秋田県の名前と歴史

秋田県の誕生:古代の“飽田”に由来する“秋田”は古い歴史を持つ名前

秋田県の誕生:古代の“飽田”に由来する“秋田”は古い歴史を持つ名前

戊辰戦争(1868年~1869年)において奥羽越列藩同盟に参加せずに、明治新政府の側に味方した秋田県は藩の名前がそのまま県名になっていますが、東北6県のうちで藩名が県名となって残っているのは『秋田県』『山形県』だけです。山形県は奥羽列藩同盟の側についていましたが、実際の戦争では官軍に痛撃を与えるだけの軍事力・組織力・政治力(財政力)を持っていなかったので、山形藩の戦争責任が厳しく問われる事が無かったとも言われます。

1600年(慶長5年)に徳川家康が『関ヶ原の戦い』で勝利して征夷大将軍に任命されてから、慶長7~8年に掛けて秋田県の諸大名は常陸に移封されてしまいます。この秋田郡下の大規模な移封によって、鎌倉時代以来の領主と住民の歴史的・情緒的なつながりが切断されましたが、これは徳川幕府(江戸幕府)の大名弱体化策の一環でもあり、『参勤交代・武家諸法度・治水や普請の命令』によって秋田郡の大名の財政は逼迫しました。1602年(慶長7年)には、秋田郡を領有していた安東氏の血流を汲む秋田実季(あきたさねすえ)は常陸国に移封されて、関ヶ原の戦いで西軍に内通して家康に協力した常陸の佐竹氏が秋田郡の領主になります。

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秋田郡に置かれた『久保田藩』の初代藩主は佐竹義宣(さたけよしのぶ)であり、義宣は秋田氏の居城・湊城(現在の秋田市土崎港)から神明山(秋田市千秋公園)の久保田城に拠点を移し、藩の組織や職掌を組み替える藩政改革に取り組みました。江戸時代の秋田・久保田藩は常陸54万石から移動してきた佐竹氏によって統治されることになり、秋田の石高は20万石(実質は開墾の進展で40万石とも)とされましたが、秋田には『院内鉱山・銅山・秋田杉』など米以外の財政基盤もあって比較的裕福だったとも言われます。

幕末の秋田県には、久保田藩、岩崎藩、亀田藩、本荘藩、矢島藩、交代寄合旗本(仁賀保氏)の仁賀保陣屋、盛岡藩領の鹿角郡などがありましたが、戊辰戦争では久保田藩の勤王派がクーデターを起こして、奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に味方することになりました。久保田藩が奥羽越列藩同盟に反旗を翻したのを見て、周辺の岩崎藩、本荘藩、矢島藩なども明治新政府の側につくことになりますが、戊辰戦争では『勝者の側(官軍・新政府軍)』に立ったにも関わらず、秋田県への恩賞・利益供与はほとんどなくこの戦争によって秋田県の土地と財政は荒廃することになりました。

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戦争の被害だけではなく、秋田県内の勤王倒幕派と佐幕派との間の対立も長らく燻ぶることになり、秋田藩士(秋田藩権大参事)の初岡敬治(はつおかけいじ)には政府に対する内乱計画の疑いが掛けられたりもしました。これは外山光輔(とやまみつすけ)と愛宕通旭(おたぎみちてる)という二人の公家が計画していた政府転覆に、初岡敬治が首謀者として関与しているという嫌疑が掛けられた事件でした。

明治の元勲である木戸孝允も秋田藩の佐竹氏を謀略家と見て警戒していたとも伝えられていますが、久保田藩の12代藩主の佐竹義堯(さたけよしたか,1825-1884)は内乱の疑いなどを回避して財政危機を解消するために、自ら藩を廃止して郡県制への移行を推進しました。戊辰戦争で官軍に協力したことの見返りというわけではないでしょうが、郡県制への移行に際して、秋田藩が抱えていた310万円もの債務を政府が肩代わりして上げることになりました。1869年(明治2年)の『版籍奉還』で12代藩主・佐竹義尭は久保田藩の知藩事に就任しますが、1871年(明治4年)の『廃藩置県』の年の1月13日に、佐竹義尭は藩名を『久保田藩』から『秋田藩』に改称しています。この秋田藩が『秋田県』へとつながっていくのです。『久保田』というのは佐竹氏が藩主となった約300年の歴史と深い関係がある地名でしたが、『秋田(飽田)』というのはそれよりもずっと古い古代の出羽の地名に起源を持つ名前です。

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1871年(明治4年)の7月14日に『秋田県』が誕生しますが、この廃藩置県の時には秋田県・亀田県・本荘県・矢島県・岩崎県・江刺県という6県が存在しており、11月2日にそれらの県が統合されて現在の『秋田県』が成立することになります。秋田というのは古代からある地名・群名であると同時に、この地方を支配した氏族の苗字でもありましたが、中世初期には『秋田城介(あきたじょうのすけ)』という官職名もありました。平安時代中期に『出羽城介(でわじょうのすけ)』という令外官があったのですが、これが鎌倉時代に入ると『秋田城介』という官職名として知られるようになっていったのです。

鎌倉時代以降は、東北地方北部を安東氏が支配するようになりますが、この安東氏も時代が進むと自ら『秋田氏』を称するようになりました。明治4年12月26日には、初代の秋田県権令に侍従の島義勇(しまよしたけ,1822-1874)が就任していますが、この佐賀藩士の島義勇は蝦夷地の札幌開拓の功績を上げたことで知られています。しかし、島義勇は元司法卿の江藤新平と共に、士族反乱である『佐賀の乱(1874年)』を起こして捕縛され、明治7年4月13日に江藤新平と同じく斬罪梟首に科せられました。

関ヶ原の戦いで豊臣家についた秋田氏は常陸に転封されますが、この秋田氏に代わって久保田藩を創設する佐竹氏が入ってきたのでした。『秋田』という地名は『飽田』という表記で、『日本書紀』の女帝の斉明天皇記(7世紀のエピソード)にも出てくるほどに古い地名であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)による蝦夷征伐の記録で東方地方の『飽田・淳代(ぬしろ)』という地名が出てきます。『淳代(ぬしろ)』というのは現在の『能代(のしろ)』の古称だと考えられていますが、飽田にいて朝廷の天皇に忠誠と服属を誓った『恩荷(おが)』という蝦夷(エミシ)は『男鹿半島(おがはんとう)』の語源になっています。

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