井伊直弼の安政の大獄と桜田門外の変・尊攘運動の急速な台頭

『一橋派』と『南紀派』の対立と井伊直弼の大老就任


井伊直弼の安政の大獄と尊攘運動・西南雄藩の台頭

『一橋派』と『南紀派』の対立と井伊直弼の大老就任

『ペリーの黒船来航』の項目では、マシュー・ペリーの浦賀来航と日米和親条約・日米修好通商条約の締結について説明しましたが、日米修好通商条約の締結は大老・井伊直弼が孝明天皇の勅許を得ずに独断で裁決しました。神君家康公の時代への復古と緊縮財政を掲げた水野忠邦の『天保の改革』は挫折しますが、水野忠邦の後を継いで老中首座になったのが雄藩の意見を積極的に取り入れて外交政策を行った開明的な阿部正弘(あべまさひろ,1819-1857)でした。マシュー・ペリーの黒船の浦賀来航やプチャーチンのロシア船の長崎来航があり、開国か攘夷かで日本が懊悩していた時期の老中首座が阿部正弘だったのです。備後福山藩主・阿部正弘は『安政の改革』を断行した若干25歳で老中に就任した人物でしたが、攘夷派の水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)や開明的な福井藩主・松平慶永(松平春嶽)、薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)など多様な意見を取り入れて外交上の国難を乗り越えようとしました。

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阿部正弘が老中首座を勤めた時代は、中国大陸でイギリス側が仕掛けた理不尽なアヘン戦争(1840-1842)が勃発していた時期であり、日本に対する西欧列強(アメリカ)の外圧が急速に高まっていました。阿部正弘自身は積極的な攘夷主義者(外国勢を武力で撃退する思想の持ち主)ではありませんでしたが、国学を信奉して『烈公(れっこう)』と呼ばれた気性の荒い水戸藩主・徳川斉昭(1800-1860)は武力を増強して攘夷を断行すべきという考えを持っており、正弘は折衷的な政策として開国はやむを得ないが軍事力も増強して外国の侵略の脅威には備えるという方針を定めました。

その為、何度か異国船打払令を復活させようとした形跡があります。阿部正弘は弘化2年(1845年)に海岸防禦御用掛(海防掛・かいぼうがかり)を設置して外交・国防を諸藩中心に強化しますが、正弘の政治家としての才覚の利点は開国派・攘夷派双方を含めて闊達に議論させてお互いが妥協できる結論を導き出したことにあります。しかし、阿部正弘は西欧列強に対する国防のために『諸藩の個別的な軍事力強化』を容認する流れをつくったため、薩摩藩・長州藩の軍事力が増強されて倒幕を準備したという見方もできます。

この外様大名も含めた『擬制的な諸侯会議』によって国内の内部分裂を抑制できた部分もあり、弱腰の外交を展開する幕府に批判的だった長州藩・薩摩藩の若い下級武士たち(尊皇攘夷の思想を持つ若手集団)の『突出・反乱』もギリギリのラインで抑えられていました。阿部正弘は今までの幕政の常識からは考えにくい大胆な適材適所の人材抜擢を行い、徳川斉昭・松平慶永(まつだいらよしなが,松平春嶽:1828-1890)・島津斉彬以外にも、筒井政憲、戸田氏栄、川路聖謨(かわじとしあきら)、江川英龍、アメリカ漂流者のジョン万次郎、岩瀬忠震(いわせただなり)などを採用して幅広く政治・外交(軍事)・財政の意見を求めていきました。

阿部正弘が日米和親条約(1854年)を締結したことに憤慨した攘夷派の徳川斉昭は海防掛参与の職を辞任しますが、斉昭は正弘に圧力を掛けて開国派の老中・松平乗全(のりやす)、松平忠優(ただかた)を罷免させます。しかし、開国派の首領であった井伊直弼がこの罷免に激昂することになり、阿部正弘は開国派・攘夷派の対立を調停するために老中首座の地位を井伊派の下総佐倉藩主・堀田正睦(ほったまさよし,1810-1864)に譲りました。阿部正弘は幕末の激動の時代に政治を主導した心労もあったのか、1857年(安政4年)6月17日に39歳の若さで風邪をこじらせて急死します。

