薩英戦争・馬関戦争・長州征伐:武力による攘夷の挫折

生麦事件と薩英戦争


四国連合艦隊が長州を砲撃した馬関戦争と攘夷の挫折

生麦事件と薩英戦争

『井伊直弼の安政の大獄』の項目では、幕末の尊皇攘夷運動の弾圧について説明しましたが、諸藩の中で抜きん出た実力(武力・財政力)を持ち攘夷勢力の急先鋒と見られていたのが薩摩藩(現鹿児島県)長州藩(現山口県)でした。この薩摩藩と長州藩が『佐幕派』となるか『倒幕派』となるかによって、江戸幕府存立の命運が大きく変わる緊迫した政治情勢が幕末にはありましたが、薩長に外国勢力の武力討伐を断念させる事件(西欧列強との武力衝突)が1860年代に相次いで起こります。日本の攘夷主義者(水戸藩の志士が中心)が外国人を追い出そうとして直接攻撃する事件が連続して起こりますが、その先駆けとなったのが、水戸藩浪士が1861年(文久元年)5月に起こした『東禅寺事件(とうぜんじじけん)』でした。

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第一次東禅寺事件(1861年5月)は、水戸藩浪士の有賀半弥(ありがはんや)、岡見留次郎(おかみとめじろう)ら14名が、江戸・東禅寺にあったイギリス公使館を襲撃した事件であり、イギリス人の外交官・医師オールコックらの日本旅行に憤激して起こしたとされます。オールコックら公使館員は応戦して撃退に成功したものの、長崎領事モリソンと書記官オリファントが負傷して、幕府に厳しい抗議を行い賠償金を請求します。翌1862年に幕府は、イギリス人2名の負傷に対して賠償金1万ドルを支払っています。1862年5月には、松本藩の外国人警固のための出費に反対する松本藩士・伊藤軍兵衛(いとうぐんべえ)が、再びイギリス公使館を襲撃して二名の水兵を殺害する『第二次東禅寺事件』を起こしますが、幕府は薩摩藩の生麦事件の賠償金と共に第二次東禅寺事件の賠償金も支払いました。

1862(文久2)年8月21日には、参勤交代を終えた薩摩藩主・島津久光(しまづひさみつ)が江戸を出発して帰京の途中、薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人(リチャードソンら4名)を殺傷する『生麦事件』が起こりました。リチャードソンが死亡して、他のイギリス人2名が負傷しました。日本側の慣習的な法では、奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん)と有村武次(海江田信義,かえだのぶよし)がイギリス人を殺傷した行為は『(大名行列の秩序を乱した無礼者に対する)無礼討ち』として容認されますが、領事裁判権を持つことさえ当然と考える当時のイギリス人(西欧人)がそんな日本の法(野蛮と見なす慣習)に納得するはずもなく、外交問題へと発展して幕府は謝罪と賠償を行うことになります。

日本に対する抗議を行ったのがイギリスの代理公使・ニールでしたが、『賠償金・謝罪・犯人の引渡し』を求めるニールの要求を幕府は受け容れますが(第二次東禅寺事件と生麦事件の賠償金として11万ポンドを支払う)、薩摩藩はそのイギリスの要求を拒絶します。『生麦事件の下手人はもう行方不明になった』と誤魔化して、イギリスとの薩英戦争(1863年)に踏み切ることになるのです。

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1863年6月、薩摩藩の不誠実な態度に怒ったイギリスは交渉を打ち切って、6月22日に横浜に停泊していた軍艦7隻を鹿児島へと出動させて、暴風雨(台風)が吹き荒れる7月2日に薩英戦争が開始されました。暴風雨の影響でイギリスは近代兵器の長距離砲の利点が十分に活かせず、イギリスは予想以上に薩摩藩との戦いに苦戦して大きな損害を出しましたが、薩摩藩の側も砲台・集成館(洋式兵器工場)を破壊されて多くの藩士が命を失うことになりました。

