織田政権の成立発展と石山本願寺との戦い

織田政権の成立と一向一揆との戦い
石山本願寺・上杉謙信・雑賀一揆・毛利輝元による信長包囲網

織田政権の成立と一向一揆との戦い

『織田信長による将軍義昭の追放』の項目では、『信長包囲網』を築いていた15代将軍・足利義昭を追放し三好三人衆を討伐したことによって、信長の天下布武の野望が大きく前進しました。織田信長は実質的には義昭を奉戴して上洛した1568年から畿内に政権基盤を確立していましたが、将軍義昭を追放して室町幕府を滅亡させた1573年から本格的に『織田政権(1568,1573-1582)』が発足することになります。

将軍義昭が京都に在所している間は、信長は義昭に一定の配慮をして独自の守護を補任(ぶにん)しませんでしたが、義昭を追放する直前から信長は各国に『守護』に代わる『一職(いっしき)』を補任するようになります。信長が最初に朱印状(しゅいんじょう)を発行して『一職支配』を任命した事例は、将軍義昭の篭城する槙島城を包囲している時に、山城(京都)の桂川以西の地域を細川藤孝(細川幽斎,1534-1610)に与えた例です。

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細川藤孝(幽斎)は近世細川氏の祖となる人物ですが、清和源氏の流れを汲むものの管領細川氏の家柄ではなく、三淵晴員(みつぶちはるかず, 1500-1570)を父に持つ和泉守護の家柄でした。関ヶ原の戦い(1600)の時に非業の死を遂げるキリシタンの細川ガラシャ(ガラシャ夫人,1563-1600)細川忠興(ただおき,1563-1646)の妻ですが忠興は幽斎の嫡子です。

信長は滅ぼした近江・浅井氏の旧領地を羽柴秀吉に与えて一職支配を命じ、摂津の一職支配(守護)を荒木村重(むらしげ,1535-1586)に、1574-75年にかけては山城・大和の一職(守護)に原田直政(なおまさ,生年不詳-1576)を任命しました。荒木村重は後に信長に謀反を起こすものの、本能寺の変もあって一命を取りとめ余生を茶人として過ごしたという異例の武将です。原田直政は行政の才覚に秀でた武将であり、鎌倉時代の源頼朝以降、伝統的に守護が置かれていなかった興福寺(南都)が統治する大和の一職支配を任されましたが、1576年に石山合戦の中で戦死しました。

織田信長は自軍の武将たちを守護に補任する権限を掌握して、専制主義(君主主義)的な織田政権の整備を進めますが、信長の気質の残虐性を見抜いた毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい,1539-1600)は信長の早期の破滅を予言したといいます。安国寺恵瓊は、信長の容赦のない冷酷な気質・苛烈な処罰が謀反を生むきっかけになるのではないかと臆測したわけですが、そのきっかけになったのは積年の恨みを抱いていた『浅井久政・浅井長政・朝倉義景の頭蓋骨』を薄濃(はくだみ,頭蓋骨を漆や金泥で装飾したオブジェ)にしていたこと、その薄濃を酒の肴(観賞用)として興じていたことでした。

浅井・朝倉を滅亡させた後に信長に立ちふさがる敵は、甲斐の武田勝頼と石山本願寺の一向一揆や長島一向一揆でした。1574年1月には、信長が旧朝倉領の越前においた守護の前波吉継が富田長秀が殺害されて、越前一向一揆が蜂起し、甲斐・武田勝頼は織田方の東美濃に侵攻してそのまま占拠に成功しました。1574年3月に織田信長は従三位参議へと昇進し、それまで継続的に苦しめられてきた『伊勢長島の一向一揆』の徹底鎮圧へと乗り出します。この時、本願寺顕如は信長に名茶器の『白天目(しろてんもく)』を献上して停戦状態にありましたが、4月2日に将軍義昭の呼びかけに応じて石山本願寺は三度目の決起をします。