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開国政策を推進していく堀田正睦は、溜間詰(たまりのまづめ,江戸城内黒書院の溜間に詰める親藩・譜代大名)にいる井伊直弼と親しい同盟関係にありました。堀田正睦と井伊直弼は13代将軍・徳川家定の後継者として、若年の紀州藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ,後の14代徳川家茂)を推す『紀州派(南紀派)』でした。阿部正弘は次期将軍に一橋慶喜(徳川斉昭の第7子,後の15代徳川慶喜)を推す『一橋派』であり、諸侯参加の合議制の政治体制のみではなく将軍後継を巡っても井伊直弼と対立関係にありました。一橋慶喜(徳川慶喜)を次期将軍にしたい『一橋派』には阿部正弘・徳川斉昭・島津斉彬などがいて、『段階的な攘夷・軍事力強化・雄藩参加の諸侯会議(合議制)』といった特徴がありました。『紀州派(南紀派)』には井伊直弼・堀田正睦などがいて、『開国通商・外交交渉の優先・幕府の独裁制(幕閣主導の専制主義)』といった特徴がありました。

朝廷工作・外交交渉・幕府のポスト争いなど『一橋派』『紀州派(南紀派)』の派閥闘争は、最終的に『紀州派の勝利』で終わり、井伊直弼が大老に就任して次期将軍にまだ年若い徳川慶福(徳川家茂,1846-1866)が指名されました。井伊直中の14男として生まれた近江彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ,)が、幕府の実質的な最高権力者である『大老』の地位に就いたのは安政5年(1858年)のことでした。井伊直弼は松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作によって大老の座を手に入れたのですが、独断専行型の政治を行って1858年6月に第121代・孝明天皇(こうめいてんのう,1831-1867)の勅許を得ることなく、アメリカの駐日公使タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を調印することを認可しました。

井伊直弼は尊王攘夷派の非難を押さえるために朝廷を無視した無断調印の責任を、自派の堀田正睦、松平忠固に押し付けます。しかし、この無断調印で攘夷主義者の孝明天皇を敵に回したことが、諸藩の尊王攘夷運動を煽り立てる結果を生み出します。外国勢力に屈服して日本の独立を危うくしているという弱腰外交のイメージが井伊直弼の命取りになるのですが、井伊暗殺(桜田門外の変)を招くきっかけになったのは国内の反対勢力(尊攘運動)を強権的に粛清した『安政の大獄(1858-1859)』でした。井伊の朝廷権威を無視した独断的な外交政策に怒った孝明天皇は、攘夷派・勤皇思想を代表する水戸藩に『戊午の密勅(ぼごのみっちょく)』を送って大老・井伊直弼を排除するように命じました。

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井伊直弼の安政の大獄と尊攘運動・西南雄藩の台頭

大老・井伊直弼が日米修好通商条約に違勅調印して外国勢力に追従したことを非難する声は、徳川斉昭・徳川慶喜・徳川慶恕(よしたみ)・松平慶永(春嶽)ら大名だけではなく、梁川星巌(やながわせいがん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梅田雲浜(うめだうんぴん)・池内大学(いけうちだいがく)といった当時の知識人階層(儒学者・国学者)からも多く上がっており、幕府の権威を低下させる尊王攘夷運動が活発化してきました。井伊直弼は水戸藩に『密勅の返納』を命じて反幕の密勅に関与した朝廷・幕府の人物の摘発を始めますが、この反幕府勢力・反井伊派に対する摘発・弾圧が尊攘運動を強権的に抑圧する『安政の大獄(1858-1859)』につながっていくのです。しかし、尊皇攘夷思想を信奉する水戸藩脱藩浪士は、水戸城下を離れて街道を封鎖しただけではなく、藩主の統制を無視して浪士が『国賊』と認識する井伊直助の襲撃暗殺を計画するに至ります。

