新井白石の正徳の治と徳川吉宗の享保の改革

5代将軍徳川綱吉の時代と新井白石の正徳の治
8代将軍徳川吉宗の享保の改革

5代将軍徳川綱吉の時代と新井白石の正徳の治

『島原の乱とキリシタン禁制』の項目では、3代将軍・徳川家光の治世に日本の鎖国体制が強化されたことを説明しましたが、4代将軍・徳川家綱(いえつな:在位1651-1680,1641-1680)が幼少で将軍職に就任したことで徳川将軍家の世襲体制は磐石なものとなりました。徳川家綱の治世の初めでは、家光の武断政治(大名統制)が生んだ『大名の改易・転封』によって奉公先を失った浪人が、由井正雪(ゆいしょうせつ)丸橋忠弥(まるはしちゅうや)をリーダーとして幕府転覆を計画するという『慶安事件・由井正雪の乱(1651年)』が起こります。

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将軍の徳川家綱は、叔父の保科正之(ほしなまさゆき)や大老・酒井忠勝(さかいただかつ)、老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)など有能な幕閣の活躍によって慶安事件の早期鎮圧に成功しますが、家綱は家光時代の武力・懲罰で大名を過度に威圧する『武断政治』を改めて『文治政治』へと転換していきます。大名家を改易で取り潰したり転封によって遠国に赴任させたりすると、奉公先(勤め先)を失った武士たちが浪人化して反幕府勢力に転じたり治安悪化の要因になる恐れがあったからです。

4代将軍・徳川家綱は『末期養子の禁止(藩主が危篤に陥った時や死んだ後に、大名家の家督を守るために緊急に養子を擁立することを末期養子という)』を緩和して大名家を継続しやすくさせ、大名の嗣子(後継ぎ)がいないために大名家が改易されて浪人が多く生まれるといった事態を無くしました。更に、家綱は儒教的な君臣の忠義を現す『殉死』を禁止する『殉死禁止令』を出して、藩政を安定的に運営するために家臣は大名(主君・藩主)が死んでもその後を追って自害してはならないと命じました。

家綱が危篤に陥ると、大老・酒井忠清(さかいただきよ)有栖川宮幸仁親王(2代将軍秀忠の兄である結城秀康の血統を継ぐ親王)を宮将軍として迎え入れようとし、堀田正俊(ほったまさとし)が家綱の弟の徳川綱吉を推挙するという将軍後継問題がありましたが、結局、徳川綱吉が5代将軍として就任することになります。5代将軍・徳川綱吉(つなよし:在位1680-1709,1646-1709)は、宮将軍を自分の代わりに立てようとした大老の酒井忠清を罷免して、自分を強く推挙した堀田正俊(1634-1684)を重用し大老に取り立てました。

『犬公方(いぬくぼう)』と呼ばれる徳川綱吉は、犬などに対して行き過ぎた動物の生命保護を強制する『生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい))』を出して庶民を苦しめたことで知られます。その為、綱吉は幕府の政治にも関心が薄くまともな判断能力を持たない暗愚な君主というイメージがあるのですが、その治世の前半では忠実な賢臣である大老・堀田正俊を的確に活用して『天和の治(てんなのち)』と呼ばれる善政を敷きました。徳川綱吉は幕府の正確な会計監査を行う『勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)』を設置し、儒学の学問を奨励して林家が主宰する『湯島聖堂(ゆしませいどう)』を建立したことでも知られます。

儒学(朱子学)の経典を熱心に読んでいた徳川綱吉は天皇・皇室を敬う『尊王思想』の持ち主でもあり、御料(皇室領)を1万石から3万石に加増するだけでなく、生活が苦しかった公家の貴族たちの所領も増やしています。しかし、重用していた堀田正俊が貞享元年(1684年)に若年寄の稲葉正休(いなばまさやす:1640-1684,堀田正俊の従兄弟)に江戸城で暗殺されると、綱吉は幕政への関心を弱めて側用人の牧野成貞(まきのなりさだ)柳沢吉保(やなぎさわよしやす)らに政治を委託していくようになります。

