国家にまたがっていて、古来から文化文明の十字路として賑わっていた。パレスチナは、西方を地中海で遮られ、東方を死海に注ぐヨルダン川で区切られていて、南部は広大なアラビア砂漠のあるシナイ半島へと続いていた。

遥か太古の紀元前の時代には、メソポタミア文明とエジプト文明が肥沃な穀倉地帯を巡って角逐する地域でもあった。パレスチナは、南方に行くほど峻険な山岳地帯と不毛の亜熱帯気候の砂漠が多くなっていくが、古代パレスチナ地域は、北からガリラヤ・サマリヤ・ユダヤというように呼ばれていた。ユダヤ地域を更に南に行くと、ネゲブ砂漠という過酷な気候と食料の少ない土地が広がっていた。

イエス・キリストが誕生した時代には、既にユダヤ民族の独立は失われており、伝説の君主ダヴィデ王によって建設されたイスラエル王国や分裂したユダ王国が滅亡してから500年以上の歳月が流れていた。イスラエル王国とユダ王国が滅亡してから、ユダヤ民族は、アッシリア帝国・バビロニア王国・ペルシア帝国・ギリシアの都市国家・ローマ帝国に支配され抑圧され続けてきた。

ユダヤ民族はそういった歴史的変遷の中で、民族アイデンティティの困難に直面して、被支配民族としての屈従や貧困に喘いでいた。ユダヤ人に限らず当時の被支配者階層(社会的弱者)には、永遠にこの屈辱や困窮から抜け出せないという諦観が瀰漫していた。

しかし、現世の不幸に対する諦観と同時に、救済を切望する人々の思いも高まりを見せ始めていた。いつかこの閉塞した時代や苦痛な生活状況から、自分たちを救済してくれる救世主の到来を渇望する雰囲気が醸成されていたのである。自分たちを永遠の幸福と栄光に導く救世主(キリスト)が降臨するという希望は、ユダヤ人や奴隷・使用人といった社会的弱者だけではなく、パックス・ロマーナ(ローマの平和)の倦怠や無為に喘ぐ支配者階層(ローマ人・貴族階級)の間にも潜在的にあったようである。

ローマ帝国の支配圏において幻想的で理知的なグノーシス主義の新興宗教が流行したのは、パックス・ロマーナの物理的繁栄だけでは充足しきれない人間の実存的な渇きがあったからではないだろうか。王侯貴族であっても、『私は何の為に生きているのか?』『この世界が存在する意義とは何なのか?』という実存的な空虚感からは自由になれず、死後の世界に対する未知の恐怖を感じていた。

被支配層には『現世の苦悩からの救済契約』としてキリスト教が価値を持ち、貴族にとっては『生きる意味・存在意義の探求への絶対的な回答』としてキリスト教が精神に浸透した。キリスト教誕生の精神的要因として、『社会的弱者の切実な救世主待望』『実存的な存在意義への回答・死後の世界の保証』が考えられる。

当時の閉塞した時代背景と『人と世界の存在意義』を希求する心理を考えると、キリスト教は正に、旧約聖書の文言にあるように『時満ちて』誕生した宗教というように解釈する事も出来る。そして、敬虔なキリスト教徒の視点から見れば、イエス・キリストは時満ちて現世に遣わされた神の移し身であり、真の救世主なのであろう。

三つの一神教の聖地エルサレムとは?

エルサレムは、三つの一神教の聖地であるが、ユダヤ教徒にとっては、ソロモン王時代のシオン第一神殿の遺構としての『嘆きの壁』、キリスト教徒にとっては、主イエス・キリストが磔刑に処されたゴルゴダの丘の上に建つ『聖墳墓教会』、イスラム教徒にとっては、開祖ムハンマド(マホメット)が天使ガブリエルに導かれ昇天した『岩のドーム,アル・アクサ・モスク』が極めて重要な聖地となっている。ただし、イスラム教徒にとってエルサレムは第三の聖地であり、ムハンマドが神の啓示を受けたメッカ(第一の聖地)、ムハンマドが迫害されて聖遷(ヒジュラ,622年)を行ったメディナ(第二の聖地)に次ぐ聖地となっている。

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