ギリシア神話の天地生成と主神ゼウスの誕生

古代ギリシアの二大叙事詩人:ホメロスとヘシオドス

古代ギリシア世界の諸民族に広く普及していたギリシア神話のエッセンスは、吟遊詩人などが口ずさむ口承の叙事詩や伝説・物語として民衆に伝えられていました。ギリシア神話は、古代ギリシアの都市国家(ポリス)に伝承されていた神話や伝説だけでなく、ヨーロッパの地中海世界に語り継がれていた伝承や説話が集積されて作り上げられたものであり、当時のヨーロッパ世界の一般教養としての側面を持っていました。

ギリシア神話の伝説や物語のアイデアの起源は紀元前15世紀以前にまで遡ると言われますが、ある程度系統的にまとめられた口承文学の叙事詩を作成したのは紀元前9世紀の詩人と言われるホメロス(ホーマー)です。客観的な証拠によって実在が確認できない伝説上の叙事詩人であるホメロス(B.C.9~8世紀)は、一説には盲目の吟遊詩人であったとも言われ、『イリアス』『オデュッセイア』というヨーロッパの口承文学史上に燦然と輝く傑作を残しました。

トロイの木馬を用いた戦略やアキレウスとヘクトールの一騎打ちで知られるトロイア戦争(イリオス戦争)を題材とした『イリアス』は、ブラッド・ピット主演のハリウッド映画『トロイ』の原点としても知られます。ギリシア軍最強の武将アキレウスとギリシア軍の総大将アガメムノンの言い争いから幕を開ける『イリアス』では、10年もの長きにわたって続いたトロイア戦争の最後の50日間の出来事が記されており、ギリシアの神がギリシア軍とトロイア軍を支援して、人間と神々の愛憎が錯綜する激しい戦争が繰り広げられます。

『イリアス』の続編である『オデュッセイア』は、トロイアのパリスを支持していた海神ポセイドンの怒りを買って、故国のイタカ島に帰還できなくなった英雄オデュッセウスの貴種漂流譚の構成を取っています。オデュッセウスがイタカ島に無事帰還するまでの逸話ですが、その過程の冒険では、船員を豚に変えてしまう魔女キルケや船員の心を美しい歌声で魅了して船を沈没させるセイレーンなどの妖異のものが登場してスリリングな展開となっています。

ホメロスと並ぶ古代ギリシア時代の二大叙事詩人として、『神統記(テオゴニア)』『仕事と日々』を書き著したヘシオドス(B.C.8世紀)がいます。ホメロスをヨーロッパの文学史における『口承文学の始祖』とすれば、初めて体系的に文字で神々の系譜と英雄の物語を編集したヘシオドスは『文字文学の始祖』ということが出来るでしょう。ホメロスとヘシオドスは、西欧教養文化の原点に位置づけられる叙事詩人であり、世界の起源や神々の物語に関する古代地中海世界の共通理解を確立した人物と言えます。

ヘシオドスの記録した世界の始原としての『カオス(空隙)』

ヘシオドスは著書『神統記(テオゴニア)』において、歴史上初めてギリシア神話の神々の系譜(血統と相関関係)と世界の起源を体系的に整理した叙事詩人です。更に、神々が展開した歴史的逸話や人間の英雄が果たした事績、ギリシア世界に起こった事件を系統的に記録したという功績もあります。『仕事と日々』では、古代ギリシアの市民生活の起源や労働の義務などについて記載されており、民衆に仕事をすべき神話的根拠を説く教訓的な叙事詩の体裁をとっています。ホメロスは、大河の神オケアノスと海の女神テテュスによって世界が創造されたと歌っており、ヘシオドスとは違った世界誕生の物語を紡いでいます。ヘシオドスの神統記では、オケアノスとテテュスは、大地母神ガイアと天空の神ウラノスの子であるとされています。

『仕事と日々』では、主に農民の農業生活の勤勉と実直を奨励する文章が綴られていますが、それは、ヘシオドス自身がギリシア中部地方のボイオティアの農民だったとされているからです。『仕事と日々』には、労働道徳の処世訓以外にも人間の起源に関する物語が書かれ、有名な『パンドラの箱』の物語も収載されています。

『神統記(テオゴニア)』には、この世界の起源に関する記述もあり、ヘシオドスは森羅万象の始まりは全てを飲み込む巨大な『カオス(空隙・空虚)』であると記しています。カオス(chaos)のギリシア語での原義は『大きく口を開く』という意味ですが、基本的には広漠な何もない空虚な広がりや無限に遠く広がり続ける空隙のようなものをイメージすると良いと思います。一般的にカオスには『無秩序・混沌』といいますが、ヘシオドスの『神統記』では『空隙・空虚』の意味で世界の始原としてのカオスを説明しています。

