豊臣秀吉の台頭:山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い

豊臣秀吉の出自と前半生の概略
豊臣秀吉の興隆:山崎の戦い・清洲会議・賤ヶ岳の戦い

豊臣秀吉の出自と前半生の概略

『織田信長の本能寺の変』の項目では、明智光秀の突然の謀反によって織田信長が本能寺で討たれることになりましたが、その後、明智光秀は豊臣秀吉に打倒されて秀吉が信長の勢力基盤を引き継いでいくことになります。豊臣秀吉(1537-1598)は尾張国で無位無官の百姓(農民)の子として生まれながら、関白・太政大臣という朝廷の最高位にまで上り詰めた異色の戦国大名であり『戦国一の出世頭(しゅっせがしら)』と呼ばれます。

細川勝元と山名宗全が京都を二分して争った応仁の乱(1467)を経て室町時代は弱肉強食の戦国時代へと突入しますが、戦国大名の出自を見るとその殆どが『守護(守護大名)・守護代・地頭・国人の棟梁』などであり、先祖代々の所領と官職を持っている支配階級ばかりでした。実力主義といわれる戦国時代でも、豊臣秀吉のように『官位(身分)・家格・地盤』が全くない一介の百姓・土民から有力な戦国大名にまで昇り詰めた人物は殆どおらず、“軍略(城攻め)・人心掌握・交渉術”に抜きん出た秀吉が信長の後継者となり天下一統を成し遂げたことは下剋上の究極の形と言えます。

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秀吉は1537年に尾張国中村で、百姓・足軽の父・木下弥右衛門(きのしたやえもん)と母・なかの子として生まれ、幼名を日吉丸(ひよしまる)と言いました。小瀬甫庵(おぜほあん, 1565-1640)『太閤記』には秀吉を受胎した時に“日輪(太陽の光)”が母なかの腹中に呑み込まれたので日吉丸と名づけたという伝説的な逸話が残っています。秀吉は縁起の良い正月元旦の日に生まれたと伝えられています。

秀吉の容姿については『サルに似ていた』というのが通説であり、主君の織田信長や先輩・同僚の武将たちは秀吉のことを“猿(さる)”という愛称で呼んでいました。身体的特徴についても先天的奇形によって右手の指が6本(親指が2本)あったという伝承が残っています。秀吉の父に『木下』という姓が本当にあったのかという議論もあり、一説には木下姓は秀吉の最初の妻・おね(ねね, 北政所)の母方の姓ではないかと言われています。杉原助左衛門定利の次女であるおね(ねね)は木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)時代の秀吉に1561年に嫁ぎます。

浅野長勝の養女だったねねは、秀吉の立身出世を内助の功で支えました。秀吉の実父が木下弥右衛門なのかその後に継父になったとされる竹阿弥(ちくあみ)なのかという仮説の対立もありますが、一般的には秀吉は木下弥右衛門の実子とされ、弥右衛門の死後に義父となった竹阿弥との折り合いが悪くて家を飛び出したとされます。

10代で百姓の生家を飛び出した日吉丸は木下藤吉郎と名乗るようになり、今川義元の陪臣の松下之綱(まつしたゆきつな)に仕官してその才覚と機略の片鱗を見せますが、出世する藤吉郎に嫉妬する同僚の嫌がらせに遭って松下氏の元を去ります。松下之綱の好意によって幾ばくかの路銀(金銭)を得ていた藤吉郎は地元の尾張国で仕官することに決め、信秀の後を継いで勢力拡大を図りつつあった織田信長の家臣になりました。

1554年(天文23年)頃に、藤吉郎時代の秀吉は織田信長の足軽・小者になったようですが、冬季に信長の草鞋(わらじ)を懐の中に入れて暖めるなどの機転の良さや忠義の深さを伝えるエピソードも残っています。木下藤吉郎は信長の厚遇を得ることになり、その器量や機略を縦横に発揮して清洲城の普請奉行や台所奉行を勤め上げ、築城や財政だけではなく軍を率いる戦争においてもその頭角を現してきました。史実ではない可能性も高いと言われますが、美濃の斎藤龍興(さいとうたつおき)との稲葉山の戦い(1567)の前に、秀吉がグループ分けした足軽に競争原理を働かせて墨俣城(すのまたじょう)を一夜で建設したというエピソードも残っています。