圧倒的なイギリスの火力・装備で国土を叩かれた薩摩藩でしたが、薩英戦争を戦って薩摩藩が得た最大の教訓は『武力をもって西欧列強を攘夷することは、現状の幕府・諸藩の力では不可能である(まずは西欧の先進的な兵器・技術・知識を導入して国力を充実強化しなければならない)』という現実認識でした。戦後、薩摩藩は急速にイギリスに接近して、武器・軍艦の購入を交渉するようになっていき、薩摩藩の『軍備・軍隊・工場の近代化』はイギリスの支援を受けて進められていったのです。薩摩藩は武力で西欧諸国を攘夷することを断念しますが、西欧諸国の先進的な技術や兵器、知識(科学)を積極的に導入して国力を増強する『西洋文明の利点・優位の活用』こそが、薩摩そして日本の将来に役立つと確信したのでした。

薩摩藩と並ぶ西南雄藩である長州藩も、薩英戦争以前の1863年(文久3年)5月10日に、下関(馬関)海峡でアメリカ商船ペムブローク号や西欧諸国の艦船に対する朝命に基づく無謀な攘夷(砲撃)を決行しており、西欧列強から激しい報復を受けて下関砲台が破壊されました。長州の幕末の軍事力は、藩の上級武士の支配機構に組み込まれた『正規兵』から、武士の身分にこだわらない義勇兵(有志・志願兵の軍)としての性格を強く持つ『奇兵(ゲリラ兵)』へと大きな転換を遂げていきますが、その諸隊創設の原動力の役割を果たしたのが長州藩士・高杉晋作(たかすぎしんさく, 1839-1867)でした。高杉晋作が1863年6月に『奇兵隊(きへいたい)』を創設した背景には、幕府・藩の上級武士の西欧列強に対する弱腰卑屈な態度や武力の弱さがあり、強硬な攘夷主義者であった高杉晋作は『攘夷の意志・覚悟』がある志願兵をゲリラ軍として活用することに攘夷の可能性を見ていました。

尊皇攘夷・儒学の指導者であった吉田松陰『松下村塾(しょうかそんじゅく)』という私塾を開いていましたが、19歳で松下村塾に入門して学問・思想を学んだ高杉晋作久坂玄瑞(くさかげんずい)と並んで『松門の双璧(しょうもんのそうへき)』と尊称されました。長州藩主・毛利定広の命で文久2年(1862年)5月に、高杉晋作は五代友厚などと一緒に幕府使節随行員として長崎から中国の上海へと渡っています。その時に、高杉晋作はアヘン戦争に敗北した清(中国)が西欧列強の植民地とされつつある状況にショックを受けたと伝えられますが、中国の民衆が団結して『太平天国の乱』を起こしていることを見て、日本でも民衆(庶民)の力や愛国心を何とか活かせないかと思案します。『奇兵隊』を筆頭とする志願兵のゲリラ部隊は、『庶民の力・国防の意志』を軍事力に反映させようとする思想の具体的な現れとして理解することもできるでしょう。

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四国連合艦隊が長州を砲撃した馬関戦争と攘夷の挫折

武士と庶民が混合した瀬戸内海一帯のゲリラ部隊(身分の差にこだわらない志願兵で構成される部隊)は、高杉晋作が結成した奇兵隊以外にも、御楯隊・遊撃隊・鴻城隊・荻野隊・膺懲隊・南園隊・第二奇兵隊・八幡隊・集義隊などの諸隊が結成されます。幕府が倒壊する前の1865年の段階で、既に2,000名を越える兵力を志願兵の諸隊が持っていたとされますが、高杉晋作が原動力となった長州近縁のゲリラ部隊は『攘夷の軍』から次第に『倒幕の軍』へとその性格を変えていきました。1863年5月のアメリカ・フランスに対する攘夷攻撃(砲撃)に失敗した長州藩は、1864年(元治元年)8月に四国連合艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)の攻撃を受けることになり『馬関戦争(下関戦争)』が幕を開けることになります。

イギリス海軍中将・クーパーを総司令官とする四国連合艦隊の目的は、『長州藩に報復すること』もありましたが『日本の武士階級(支配階級)に鎖国及び攘夷の不可能性・危険性を悟らせること』に重点があり、雄藩・長州藩を圧倒的な軍事力で痛めつけて他藩の見せしめに出来ればそれで良いと考えていました。長州藩は1864年の時期には『四国連合艦隊の襲撃』『幕府による長州征伐』という内憂外患を抱え込んでおり、長州藩は何とかして外国との戦争を回避しようとします。