儒教の『忠孝の徳』を実践しようとする後年の徳川吉宗は、母・桂昌院(けいしょういん)の意見を重んじるようになり、母のために朝廷から『従一位』という極めて高い位階を賜与させています。以前は、母・桂昌院が寵愛した僧侶の隆光(りゅうこう)の宗教的な助言によって『生類憐みの令(一切の殺生を禁じる1687年以降のお触書)』が出されたと言われていましたが、現在はその時に隆光が江戸にいなかったことが分かっており生類憐みの令と隆光との関係は否定されています。

享保の改革を実施した8代将軍・徳川吉宗は5代綱吉の『天和の治』を理想化していたとも言われますが、綱吉が将軍に在位した元禄時代は近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉などに代表される華麗な『元禄文化(げんろくぶんか)』が花開いた財政・景気が良い時代でもありました。綱吉の治世は『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』で知られる赤穂浪士事件(1703年)が起こった時代でもあります。赤穂浪士事件というのは、吉良上野介の度重なる非礼・嫌がらせに対して江戸城で殿中刃傷(でんちゅうにんじょう=江戸城で刀を抜くことは死罪に相当)を起こした浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の旧家臣たちが、主君を侮辱して自害に追いやった吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を独断で討ち果たした事件ですが、私怨で復讐したとされた家臣たちは幕府に自害を命じられました。

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1704年に次の6代将軍は甲斐国甲府藩主の徳川家宣(松平綱豊)に決まり、綱吉が宝永6年(1709年)に死去すると、48歳の徳川家宣が6代将軍に就任します。6代将軍・徳川家宣(いえのぶ:在位1709-1712,1662-1712)は民衆の悪評・不満を受けていた『生類憐れみの令』や『酒税』を即座に廃止して、綱吉が重用した柳沢吉保を罷免して、文治政治の改革を進められる人物として新井白石(あらいはくせき)間部詮房(まなべあきふさ)を登用します。徳川家宣は綱吉時代から経済政策を担当してきた荻原重秀(おぎわらしげひで)を用いて財政改革も推進しましたが、在職わずか3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に51歳で死去し、その政策は子の7代将軍・徳川家継へと引き継がれました。6代将軍・徳川家宣と7代将軍・徳川家継の治世を合わせて『正徳の治(しょうとくのち)』と呼びますが、この期間は比較的、幕藩体制と経済情勢の安定が保たれた時期でもありました。

7代将軍・徳川家継(いえつぐ:在位1713-1716,1709-1716)は、徳川15代将軍の中で最も幼少で即位した将軍ですが、わずか7歳で死去したために新井白石の改革は中途半端な形で頓挫することになります。白石の『折りたく柴の記』によると、6代将軍・家宣は1712年(正徳2年)に新井白石と間部詮房を病床に呼び寄せて、『次期将軍は尾張徳川家の徳川吉通(よしみち)に定めて、家継の処遇は吉通に委任する』という遺言と『子の家継を将軍にして、吉通を家継の世子に据えて白石らが政務を代行せよ』という遺言を残したと言われます。

しかし、家宣が死去すると、新井白石や間部詮房は『徳川吉通や尾張家の重臣を迎えることによって幕府で宗家と尾張の内紛が起こるのではないか』と懸念して、家継を将軍職に据えて『側近政治』を行うことにしました。江戸前期の安定的統治と評価される『正徳の治』は、幼少の将軍である徳川家継を側用人の間部詮房と政治顧問の新井白石が補佐するという形で推進されたのです。