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木下藤吉郎という名前に代わって『木下秀吉』という名前を使い始めたのは1560年頃とされ、織田家家臣(先輩格)の丹羽長秀(にわながひで)と柴田勝家(しばたかついえ)から一字ずつを貰って、木下姓を羽柴姓に改め『羽柴秀吉(はしばひでよし)』と名乗ったのが1573年と言われています。豊臣秀吉は『城攻めの名人』、徳川家康は『会戦(平地戦)の名人』と言われることもありますが、秀吉は軍事行動や兵站整備に関しても抜群の才能を持っていました。

1570年に越前・朝倉義景と近江・浅井長政に信長軍が挟み撃ちに遭ったときも、『金ヶ崎の退き口(かねがさきのひきぐち)』という困難な退却戦をしんがり軍(自軍の末尾)でやってのけました。1573年に、信長が越前一乗谷の朝倉義景と近江の浅井長政を滅ぼすと、秀吉は近江三郡を与えられて近江長浜(ながはま)の長浜城に拠点を置くことになります。信長の死後に大坂城が建設されるまで秀吉の拠点は近江国の長浜城でしたが、1570年頃には木下秀吉は織田家中における有力な武将の一人に成り上がっていました。

1577年に、石山本願寺・上杉謙信・毛利輝元らと連携して信長軍に反旗を翻した大和信貴山城(しぎさんじょう)の松永久秀を滅ぼすと、信長は羽柴秀吉に毛利氏が支配する中国地方の攻略を命じます。羽柴秀吉が縦横無尽に活躍した中国攻略の具体的な内容については、『信長軍の中国攻略』のページで詳しく解説していますが、織田信忠を総大将とする中国征伐軍は、播磨で赤松則房(あかまつのりふさ)・別所長治(べっしょながはる)・小寺政職(こでらまさもと)らを屈服させて更に中国地方の西方へと進軍していきました。

この時に、秀吉は小寺政織の家臣で軍師としての才略に優れていた小寺孝高(黒田官兵衛孝高,)を臣従させることに成功しており、秀吉は播磨国・姫路城(白鷺城)を拠点にして中国征伐を進めました。1578年、秀吉による中国攻めの途中では『別所長治・荒木村重(あらきむらしげ)・小寺政織・高山右近・中川清秀』らが次々と謀反を起こしますが、小寺孝高(こでらよしたか)は信長軍の将来性と優位性を強く確信しており、信長に謀反を起こした主君の小寺政職を見限って姓も『小寺』から『黒田』へと改名しました。

別所長治や荒木村重らを中核とする中国地方の反乱が信長方の織田信忠・羽柴秀吉らによって鎮圧されると、黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか,1546-1604)は秀吉の軍師・参謀として臣従するようになります。黒田官兵衛孝高は豊臣秀吉がその軍事的才覚をもっとも恐れた人物の一人とされますが、秀吉が中国攻めで用いた『兵略・奇計・兵糧攻め』のほとんどが黒田官兵衛の献策によるものと考えられています。1581年、市中の米を全て買い占めて実行した因幡・鳥取城の“兵糧攻め”、1582年、清水宗治(しみずむねはる)が守る備中・高松城に対する大規模な堤防を築いた“水攻め”も黒田官兵衛の発案によるものとされます。黒田官兵衛は信長が横死した本能寺の変後も秀吉に仕えて、四国征伐や九州征伐で勲功を上げて豊前中津の12万5000石を与えられます。

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1589年には、子の黒田長政(くろだながまさ,1568-1623)に家督を譲って出家し、黒田如水(くろだじょすい)と名乗るようになります。豊臣秀吉が死去すると、先見の明のあった黒田如水は、子の黒田長政に関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康方)に付くことを進め、関ヶ原の戦いで武功を立てた長政は筑前福岡藩52万3000石の初代藩主の座に就きました。秀吉の天下統一を軍師として支えた黒田如水でしたが、最終的には、幼少の豊臣秀頼や官僚的な石田三成ではなく徳川家康の方に『天下の覇者(ポスト秀吉)』としての実力と資質を見出したのでした。

一説には、黒田如水は『九州統一』の後に徳川家康征伐へと向かう壮大な『天下獲りの野心』を内心に抱いていたともされますが、子の黒田長政が家康の下風(家臣としての処遇)に甘んじているのを見て酷く失望し落胆したともいいます。1590年に小田原征伐で北条氏政・北条氏直父子を説得して降伏させる大功を立て、1592年の朝鮮出兵にも参加した黒田如水でしたが、1593年に石田三成との対立で豊臣秀吉の激昂を受けてからは豊後中津で悠々自適の生活を送っていました。黒田官兵衛の隠居の理由には『秀吉の官兵衛の軍略に対する恐怖・猜疑心』があったとも言われ、秀吉が家臣に対して『自分の次に天下を獲る者は黒田官兵衛である』と吹聴したことから、自分に謀反の疑いが掛けられることを恐れた官兵衛は自発的に出家・隠居の道を選んだと伝えられています。