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最強の宗教軍事勢力である石山本願寺が決起すると、近江の六角承禎、河内の遊佐信教(ゆさのぶのり)、三好康長といった面々も信長に対立するようになり戦況が厳しくなります。一方、徳川家康配下の小笠原長忠(おがさわらながただ)が守る遠江の高天神城が、1574年6月に甲斐・武田勝頼に陥落させられ、再び武田の脅威も強まってきます。信長が心配する越前一向一揆に対しても、石山本願寺は僧侶・下間頼照(しもつまらいしょう)を送って統制力を強めようとしますが、越前一向一揆は本願寺が派遣した頼照の指導を受け容れず独立的な一揆勢力として拡張します。

7月12日には、長年にわたって信長に抵抗する伊勢の長島一向一揆の完全鎮圧に乗り出し、海陸両通路を封鎖して3ヶ月にわたる過酷な兵糧攻めを行い、9月29日に一揆側は降伏しました。それでも一向一揆の根を断ち切ろうとする信長は長島一向一揆の降伏者を許さず、男女を問わない撫で切りと焼討ちを実施して2万人以上の死者を出すことになります。

伊勢の長島一向一揆を鎮圧した信長が次に目を向けたのは、同盟者の家康が治める遠江に進出してきた信玄の遺子・武田勝頼(かつより,1546-1582)でした。信玄の死後に信玄の家臣だった奥平貞昌(おくだいらさだまさ)は徳川家康方に寝返りましたが、家康は奥平貞昌に新築した長篠城を守らせます。1575年4月に、武田勝頼の勇壮な大軍が三河に進軍して5月13日~14日に長篠城を攻撃しますが、奥平貞昌は何とか守り抜きます。家康は岐阜の織田信長に援軍を要請し、これを武田氏滅亡のチャンスと認識した信長は、5月14日に大軍を率いて岡崎城に到着し『織田―徳川の連合軍(約3万8000人)』が形成されました。

1575年5月21日に、織田・徳川連合軍と武田軍がぶつかり合う『長篠の戦い』が開始されますが、信長は戦国時代最強と謳われた『武田の騎馬部隊』に対抗するために『(鉄砲の)三段撃ち戦法』を採用して武田軍に圧勝しました。信長は騎馬隊の侵入を防ぐための『防御柵』を設置して鉄砲隊を3つの部隊に分け、3つの鉄砲隊が交替ですぐさま鉄砲を撃つことで、『弾込めのための時間差』なく武田の騎馬隊を射撃したといいます……しかし、この信長の三段撃ち戦法が史実であるか否かははっきりしないとも言われています。大敗した勝頼は、ほうほうの態で領国の甲斐に逃げ帰りました。

武田勝頼に大勝した信長は、織田軍団の総力を上げて『一向一揆の持ちたる国』になった越前を攻めることを決断します。この越前一向一揆の鎮圧には、羽柴秀吉・柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・原田直政といった錚々たるメンバーが参加しましたが、織田政権は各地で起こる一向一揆に断続的に苦しめられてきました。石山本願寺・顕如と争った石山合戦(1570-1580)がその筆頭に上げられるべきものですが、それ以外にも『三河一向一揆(家康が1564年に鎮圧)・近江一向一揆(本願寺開城と共に鎮圧)・長島一向一揆(信長が1574年に鎮圧)・越中一向一揆(上杉謙信と1573年に和睦)・越前一向一揆(信長が1575年に鎮圧)・加賀一向一揆(柴田勝家が1580年に鎮圧)』などの一向一揆と織田軍団は戦い続けてきたのでした。

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室町・戦国時代において、鎌倉仏教の親鸞を祖とする浄土真宗(一向宗)は膨大な信徒を抱える最大の宗教勢力となっており、『南無阿弥陀仏』の旗を掲げた本願寺門徒・一向宗門徒の統制に戦国武将たちは長年手こずり続けました。1575年に越前一向一揆を鎮圧した信長は、重臣・柴田勝家を越前の守護として一職支配を命じ、前田利家・佐々成政・不破光治を補佐につけ、宗教勢力を抑えるための厳格な掟を越前に発布しました。