新井白石(あらいはくせき,1657-1725)は、初め上総国久留里(くるり)藩主・土屋利直(としなお)の目付として働いていましたが、幼少期から才気・器量に抜きん出た英才であり儒学の教典・知識に関する深い造詣を持っていたとされます。新井白石は藩主・土屋利直から寵愛されましたが、その後、お家騒動があって土屋直樹が後を継ぐと、土屋家から罷免されます。白石は5代将軍・綱吉の治世で大老・堀田正俊に見出されて幕府に仕えますが、堀田正俊が稲葉正休に刺殺されると奉公先を失って浪人となり独学で儒学の学問を続けます。新井白石は優れた門下生(雨森芳洲・室鳩巣・祇園南海など)を多く抱えていた朱子学者・木下順庵(きのしたじゅんあん)の弟子となり、学問奨励をしていた加賀藩の仕官を他の門下生に譲った後に、徳川家の親藩である甲府藩に仕官します。

白石は甲府藩主・徳川綱豊(つなとよ)に学問を教授する待講(じこう)に就任して、綱豊に儒学や歴史を19年間にわたって教えましたが、この綱豊が後に6代将軍の徳川家宣になります。甲府藩に仕官したことが白石が幕政に参画するきっかけとなりますが、将軍家宣は白石の学識の深さと人格の高潔さに敬服していたと言われます。

白石といえば回想記の『折りたく柴の記』が有名ですが、甲府藩主時代の徳川綱豊に1万石以上の大名337家の家系図と歴史を正確に記した正編10巻と付録2巻からなる『藩翰譜(はんかんふ)』を献上しています。正徳の治を実現した新井白石の政治的手腕は優れたものでしたが、良質な『正徳金銀』を鋳造して緊縮財政を行った白石の経済政策は、インフレ(物価上昇)を抑えたもののデフレ(物価下落・幕府の収入の減少)を引き起こすという弊害をもたらしました。

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8代将軍徳川吉宗の享保の改革

新井白石・間部詮房が側近政治を行った7代将軍・徳川家継の治世が終わると、譜代大名の発言力が増して天英院(6代将軍家宣の正室)の推挙によって、紀州徳川家の徳川吉宗が8代将軍に就任します。8代将軍・徳川吉宗(よしむね:在位1716-1745,1684-1751)が将軍になると側近政治を行っていた新井白石や間部詮房は失脚して政治活動から引退し、吉宗は幕府の権威と財政を再興するために元紀州藩士を起用して強力な幕政改革に着手します。

紀州藩の5代藩主であった徳川吉宗は財政再建や綱紀粛正を目的とする『藩政改革』を行った経験があり、吉宗以後の政治改革の基本理念となる『質素倹約・緊縮財政(歳出削減)・風紀紊乱の取締り』を幕政に持ち込みます。徳川吉宗は新井白石らの側近政治を排除して『将軍親政』による幕政改革に取り組みますが、この幕府の統制力や財政赤字を改善するための吉宗の政治改革を『享保の改革(きょうほうのかいかく)』と呼びます。享保というのは、吉宗が将軍に在位した1716年から1745年の年号のことです。

徳川吉宗の享保の改革・松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革は『江戸三大改革』と呼ばれますが、現代の経済学的観点からの評価では、江戸三大改革よりも老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が行った『重商主義的な経済改革・規制緩和(商業活動と文芸活動の奨励)』の方が財政再建・経済成長の効果が高かったのではないかと言われています。徳川吉宗は水野忠之(みずのただゆき)を老中に任命して総合的な政治改革としての『享保の改革』をスタートさせ、財政再建を達成するために『質素倹約(支出削減)・新田開発と増税(収入増加)』を積極的に推し進めますが、行政・司法・学問(蘭学)の分野でも改革を行いました。

正徳の治の時代までの『文治政治』を転換して、武家の棟梁として武芸の鍛錬を重視する『武断政治』を心がけるようになり、徳川吉宗は生類憐みの令を出した綱吉の時代から行われていなかった『鷹狩り』を復活させました。