豊臣秀吉の興隆:山崎の戦い・清洲会議・賤ヶ岳の戦い

信長の信任が厚かった明智光秀(1528-1582)がなぜ本能寺の変を起こしたのかには、『丹波攻略の際に母親を人質に出させられた怨恨説・日常的な信長の暴言や侮辱に対する憤慨説・徳川家康の饗応に際するミスを信長に叱責された不満説』など様々なものがあります。しかし、本能寺に宿泊する無防備な主君・織田信長を討てば自分が天下人(てんかびと)になれるという誘惑が強かったのもまた確かな事実であり、明智光秀は有力な織田政権の武将が諸国遠征に出払っている状況を利用して『本能寺の変』に踏み切ったとも考えられます。

本能寺の変が起こった時には、羽柴秀吉は備中・高松城を攻めており、柴田勝家と前田利家は越中で上杉景勝と戦っており、徳川家康は京都・堺で少数の側近だけを連れている状況だったので、明智光秀が謀反を起こしても即座に光秀討伐を実行できる勢力が身近にいなかったのです。四国遠征を控えた神戸信孝(織田信孝)と丹羽長秀が大坂にいましたが、ここには光秀の女婿である津田信澄(織田信澄)もいたのですぐに、光秀に対して軍勢を差し向けてくる可能性は高くありませんでした。実際、四国遠征軍の大半は金銭や信長の威勢に惹かれて結集していた烏合の衆であり、本能寺で信長が討たれたと聞くと神戸信孝・丹羽長秀が率いていた軍勢は雲散霧消してしまいました。

信長を打倒した明智光秀の勝算は、丹後・細川忠興(ほそかわただおき)、大和・筒井順慶(つついじゅんけい)、摂津・池田恒興(いけだつねおき)、中川清秀(なかがわきよひで)、高山右近(たかやまうこん)といった有力大名を味方に引き入れて、京都・近江の近畿地方を完全に掌握することにありましたがここで予測していなかった誤算が生じました。明智光秀が最も頼りにしていたのは娘の細川ガラシア(玉子)を嫁がせていた細川忠興(1563-1646)でしたが、細川藤孝(細川幽斎)・忠興の父子は信長への忠節を曲げず、光秀には決して協力しないという意志を示しました。

細川忠興は妻・細川ガラシアを丹後の味土野(みとの,現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉して明智光秀への抵抗の姿勢を示し、焦った光秀は『摂津・但馬・若狭の三国』を与えるという破格の密約を持ちかけて細川藤孝・忠興父子を味方にしようとしましたがこの申し出も拒絶されました。明智光秀と縁戚関係を持ち教養人としての交際もあった筒井順慶(1549-1584)も、初めは光秀を支援する姿勢を見せましたが、中国攻めをしていた秀吉の接近を知ると大和・郡山城に篭城して静観の構えを取るようになります。秀吉と光秀が戦った『山崎の戦い(1582)』の時に、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣取る優柔不断な筒井順慶に対して光秀が援軍催促の使いを送ったという故事から、『洞ヶ峠の日和見(洞ヶ峠を決め込む)』といった故事成語が生まれたとされます。

明智光秀は本能寺の変後に、蒲生賢秀(がもうかたひで)が留守役を務めていた安土城(信長の居城)を奪い取り、羽柴秀吉の居城の長浜城と丹羽長秀の居城の佐和山城(さわやまじょう)も占領しましたが、『大義名分』を大幅に欠いていたので細川忠興や筒井順慶など他の武将の援軍を取り付けることができずに孤立しました。1582年6月3日夜に、備中・高松城を水攻めしていた羽柴秀吉の元に『信長が本能寺で討たれる』という報告が届き、予期せぬ本能寺の変に驚いた秀吉でしたが、軍師・黒田官兵衛の助言を受けて迅速に『中国大返し(中国戦線からの即時退却)』の戦略を断行しました。