1858年に徳川家茂が13歳で第14代将軍に就任すると、『南紀派』だった大老・井伊直弼は幕府の権力を掌握して、『一橋派』だった徳川斉昭、松平慶永、徳川慶恕(よしたみ,尾張徳川家)らを永蟄居・急度慎(きっとつつしみ)の処分とし、川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、土岐頼旨、永井尚志らの有能な幕府らを次々と左遷してしまいます。この幕府閣僚・官僚への厳しい処分(反対派閥の排除)を安政の大獄の始まりとする見方もあります。武家だけではなく公家に対しても左大臣・近衛忠煕(このえただひろ)、右大臣・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)、前関白・鷹司政通(まさみち)、前内大臣・三条実萬(さねつむ)が辞任して落飾させられており、青蓮院宮朝彦親王や内大臣・一条忠香(ただか)、二条斉敬(なりゆき)、近衛忠房(ただふさ)、久我建通(くがたけみち)、中山忠能(ただやす)などが謹慎処分(慎,つつしみの処分)を受けています。

安政の大獄は、幕府の権威と諸藩(武士)に対する統制力を回復するために断行された弾圧政策・思想統制ですが、大老・井伊直弼は特に、朝廷(天皇)の権威を強調して幕府の正統性を否定しようとする『尊王攘夷運動』の徹底した粛清に力を尽くしました。『安政の大獄』で最も厳しい処分を受けたのが『勤皇の志士(尊皇攘夷運動の活動家・思想家)・反井伊派の武士』であり、密勅を受け取った水戸藩の武士に対しては厳しい処断が取られました。

水戸藩家老・安島帯刀(あじまたてわき)は切腹、水戸藩奥右筆頭取(おくゆうひっとうどり)・茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)、京都留守居役・鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)は幕府から死罪を賜ります。それ以外にも、福井藩主・松平慶永(松平春嶽)の家臣で開明的な開国通商の思想を持っていた英才の橋本左内(はしもとさない,1834-1859)や諸学に深い造詣を持っていた儒者の頼三樹三郎(らいみきさぶろう)が処刑されています。明治維新につながる勤皇思想・開明主義(開国通商)の指導者として評価されている長州藩の吉田松陰(よしだしょういん,1830-1859)も、井伊派の老中首座・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺を計画した罪により死罪に処されています。

井伊直弼が安政の大獄で処刑したり獄死させたりした吉田松陰、橋本左内、梅田雲浜、頼三樹三郎といった顔ぶれを見ると、井伊直弼が勤皇思想(尊王攘夷運動)を幕府の権威維持にとって危険な思想であると認識していたことが良く分かります。幕府の信任低下(徳川幕府では国を守れないという不信感)に基づく『尊王攘夷運動』を純化させていくと『王政復古(大政奉還)』に行き着くことになるのは必然であり、大老・井伊直弼は幕府の権威と幕藩体制の秩序を維持するためには何としてでも尊皇攘夷の勃興(朝廷支持・幕府批判の思想)を抑止したかったのです。

その幕府の権力低下に対する井伊の不安と焦りの感情が『安政の大獄』をもたらしたと言えますが、現実を無視した強権の発動と志士の弾圧によって、かえって諸藩の志士の幕府への反発は強まり『尊皇攘夷の思想』が『倒幕思想』へと変質していくことになります。1860年(安政7年)3月3日、井伊を国賊・独裁者と見なす勤皇派の水戸脱藩浪士(薩摩藩士1名含む)18名が、雪の舞い散る江戸城桜田門外で井伊直弼の行列を急襲して直弼を暗殺しました。この『桜田門外の変(1860年)』によって幕府の権威や統制力は更に落ち込むところとなり、幕府の軍事力に拮抗する『薩摩・長州』を初めとする西国雄藩の台頭が強まってきます。