1575年(天正3)11月4日に織田信長は権大納言(ごんだいなごん)に昇進し、更に11月7日、右近衛大将(うこのえたいしょう)へ叙任されますが、嫡子の織田信忠(のぶただ,1557-1582)も武家名誉の秋田城介(あきたじょうのすけ)に任命されます。信長は形式的に嫡子・信忠に家督と領地(尾張・美濃)を譲って引退しますが、政治・軍事の実権はしっかりと握り続けており、天下布武を完成させるための新たな拠点として近江に安土城(あづちじょう)を建設し始めます。1576年1月、信長は琵琶湖湖岸にある近江安土山に巨大で豪華な安土城の築城を命令し、1579年に五層七重の吹き抜け構造と豪壮優雅な天守閣、数々の芸術的な障塀画(狩野派の絵画)を持つ安土城が完成しました。

石山本願寺・上杉謙信・雑賀一揆・毛利輝元による信長包囲網

安土城の築城に着手すると再び石山本願寺が和解を破って挙兵し、1576年4月1日に信長は、明智光秀・荒木村重・細川藤孝・原田直政・佐久間信盛を鎮圧に派遣しますが、5月3日に本願寺の鉄砲による猛攻撃を受けて原田直政が戦死しました。5月5日には信長自身が陣頭に立って戦闘を行いましたが、本願寺軍の鉄砲を受けて軽い負傷を負います。

将軍義昭と結んだ石山本願寺に篭もる一向宗門徒には『強力な鉄砲部隊』がいましたが、これは雑賀衆(さいかしゅう,雑賀一揆)の鉄砲部隊であったと見られています。雑賀衆というのは、紀州の独立的・自治的な惣村組織であり、根来衆から導入したと言われる強力な鉄砲部隊を内部に抱えていました。信長に京を追放された足利義昭はまだ将軍復活の夢を諦めておらず、越後の上杉謙信や中国地方の毛利輝元に支援を要請していました。1576年2月に足利義昭は、当時信長に継ぐ戦国大名と見られていた中国(安芸・長門・周防・石見など)の毛利輝元を頼って、備後の鞆(とも)に拠点を移していました。

京都復帰を願う足利義昭は上杉謙信・武田勝頼・北条氏政を和解させ、更に一向一揆の武力を信長に向けて、『第二次信長包囲網』を形成しようと画策していましたが、包囲網計画の中でもっとも強い期待を寄せていたのが中国の毛利輝元でした。信長は西方の毛利氏が支配する中国地方にも勢力を伸ばす野心を持っており、備前の宇喜多直家と向かい合う地点まで進軍し、尼子勝久(かつひさ)・山中鹿之介(やまなかしかのすけ)の尼子氏再興運動を支援したりもしていました。

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そのため、信長の中国進出を警戒する毛利輝元・吉川元春・小早川隆景との緊張が強まっており、遠からず織田軍と毛利軍が衝突することは不可避であると考えられていました。1576年5月に、長年戦ってきた越中一向一揆と和解した『越後の虎』の上杉謙信も、反信長の態度を鮮明にしてきました。この段階に至って、義昭と連携する石山本願寺を中核として、中国の毛利氏、越後の上杉氏が信長を狙い討とうとする『第二次信長包囲網』が形成され始めます。

しかし、第二次信長包囲網は畿内・近江にいる信長からは『地理的な距離』があるので、未だ差し迫った脅威ではなく、信長は上杉謙信や毛利輝元と一戦を交える前に紀州・雑賀衆(雑賀一揆)の制覇に乗り出します。自治組織・惣村の軍事連合である『雑賀衆(雑賀一揆)』は惣国(そうごく)を自称したりもしましたが、強力な鉄砲隊を抱えていて一向一揆と連携するので信長にとっては邪魔な勢力でした。