将軍に直属して諜報活動(隠密裏の情報収集の活動)を行う『御庭番(おにわばん)』を創設して、吉宗に忠実な態度を貫く紀州藩の生え抜きの人材を御庭番に任命しました。町民・農民など庶民の幕政に対する意見や不満・要求などを聞くために『目安箱(めやすばこ)』という投書箱を設置して(1721年)、庶民の声を幕政に反映させられる仕組みを用意しました。江戸の都市政策・行政改革では、南町奉行に有能で公正な大岡忠相(おおおかただすけ・大岡越前,1677-1752)を任命して、風紀粛清・風俗取締り・治安維持を厳しく行わせて町奉行所や町役人の機構改革を実施しました。特に、私娼・賭博・心中などは江戸の風俗を紊乱するものとして厳しく取り締まりが行われました。

大岡忠相は吉宗の命令を受けて貧民や病人を救済する『小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)』を設置したり(1722年)、蘭学者で農業研究を行っていた青木昆陽(あおきこんよう)を書物奉行に任じて飢饉対策の食料となるサツマイモの試作を行っています。その一方で、穢多(えた)・非人などの賤民階層に対して服装・居住地を制限する差別政策を推進したという好ましくない部分もあります。火事の多かった江戸の防火対策として『町火消し』の組合が創設されて、燃えにくい資材を使った防火建築なども奨励されました。

1719年には、幕臣(旗本・御家人)の借金・負債を軽減するための『相対済令(あいたいすましれい)』を出して、札差・両替商が金公事(金銀貸借関係の訴訟)を起こせないようにして当事者間の示談(相対)を推奨しました。1722年には、『足高の制(たしだかのせい)』によって、幕臣が昇進して役職に就いている期間だけ俸禄を加増し、役職を離れれば元の俸禄に戻すということが決められました。1742年には、司法改革を進めるために刑法判例を編纂した『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』を制定しています。

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吉宗の『享保の改革』で最も重点が置かれたのは財政再建と米価調整(物価安定)でしたが、吉宗は財政政策として質素倹約と増税を行いました。百姓に対する増税策として年貢を四公六民から『五公五民(税率50%)』に引き上げ、年貢を安定的に徴収するためにその年の収穫(豊作・不作)と無関係に定率の年貢を徴収する『定免法(ていめんほう)』を導入したため(1722年)、農民(百姓)の暮らしが困窮します。年貢の税率は1728年に『五公五民制』へと引き上げられました。増税と不作・飢饉などの影響によって、農村人口はその後減少傾向を示すようになり、年貢徴収と生活困窮への不満から一揆・打ち毀し(うちこわし)といった暴動の事態も起きました。定免法を導入する前には、土地面積ではなくてその年の収穫予想高に応じて課税する『検見法(けみほう)』と呼ばれる課税法が採用されていました。

徳川吉宗は『増税・倹約』に加えて治水工事や新田開発なども積極的に行って財政収入の増加に努め、逼迫していた幕府財政を暫時的に安定させることに成功しました。しかし、貨幣政策や米価安定(物価調整)の改革は思い通りに進まず、貨幣価値に対して米価は下落していったので、現金収入が乏しい大名・旗本・御家人・武士の暮らしは相対的に見て苦しくなっていきました。石高制に基づく『年貢収入』を主とする幕府や諸藩(諸大名)の本質的な問題は、都市部(江戸・京都・大坂)で発達した貨幣経済(商品経済)に十分な適応ができないということであり、享保の改革をはじめとする緊縮財政・重農主義政策では財政状況を根本的に改善することが出来なかったのです。

徳川吉宗は徳川将軍家の藩屏として『田安家』『一橋家』(両卿)を創設したことでも知られますが、吉宗死後に『清水家』が加わって御三卿(ごさんきょう)となります。政治に関心が乏しく言語障害があったとされる9代将軍・徳川家重(いえしげ)に将軍位を譲ってからも、吉宗は大御所政治を行いました。家重の後の10代将軍・徳川家治(いえはる,1737-1786)の治世では、老中に上り詰めた田沼意次(たぬまおきつぐ,1719-1788)が商品経済・金融経済を活性化させる重商主義的な政策を中心にして、農業経済で停滞していた江戸時代では珍しい『経済優位・規制緩和の政治改革』を主導することになります。

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