一定の空間的な広がりの中に、乱雑に構成要素が散らばっているという『無秩序』の意味で『カオス』を用いるようになるのは、ラテン文学の黄金期を確立したオヴィディウス(B.C.43-A.D.17)が活躍した古代ローマ帝国時代のようです。オヴィディウスは、ガイウス・ユリウス・カエサルから養子のオクタヴィアヌス(初代皇帝アウグストゥス)に権力が移っていくローマの帝政初期の詩人であり、代表作『変身物語』の中で無秩序や混沌という意味でカオスの語を用いています。

世界の最も早い段階にあったのは『カオス(空隙)』であり、カオスはギリシアの神々よりも前にこの世界に存在していて、天空や地上も自然生成的にこの世界に誕生したと説きます。ギリシア神話の世界生成の物語は、キリスト教やユダヤ教の聖典である旧約聖書に記述されている『創世記』の天地創造とは異なり、全能の神が意識的に世界を創造したわけではありません。ギリシアの天地生成は飽くまで自然発生的に起こったものであり、世界の始まりの時期にはただ広漠無辺な空隙(カオス)だけがあったのです。

万物の起源であるカオス(空隙)から、初めに非人格的な三つの神が生み出されます。それは、大地の神ガイア、冥界の神タルタロス、愛欲(生殖)の神エロスの三つの神であり、この段階では人格神としての特徴を備えていませんでした。時代が降るにつれて、ガイアは大地母神的な女神としての特徴を持つようになり、タルタロスは地底の最奥部に鎮座する冥界の王として記されるようになります。愛欲の神エロスに至っては、ローマ神話の時代になると恋の弓矢を持ったキューピッドになり、可愛らしい幼児の姿を持った神へと変質していきます。エロスは一般的な用語として『性愛欲求・生の欲望・生殖欲求』としての意味を持ちますが、詳しくは『ギリシア世界のエロスとキリスト世界のアガペー』を参照して下さい。

大地の神ガイアから生まれた天空の神ウラノス

世界の始原であるカオス(空隙)は、更に闇の神エレボスと夜の神ニュクスを誕生させて、この世に暗がりの闇と夜の空間を生み出しました。エレボスとニュクスは世界で初めての結婚をして、光の神アイテルと昼の神ヘメラを生みます。世界の最初期に生まれた原初神は、親子や兄弟姉妹で婚姻して子を生み出しますが、これは古代の神や王族の特権的生殖観を示していると解釈することも出来ます。しかし、ギリシア神話の初期の神々は、人格神ではないと考えられるので、近親婚を特別に意識する必要はないでしょう。また、ギリシアの神々は性別に関係なく子を産んだり、男性神や女性神一人で子を産む単性生殖を行うこともあります。

闇の神エレボスは、大地の神ガイアの担当する地上の領域の下にある『地下世界』を担当しています。地下世界のエレボスを更に奥深く潜行していくと、この世界の最深部である冥界(地獄)のタルタロスへと行き着くことになります。夜の神ニュクスは、この世界に静寂と安眠に満ちた夜の空間をもたらし、激しく戦闘を繰り返す者たちを調停する役割も果たします。また、夜の女神ニュクスは、大地の神ガイアと並んで多産の女性神であり、エレボスとの間に澄明(光)の神アイテルと昼の神ヘメラ、三途の川の渡し守カロンを設けました。

更に、ニュクス一人で誕生させた神々には、死の神タナトス、睡眠の神ヒュプノス、義憤(復讐)の神ネメシス、争いの神エリスなどがいます。義憤の神ネメシスは、執拗に求愛してくる主神ゼウスから逃げ続けていましたが、ダチョウに変化して身を隠していたところに白鳥に化けたゼウスが飛来して、その子を妊娠することになります。ネメシスとゼウスの間に出来た子は卵として生まれ、スパルタの王妃レダの元へと卵が渡ります。その卵から生まれた子が、ヘレネとディオスクロイであり、ヘレネは将来起きるトロイア戦争の原因を生み出すことになります。スパルタの公女であるヘレネに熱い愛情を寄せたトロイア国の王子パレスが、ヘレネをスパルタから連れ去ったことが原因となって長期に渡るトロイア戦争が勃発するのです。

大地の神ガイアは、うっとりとしたまどろみの中で自らの配偶者となる天空の神ウラノスを生み、次いで山の神々と海の神ポントゥスをこの世に生み出しました。ウラノスは、化学元素のウラニウムの語源になり、太陽系の第7惑星である天王星の名前にもなっていますが、大地母神ガイアと天空の神ウラノスの交合によって人格化された神が誕生してきます。ガイアとウラノスの結婚が成立する以前は、ギリシア神話の神々は自然事象そのものであり、人格神としての特徴は殆ど持っていませんでした。

ガイアはウラノスとの間に、12柱(男性神6柱と女性神6柱)の『ティターン神族』と額の真ん中に一つの目を持つ『単眼巨人(キュクロプス, サイクロプス)』たち(三兄弟)、50個の頭と100本の腕を持つ『百腕巨人(ヘカトンケイル)』たち(三兄弟)を産みました。ガイアの配偶者でありガイアの長男でもある天空の神ウラノスは、全世界を統治する王の座にありましたが、ガイアが産んだ大きな一つ目を爛々と光らせるキュクロプスや、不気味な50個の頭と奇怪な100本の腕を持つヘカトンケイルが気に入りませんでした。