豊後水道の姫島に集まっている四国連合艦隊(旗艦はユーリアラス号)に、伊藤俊輔(伊藤博文)と松島剛蔵を送って和平交渉を行おうとしましたが、既に艦隊は出航していて交渉はできず、その後も前田孫右衛門と井上聞多(井上馨)を送りますが間に合いませんでした。1864年8月4日、長州藩が沿岸に設置していた砲台は、強力で正確な弾道を持つ艦砲射撃によって次々と破壊されていきましたが、続く陸上戦では長州藩の諸隊(特に奇兵隊・膺懲隊)が奮戦して西欧諸国の軍隊と対等に渡り合いました。

結局、馬関戦争(下関戦争)は圧倒的な近代兵器(艦砲)の火力を持つ四国連合艦隊の勝利に終わりますが、8月8日の馬関戦争の講和には高杉晋作が使者として赴き、アーネスト・サトウの通訳で総司令官クーパーとの交渉を行いました。1864年8月18日に講和条約がまとまり、長州藩は下関海峡の外国船の通行の自由、石炭(燃料)・食物・水など外国船の必要品の売買の認可、悪天候時・遭難時の船員の下関上陸、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け容れました。賠償金300万ドルは、長州藩が幕府の命令(幕府が朝廷に約束した攘夷)を受けて不本意に攘夷を実行したという事情があったので幕府に対して請求されることになりました。幕府が大政奉還をして崩壊すると、この馬関戦争の賠償金は新政府へと引き継がれ1874年まで支払いが続きました。フランス軍は馬関戦争の戦利品として青銅製の砲門をパリに持ち帰っており、アンバリッドという軍事博物館に陳列しています。

幕府の長州征伐が起こる前には、京都の政局は長州藩を中心とする尊王攘夷派が主導権を握っていましたが、薩摩藩と京都守護職を担う会津藩が連携して反長州の宮廷クーデターを起こして、長州藩は京都から追放されることになります。薩摩藩・会津藩の孝明天皇を奉戴した宮廷クーデターを『8月18日の政変』といいますが、この政変によって幕府は一時的に勢力を盛り返して、攘夷派の志士は新撰組(局長・近藤勇,副長・土方歳三)などによる粛清の脅威を受けることになります。元治元年(1864年)6月には、新撰組隊士(近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助)が志士を襲撃して殺傷する『池田屋事件』が起こっており、尊攘派で将来有為とされていた吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助など長州藩・土佐藩の志士が命を落としました。

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1864年7月19日、尊攘派の長州藩は『藩主の冤罪』を晴らすために兵力を京都に派遣して、孝明天皇を自勢力の首領として擁立することで事態の転換を図ろうとします(禁門の変)。しかし、強硬手段で京都・御所にまで侵入した長州藩は強力な薩摩藩に撃退されることになり、この『禁門の変』によって朝敵・幕府の敵に認定されてしまう危機に陥ります。禁門の変の後に、前尾張藩主・徳川慶勝を総督、越前藩主・松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に据えて『第一次長州征伐(長州戦争)』が断行されますが、総督参謀の西郷隆盛が、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への追放、山口城の破却を撤兵の条件として講和を結び終結しました。

1866年6月には、14代将軍・徳川家茂が自ら総大将として大坂城に入城して『第二次長州征伐(長州戦争)』を決行しますが、近代的な西洋式の軍備軍制を採用した高杉晋作の奇兵隊や諸隊に幕府軍を苦戦を強いられ、途中で家茂が病没したこともあって幕府の撤退・敗北で二度の長征は終わりを迎えます。この第二次長州征伐の時には、既に薩摩藩と長州藩との間で『薩長同盟の密約』が成立しており、薩摩軍は幕府軍に加勢して長州藩を攻撃することはありませんでした。

1866年(慶応2年)1月21日(1月22日)に、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎などが仲介者となって、京都小松清廉邸(京都市上京区)で西郷隆盛、大久保利通、薩摩藩家老・小松清廉(小松帯刀)と長州藩の木戸孝允(桂小五郎)が『倒幕・王政復古』を目的とする薩長同盟(薩長盟約)を結びました。桂小五郎以外の長州藩士である高杉晋作・井上聞多・伊藤俊輔らも薩長同盟の成立に尊攘運動の期待を掛けていましたが、幕末で最大の実力を持つ二つの西南雄藩(薩摩藩・長州藩)が連合することによって倒幕と王政復古の実現が間近に迫ることになったのです。

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