出雲神話1:スサノオのヤマタノオロチ退治

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『出雲神話』とヤマト王権・三貴子の一人であるスサノオ

前回の記事では、海幸彦と山幸彦の兄弟に関するエピソードを解説しましたが、『古事記』の神代の時代の部分の3分の1程度を占めるのは、スサノオや大国主命(オオナムチ)が登場する出雲神話です。『出雲国風土記』に文化風俗や民情、特産物が記されている出雲国(現在の島根県)は地方の一国に過ぎませんが、日本神話に書かれている大国主神(オオクニヌシ)・大己貴命(オオナムチ)が支配する出雲国は、地上の『葦原中国(あしわらのなかつくに=日本全体)』に相当する大きな国であり、大国主神はスサノオの息子とされています。

記紀の日本神話の世界では、アマテラスオオミカミやタカミムスビを中心とする高天原の天津神のグループと、出雲国の大国主神(オオナムチ)を中心とする国津神のグループとの対立図式がありますが、大国主神の『国譲り』の決断によって出雲国が天津神のグループ(後のヤマト王権・大和朝廷)に帰属するようになったと伝えられています。

出雲国には近畿(大和)のヤマト王権(天皇権威)の成立以前から、強力な政治権力(独立国)や文化的集団があって、それをヤマト王権が軍事力によって侵略・制圧したのではないかとも推測されていますが、日本神話の出雲の記述にどれくらいの史実性が含まれているのかは大きな謎になっています。『大和・出雲の政治権力(国)の対立と統合』が古代のどこかの時点で行われたのかもしれませんが、あるいは想像力に基づいた創作として出雲から大和への『国譲り』のエピソードが作られたのかもしれません。

スサノオノミコト(素戔男尊・素戔嗚尊・建速須佐之男命)は、イザナミから逃げて黄泉の国から帰還したイザナギが、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊を行い、鼻を濯いだ時に産まれたとされています。スサノオはイザナギとイザナミの間で生まれた三貴子(さんきし)の一柱ですが、三貴子とは『天照大神(アマテラスオオミカミ)・月読命(ツキヨミノミコト)・素戔男尊(スサノオノミコト)』の神々のことを指しており、天照大神は高天原を、月読命は夜・滄海原を、素戔男尊は夜の食国(よるのおすくに)を支配するとされています。高天原で荒ぶる神となって乱暴狼藉を働き、アマテラスオオミカミを『天の岩戸』に隠れさせたスサノオは、その後に高天原を追放されて地上の葦原中国に天下ることになります。

出雲国の肥河(ひのかわ)の上流にある鳥上(鳥髪山)に下ったスサノオは、乙女を囲んだ足名椎(あしなつち)と手名椎(てなつち)の老夫婦が泣いている場面に遭遇して事情を聞きます。この土地の村を荒らして人々を恐れさせている八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という巨大な蛇の怪物がいて、毎年、若い娘を生け贄として要求してくるという事であり、最後に残ったのがこの櫛名田比売(奇稲田姫・くしなだひめ)という少女だといいます。ヤマタノオロチは頭が八つ、尾が八つという強力な化け物でしたが、スサノオは天津神としての出自を明らかにして、自分が櫛名田比売を妻としてヤマタノオロチを退治してやるという約束をします。

スサノオという神は元々、出雲や紀伊の地方神だったと推測されており、その言葉の意味も本居宣長が主張した『荒び男(すさびお)の語源』に由来するものではなく、出雲国飯石郡須佐郷という須佐の地名に由来するのではないかと言われています。スサノオが紀伊国の地方神だったのではないかと言われているのは、樹木の生産地である『木の国(紀の国)』であった紀伊国の伝承として、スサノオが引き抜いた髭や胸毛、尻毛などが山々を満たす樹木になったという言い伝えが残されているからです。髭は杉に、胸毛は檜に、尻毛は板(まき)に、眉毛は楠になりましたが、スサノオは『杉・楠は浮宝にし、檜は宮殿の材料にし、板は人々の棺桶の材料にしよう』と語りました。スサノオは高天原を追い出された時に息子のイタケルを伴っていましたが、出雲国に下る前に韓国の新羅国に下ったも言われます。

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スサノオノミコトの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治

八頭八尾の恐ろしい怪物であるヤマタノオロチを退治するために、スサノオノミコトが立てた謀略的な作戦は、大量の酒を満たした8つの木の桶(酒槽・さかぶね)を準備して待ち構え、その酒を飲んでヤマタノオロチが酔いつぶれたところを襲うというものでした。スサノオは好きになった櫛名田比売を歯の多い『櫛』に変えて髪に挿していきましたが、酒をぐびぐびと飲んで酔いつぶれたヤマタノオロチを十拳剣・十束剣(とつかのつるぎ)で切り殺すことに成功しました。肥の川はヤマタノオロチの血で赤く染まり、切り裂いた尾からは『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』という三種の神器となる霊剣が出てきて、スサノオはその草薙剣をアマテラスオオミカミに献上しました。

スサノオによるこのヤマタノオロチ退治の伝承は、記紀には記されているが『出雲国風土記』では紹介されておらず、古代日本には世界の一部の地域で見られた『人身御供(人間を犠牲として捧げる)』という宗教的風習が無かったことから、ヤマタノオロチ退治のエピソードは出雲人に伝わっていた民話・伝承ではないのではないかという仮説もあります。しかし、ヤマタノオロチ退治の説話は、稲田の女神と水の神(龍蛇)が結びつく神婚譚にアレンジが加えられたものと考えることもでき、元々は『巨蛇の怪物と姫の人身御供』というエピソードではなく、稲田の豊作を願う龍蛇崇拝が変形したものではないかとも考えられています。

出雲地方の斐伊川・飯梨川の上流では砂鉄が取れて、古代出雲ではタタラ(踏鞴)という手法で製鉄業が行われていましたが、その地方には鉄器・鉄具を制作する『鍛冶部(かぬちべ)』と呼ばれる製鉄職人集団の集落があったといいます。砂鉄から鉄器を作るタタラ製鉄の過程では、川の水の流れを利用して砂鉄分だけを濾過する『かんな流し』という作業があり、この作業を行うと鉄分を含んで赤く濁った水が大量に排水されるので、この様子がヤマタノオロチの血で肥の川が赤く染まったというエピソードの源流になっているのではないかとも言われます。ヤマタノオロチを退治したスサノオはクシナダヒメと結婚して、出雲国須賀の里に拠点を定めましたが、その6世の孫に当たる人物が、葦原中国の支配者となる大国主命(オオクニヌシノミコト)・大己貴命(オオナムチ)なのです。

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