異形の外見と圧倒的な力を有するキュクロプスとヘカトンケイルに恐怖して憎悪したウラノスは、彼らを地底の奥深い場所であるタルタロスへと幽閉し地上に戻って来れないようにしようとします。あるいは、キュクロプスとヘカトンケイルを、再びガイアの母胎内に詰め込んでしまったとする説もあります。12人のティターン神族は人格化された神であり、ティターン神族には『大河の神オケアノス、海の女神テテュス、末子のクロノス、記憶の女神ムネモシュネ、掟の女神テミス、大地の女神レア、イアペトス(プロメテウスの父)、クレイオス、テイア、ヒュペリオン、コイオス、ポイベ』がいます。

ティターン神族も兄弟姉妹で結婚して、子を為します。男神ヒュペリオン(太陽の神)と女神ティア(月の神)の間には、月の女神セレネと曙の女神エオス、そして、太陽神として著名なヘリオスが生まれます。男神コイオスと女神ポイベの間には、アステリアとレトが生まれます。そして、ギリシア神話のオリンポス12神や主神ゼウスへと連なっていくのが、農耕と時間の神クロノスと大地の女神レアの子ども達です。

原父殺害のモチーフとしてのクロノスの王位簒奪

自らの子ども達に無償の温かい愛情を注ぐ母・ガイアと自らの子どもが自分の王位を奪いに来るのではないかと猜疑の眼差しを向ける父・ウラノスに決定的な破局の時が迫っていました。ガイアは、自分がお腹を痛めて産んだ大切な子であるキュクロプスとヘカトンケイルを地底の地獄タルタロス(自分の胎内)に閉じ込めたウラノスに対する憎悪と怒りを日増しに強めていきます。そして、子どもに対するウラノスの冷酷な仕打ちに我慢の限界を感じたガイアは、ウラノスを王位から引き摺り下ろすことを決意します。

大地母神ガイアは、自らの誇りであるティターン神族の息子達にウラノス排撃を呼びかけますが、世界の支配者であるウラノスの圧倒的な力に畏怖する息子達は尻込みしてしまいます。その中で唯一、『母ガイアよ、私がウラノスを打ち倒して貴方の望むを叶えてみせましょう』と志願したのが、ティターン神族の末子で農耕の神であるクロノスでした。農耕の神クロノスはローマ神話の時代になるとサトゥルヌスと呼ばれるようになり、時を大鎌で刈り取り砂時計を象徴として持つ『時の神』としての性格も付与されることになります。母ガイアは、クロノスに鋼鉄製の大鎌を与え、クロノスは深夜にガイアと交わる為に天空から降りてきたウラノスを待ち伏せします。ガイアより授けられし全てを切り裂く鋼鉄の大鎌を持ったクロノスは、突如、物陰から躍り出て父ウラノスの陰部を切断しました。

ウラノスの傷口から溢れ出た血液から、復讐の女神エリニュス、巨大な体格を持つ怪物のギガス、トネリコと呼ばれるモクセイ科の落葉高木の妖精ニンフが誕生しました。切り取られたウラノスの陰部は海中へと落下し、その精子は海中で泡だって愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)が生まれました。神話上の原父殺害のモチーフを体現したクロノスは、姉妹のレアと結婚して子を為します。ウラノスを王座から放逐して世界の支配者として君臨することとなったクロノスは、ウラノスとガイアから『汝自身も、自らの子によって世界の支配者の地位を追われることになるだろう』という予言を受けていました。

予言の成就を恐れたクロノスは、レアが産んだ子ども達を次々と自分の腹の中に呑み込んでいきました。『我が子を夫によって奪われる』という苦悩と絶望に苛まれたレアは、母ガイアと父ウラノスに『何とかして次の子どもの命だけは助けてあげたい』と相談を持ち掛けます。自らの子を呑み込まれるレアに同情した両親の導きによって、レアはクノッソス宮殿の遺跡で知られるクレタ島で極秘裏に6番目の子ゼウスを産むことに成功します。レアは生まれたゼウスを隠して、石を赤ちゃんの産着に包んでクロノスに渡しました。石を我が子と間違えて認識したクロノスは、そのまま石を呑み込んでしまいました。

成長してクロノスと対峙するだけの実力を蓄えたゼウスは、呑み込まれた兄弟姉妹を救出する為にクロノスに嘔吐剤(辛子や塩を混入したハチミツ)を飲ませます。その結果、次男の海洋神ポセイドン、長男の冥界の王ハデス(ハーデス)、3女のヘラ、次女のデメテル、長女のヘスティアがクロノスの口から吐き出されます。この6柱の神々が、テッサリア北部のオリンポス山に拠点を移し、オリンポス神族(オリュムポス神族)と呼ばれるようになります。

Copyright(C) 2004- Es Discovery All Rights Reserved