雑賀衆は年寄衆と呼ばれる代表者によって運営されており、有力な年寄衆としては鈴木孫市(すずきまごいち)土橋平次(どばしへいじ)が知られています。1577年2月に、5組ある雑賀衆のうち3組が信長に内応したのをきっかけにして、信長は大軍を派遣して紀州の雑賀一揆を制圧しようと試みます。雑賀衆の鈴木孫市や土橋平次は鉄砲隊を出して数日間抗戦しますが、信長軍には敵わないと観念して忠誠を誓って降伏し許されました。これによって組織率と命中率の高い鉄砲隊を所持する紀州(和歌山県)の雑賀衆と根来衆とが信長軍団の傘下に加わることになります。

信長打倒の意思を明確にした上杉謙信は、1576年から越前に向かう通行路に当たる能登・七尾城を攻撃し始めますが、七尾城を実際に守るのは能登守護の畠山氏ではなくその被官の遊佐(ゆさ)・長(ちょう)・温井(ぬくい)らでした。遊佐と温井は上杉謙信派であり、長綱連(ちょうつなつら)が織田信長派でしたが、長綱連は殺害されて遊佐・温井が謙信に七尾城を開城しました。長綱連の支援のために派遣されていた総大将を柴田勝家とする信長軍は、謙信軍との戦いに敗れて撤退します。畿内では信長包囲網の強化に目をつけた松永久秀が再び謀反を起こしますが、大和・信貴山城で織田信忠・明智光秀に追い込まれた久秀は、1576年10月10日に天守閣で爆死しました。

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上杉謙信は、能登を支配下に組み入れて越前から京都を目指す軍事戦略を着々と練っていたとされます。上杉謙信は1578年1月に大動員令を出し3月15日に大軍を率いた出陣を予定していましたが、進軍を間近に控えた3月9日に突然、厠(かわや)で昏倒して急逝しました。戦国の猛将として恐れられた武田信玄の急死に続く、越前の義将・上杉謙信の当然の死去……天命は織田信長の天下一統に味方するかのように有力な戦国武将を次々に彼岸の人(あの世の人)に変えていき、信長の前に立ちふさがる強大な敵は石山本願寺と中国の毛利氏に限られてきました。

上杉謙信は生涯にわたって妻帯せず実子がいなかったので、北条景虎(北条氏康の子)と長尾景勝(長尾政景の子)を養子にしていましたが、謙信死後に家督相続争い(御館の乱)が起こり、1579年3月に北条景虎が自害して長尾景勝が家督を継承しました。毛利氏との戦いでは、1577年2月に宇喜多直家(うきたなおいえ,1529-1582)が播磨方面に進出して信長の勢力圏を侵しますが、姫路御着城主・小寺政職(こでらまさもと)の家臣である黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)が信長方の軍師として才覚の片鱗を現してきました。

中国の毛利氏との播磨方面における戦闘の総指揮官は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が務めることになり、黒田官兵衛孝高の抜きん出た兵法の才能を見抜いた秀吉は黒田官兵衛と義兄弟の契りを結んで労いました。羽柴秀吉は中国征伐の総指揮官に任じられる前に、柴田勝家との意見の対立によって北陸の上杉討伐の先陣を勝手に抜け出し信長から激怒されましたが、この中国侵攻によって信長の信頼の回復を図ろうとします。秀吉の中国地方侵攻の前哨戦は、宇喜多直家が支援する播磨・上月城(こうづきじょう)を巡る戦いでしたが、兵士が裏切って城主・赤松政範(まさのり)の首をとり秀吉に差し出しました。

しかし、降伏してきた毛利方の兵士を羽柴秀吉は許さず次々と斬首し、更に無抵抗な女・子どもに至っても全て殺すという残酷な戦後処理を行いました。信長政権の前に非常に大きな敵として立ちふさがる毛利軍を打倒するために、秀吉の中国侵攻が開始されますが、この念願の中国制覇が完成する前に主君・織田信長の生命が本能寺の変で奪われることになります。そして、天下の支配者になるための運がするすると農民出身の羽柴秀吉の元へと転がり込んでくるのですが、信長がその人生を京都本能寺で終えるにはまだ少しの時が残されていました。

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