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井伊直弼が暗殺された後の幕府では、下総国関宿藩主・久世広周(くぜひろちか,1819-1864)陸奥国磐城平藩主・安藤信正(あんどうのぶまさ,1819-1871)が政権を握ることになります。『久世・安藤政権』では公武一和(こうぶいちわ)と称する『公武合体政策』によって、尊皇攘夷運動の危険性(朝廷・天皇が幕府の正統性を否認する危険性)を緩和しようとしました。14代将軍・徳川家茂と和宮(孝明天皇の妹)が婚姻した『和宮降嫁(かずのみやこうか)』もこの公武合体政策の一つの現れでしたが、家茂と和宮の夫婦関係はお互いを思い合う良好なものだったと伝えられています。

しかし、1862年(文久2年)1月15日に再び、水戸藩脱藩浪士(平山兵介ら)による『坂下門外の変』が起こり、安藤信正は生命は助かったものの公武合体を進めていた幕政からは失脚しました(安藤は永蟄居と減俸の処分を受けます)。『桜田門外の変』と『坂下門外の変』という幕府閣僚(大老・老中)の暗殺事件(坂下門外の変は未遂)によって、幕府の諸藩・武士に対する求心力は大いに揺らぐことになり、『公武合体の宥和策』『尊皇攘夷・倒幕の強硬策』の二つが幕末の政治情勢を動かしていくことになるのです。

『倒幕』に向かう尊皇攘夷運動の高まりを象徴する事件として、薩摩藩士・有馬新七(ありましんしち)や久留米藩神官・真木和泉(まきいずみ)が討幕の軍事決起をしようとして薩摩藩の刺客に制圧された『寺田屋事件(1862年)』があります。寺田屋事件では、薩摩藩主・島津久光の命令を無視して尊攘の決起をしようとした有馬新七ら6名を、同じ薩摩藩士の奈良原喜八郎(ならはらきはちろう)、大山綱良(おおやまつなよし)らが藩命によって容赦なく斬るという凄惨な戦いが行われました。1863年(文久3年)には、吉村寅太郎(よしむらとらたろう)・藤本鉄石(ふじもとてっせき)・松本奎堂(まつもとけいどう)を代表とする尊皇攘夷の志士たち30数名が、天皇の親政回復を目的として公卿・中山忠能(ただやす)を擁立して『天誅組の変』を起こします。しかし、薩摩藩・会津藩・淀藩・土佐藩(京都守護職の松平容保,京都所司代の稲葉正邦)などが『公武合体の立場』を取って幕府に味方したため(諸藩が御所の防備を固めて尊攘派を追い出す1863年の『8・18の政変』)、天誅組の変はあっけなく制圧されることになります。

尊攘派・倒幕勢力の代表である『長州藩』は、その後、京都御所に向けて発砲するという『禁門の変(1864年)』を起こしてしまい、朝廷・幕府の敵として厳しい立場に追い込まれることになります。江戸幕府は長州藩が尊攘運動を主導しながらも御所に弓を引いたとして、長州藩を懲罰するために、2度の『長州征伐(長州征討・長州出兵,第一次征長が1864年,第二次征長が1866年)』を行いますが、長州藩一藩さえ幕府が軍事力で征伐できないことが明らかとなり幕府の軍事的威信が更に低迷する結果となりました。第二次・長州戦争の講和は、15代将軍・徳川慶喜の代理である勝海舟(かつかいしゅう)と長州藩の代表である広沢真臣(ひろさわまさおみ)・井上馨(いのうえかおる)との間で行われましたが、幕府の軍事力の限界が天下の耳目に晒されることになり、西南雄藩の筆頭である『長州藩』『薩摩藩』とが同盟を結べば(薩長同盟が成立しさえすれば)、幕府の封建的な支配体制が根本から転覆する可能性が示されたのです。

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