本能寺の変を起こした明智光秀は、毛利輝元や上杉景勝に『信長の死去』を伝える飛報を出していましたが、羽柴秀吉は驚異的な早さで毛利方の安国寺恵瓊(あんこくじえけい, 1539-1600)との講和をとりまとめて『有利な講和条件』を結んで退却することに成功しました。信長の死を知られれば毛利軍は講和を結ばなかったと推測されますが、秀吉は本能寺の変の報告が毛利方に伝わるギリギリのタイミングで『城主・清水宗治(しみずむねはる)の切腹+高松城の開城』という講和条件を安国寺恵瓊に飲ませて退却したのでした。6月3日夜に講和が結ばれ翌4日に清水宗治が切腹したのですが、4日の夜には本能寺の変の報告が毛利輝元に届いたのです。秀吉にまんまと騙されたことを知った吉川元春は秀吉追撃を訴えましたが、小早川隆景の反対によって追撃は為されませんでした。

迅速な決断で中国大返しを成功させた羽柴秀吉は、“主君の仇討ち・弔い合戦”の大義名分を掲げて6月11日には尼崎に到達し、神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・高山右近らを糾合して明智光秀との『山崎の戦い』に臨むことになります。秀吉軍4万、光秀軍1万6千という兵力差のある布陣となり、光秀は淀城と勝龍寺城を修築して決戦に備えますが、6月12日の小競り合いを経て6月13日に大きな合戦となります。

秀吉軍の猛攻を受けて勝龍寺城に逃げ込んだ光秀は、更に本拠地の近江・坂本城に落ちようとしますが、その途中の小栗栖(おぐるす)の藪で農民の襲撃を受けて重傷を負い介錯されて死にました。山崎の戦いで明智光秀が農民・足軽に討たれた藪のことを『明智藪(あけちやぶ)』と呼んでいますが、奈良興福寺の僧侶が身辺日記として書き残した『多聞院日記(たもんいんにっき)』には謀反人の光秀について『大恩を忘れ、曲事(くせごと)を致す、天命かくの如し』と記されています。

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山崎の戦いの後に間もなく安土城は炎上しますが、安土城に火を放ったのは、蒲生賢秀に代わって安土城に居た明智秀満(光秀の女婿)ではなく、秀満の後に入城した織田信雄(のぶかつ,織田信長の次男)か盗賊・夜盗ではないかと見られています。6月6日に備中・高松城から京都に引き返してきた羽柴秀吉は、わずか10日余りのうちに主君の仇の明智光秀を征伐して近畿地方の政治秩序を回復しました。この事は、“弔い合戦”を成功させた秀吉が信長の後継者として大きな前進を果たしたことを意味し、本能寺の変の時に京都から遠く離れた地点に居た柴田勝家・滝川一益ら先輩格の武将は完全に時流に乗り遅れたのでした。

本能寺の変の時にごく僅かな側近従者を連れて堺に居た徳川家康は、決死の『伊賀越え』を断行して領国の三河・岡崎城に戻ることができましたが、一緒に居た甲斐の有力者である穴山信君(あなやまのぶきみ,武田信玄の甥で武田二十四将の一人)は落ち武者狩りの野盗に襲撃されて絶命しました。信長の仇討ちである山崎の戦いに参加できなかった織田家重臣(筆頭家老)の柴田勝家(しばたかついえ)は、佐々成政・前田利家と共に越中で上杉景勝と戦っており上洛・仇討ちの意志はあったものの迅速な軍事行動を取ることができませんでした。

勢力基盤のない上野厩橋(こうずけまやばし)に居た滝川一益(たきがわかずます)は、小田原の北条氏政と戦って敗れており、兵力の大部分を失って拠点の伊勢長島に逃げ帰っていました。武田勝頼の旧領である甲斐を与えられた河尻秀隆(かわじりひでたか)は、領国統治や政治秩序の地盤を整える暇もなく武田家旧臣の反乱を受けて殺害されてしまいました。元々織田政権の中で、羽柴秀吉よりも優位な立場にあった柴田勝家・滝川一益・川尻秀隆が『弔い合戦の断行』に完全に出遅れたり『慣れない地域での敗戦(討死)』をしたりしたことで、羽柴秀吉の存在感と影響力が急速に増大しました。信長の仇を討った羽柴秀吉の台頭を抑えようとする柴田勝家は、1582年6月27日に織田家の重臣会議である『清洲会議(きよすかいぎ)』を尾張の清洲城で開き、信長の正統な後継者を定めようとしました。

清洲会議が開かれた段階では、織田信長の血縁者として『織田信雄・神戸信孝・三法師(織田信忠の嫡子)』が残っており、この三人の中から家督相続者が選ばれることになっていましたが、柴田勝家は信長三男の神戸信孝を推挙し、羽柴秀吉は信忠嫡子の三法師(織田秀信)を推しました。清洲には織田信雄(のぶかつ)・神戸信孝・滝川一益らも集まっていましたが、信長の後継者(織田家の家督相続者)を決める清洲会議に出席していたのは、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興であり、丹羽長秀が秀吉の『長子相続の筋目論(三法師の推挙)』を支持したことで三法師(織田秀信)が信長の正統な後継者に決まりました。

柴田勝家は神戸信孝の烏帽子親を務めており、信孝が主君になれば勝家の影響力は増していたと考えられますが、結局、秀吉の親しかった織田信忠の幼少の嫡子・三法師(さんぽうし)が家督を継ぐことになったのです。清洲会議では信長死後の領地の再配分(新知行)も行われ、柴田勝家は越前と近江長浜(秀吉の拠点)を手に入れ、秀吉は播磨・山城・河内・丹波を所領にすることになり、丹羽長秀は若狭に加えて近江二郡を得て、池田恒興は摂津の池田・有岡(伊丹)に加えて、大坂・尼崎・兵庫といった摂津・河内の大半を獲得しました。神戸信孝(織田信孝)は美濃国全域を所領し、織田信雄は伊勢に尾張を加えました。三法師の守役を務める重臣の堀秀政(ほりひでまさ)も、丹羽長秀の本領から20万石を貰いうけ近江坂田郡も手に入れました。

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織田信長が突如死去したことによって専制的君主による天下布武の夢はいったん挫折しますが、1582年8月に秀吉は岐阜城の織田信孝に対して三法師を安土城に移動させるように圧力をかけます。10月15日には、秀吉が京都・大徳寺で信長の盛大な葬儀を勝手に主催して自らが『信長の後継者』であることを天下にアピールします。『織田信長の後継者』の地位を争って羽柴秀吉と柴田勝家の対立は強まっていき、遂に秀吉は1582年末に軍事行動を開始し、勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を陥落させて旧領の北近江を回復しました。ここから秀吉と勝家が戦う『賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)』が始まります。

岐阜城の神戸信孝も降伏させて三法師の身柄を譲り受け、安土に織田信雄と三法師を迎えた秀吉は天下の実質的な権力者としての地歩を固めます。1583年には、勝家と連携する伊勢の滝川一益を屈服させて追放しますが、美濃に落ちた滝川一益は織田信孝と協力して秀吉と敵対します。1583年2月に、柴田勝家は前田利家・佐久間盛政らを率いて大部隊を南下させ秀吉軍と江北で対峙しますが、佐久間盛政が中川清秀を打倒して独走したことで賤ヶ岳の戦いの戦況が大きく動きます。清秀の戦死の報告を受けた羽柴秀吉は即座に江北へと引き返して、激しく佐久間盛政を攻撃したことで盛政軍は総崩れとなり、勢いを回復した秀吉方の大軍勢は堀秀政を先鋒にして柴田勝家の本軍を徹底的に打ちのめしました。

柴田勝家は領国である越前・北ノ庄城に落ち延びましたが、秀吉軍は北ノ庄城を更に厳しく攻撃して勝家を追い詰め、1583年3月24日に勝家と妻のお市の方(信長の妹)は自害することになります。お市の方には前夫・浅井長政との間に出来た有名な三人の娘(茶々・お初・お江)がおり、この娘たちは北ノ庄城が落城する直前に逃げ落ちることに成功し、勝家は秀吉に三人の娘のことを頼む書状を持たせたといいます。長女の茶々(ちゃちゃ,淀殿)は秀吉の側室となり、次女のお初(おはつ,常高院)は京極高次の妻となり、三女のお江(おごう,崇源院)は二代将軍・徳川秀忠の妻となりました。

最大のライバルであった織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで葬った秀吉は、『信長の後継者』としての地位を確実なものとし、織田信孝や織田信雄への圧力も強めていきます。1583年9月には、新たな天下統一の拠点を大坂に定めた秀吉が、石山本願寺城の跡地で壮大堅固な『大坂城』の築城に取り掛かりました。九州・四国・関東・奥羽を含む天下統一という秀吉の大きな野望の前に立ちはだかるのは、信長の血統を持つ織田信雄と東国に大勢力を築き始めた徳川家康でした。

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