薩長同盟による倒幕と大政奉還・戊辰戦争

薩長同盟の成立と倒幕への方針転換


徳川慶喜の大政奉還と戊辰戦争による新政府の確立

薩長同盟の成立と倒幕への方針転換

『薩英戦争・下関戦争・長州征伐』の項目では、薩摩藩と長州藩が強力な近代兵器を持つ西欧列強諸国と戦って敗れ、外国勢力の攘夷が不可能であることを悟りました。薩摩藩・長州藩はそれぞれに『兵器・軍制の近代化(開国による善隣外交・通商貿易)』に勤め始めることとなり、薩摩藩は開明君主とされ西郷隆盛にも敬愛された島津斉彬(しまづなりあきら, 1809-1858)の遺志を継いだ藩主・島津久光(しまづひさみつ,1817-1887)によって軍備の増強を図ります。吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾で薫陶を受けた長州藩の名だたる志士は、高杉晋作(たかすぎしんさく)『奇兵隊』をはじめとする非正規の義勇軍(志願兵)の増強に注力し、近代装備を持つ士気の高いゲリラ部隊を訓練することで幕末の諸藩の中でも抜きん出た軍事力を持つようになります。幕末の日本は薩摩藩と長州藩の挙動によって政局が左右される緊張状態となりますが、薩長同盟が成立する以前には、薩摩藩はどちらかというと『公武合体派(江戸幕府を温存)』、長州藩は『尊皇攘夷派(倒幕派)』であり、両者は敵対的な関係にありました。

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文久2年(1862年)に薩摩藩主・島津久光は、武家(幕府・雄藩)と公家(朝廷)が協調して政治に当たる『公武合体運動(こうぶがったいうんどう)』を推進するために兵力を率いて京都に上洛します。この京都上洛からの帰り道に、薩摩藩士(奈良原喜左衛門,海江田信義ら)が『生麦事件』を起こして大名行列を横切ろうとしたリチャードソンらイギリス人3人を殺傷しました。京都では孝明天皇を擁立して幕府に対抗しようとする長州藩の尊攘派の勢力が拡大していましたが、薩摩藩と会津藩(藩主松平容保)、公家勢力が連携した『8月18日の政変(1863年)』によって長州藩の尊攘勢力は京都の中枢から追放されます。それまで、京都の政界では長州藩の尊皇攘夷派が最も強い勢力を保持していたのですが、孝明天皇と公卿の意向を汲んで薩摩藩・会津藩が画策した8月18日の政変によって京都政界の主導権は薩摩藩へと移っていきます。

島津久光は『公武合体』を具体的な制度に移行させるために公家と武家を合わせた合議制として『朝廷会議』の成立を宣言して、雄藩の諸侯を朝廷会議に参加できる『参預(さんよ,朝議参預)』という新たな役職に任命しました。参与に任命された主要メンバーは、一橋慶喜(徳川慶喜)、松平春嶽(松平慶永)、前土佐藩主・山内容堂(やまのうちようどう)、前宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)、会津藩主で京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)らでしたが、横浜の開港・鎖港や攘夷の可能性を巡る諸侯の意見対立で朝廷会議はまともに機能しませんでした。

1864年(元治元年)には、長州藩の尊攘派の志士(松門の久坂玄瑞・来島又兵衛らが積極派)が『藩主・毛利敬親(もうりたかちか)と毛利定広(さだひろ)の父子の冤罪を晴らす』という大義名分を立てて、京都に攻め寄せ『禁門の変(蛤御門の変)』が起こります。しかし、長州藩は薩摩藩・会津藩との戦いに敗れて『朝敵・逆賊』の立場に追い込まれ、朝廷の孝明天皇は江戸幕府の14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち,1846-1866)に対して長州征伐(長州征討)の宣旨を出しました。

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前尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)を総督とする『第一次長州征伐(1864年)』は、山口城を破却させるなど形式的には幕府の勝利となりましたが、実際の戦闘は殆ど行われておらず長州藩の兵力は温存されました。幕府が第二次長州征伐を断行する前の1865年、長州藩の政権内部では倒幕に向かう転換点となる『元治の内乱』が起こり、尊皇攘夷を掲げる積極的な倒幕派が藩政の主導権を獲得します。長州の元治の内乱では、奇兵隊を率いる高杉晋作が挙兵して、佐幕派の『俗論派』を追放することに成功し『倒幕派』が藩政の実権を掌握することになります。長州藩の尊攘派は来たるべき幕府との戦争に備えて、大村益次郎(おおむらますじろう,1824-1869)が中心となってゲベール銃やミニエー銃など軍備の近代化と合理的な戦術の改革を進めました。

1866年(慶応2年)1月21日には、『8月18日の政変・禁門の変・第一次長州征伐』などによって感情的に深い対立をしていた薩摩藩と長州藩の間で、政治的・軍事的同盟である『薩長同盟(薩長盟約)』が結ばれました。この薩長同盟の成立によって、西南雄藩として強力な軍事力を持つ薩摩藩と長州藩が『倒幕の意志』で合意することになるわけですが、薩長同盟の仲介役として大きな役割を果たしたのが土佐藩浪士の坂本龍馬(さかもとりょうま,1836-1867)中岡慎太郎(なかおかしんたろう,1838-1867)でした。

坂本龍馬は長州の桂小五郎(木戸孝允)から求められて、薩長同盟の条文を示した書簡に朱筆で裏書をしています。坂本龍馬も中岡慎太郎も、文久元年(1861)に武市瑞山(たけちずいざん)が結成した『土佐勤王党(とさきんのうとう)』のメンバーでしたが、坂本龍馬は亀山社中(海援隊)という商社を結成して軍備・物産の貿易面で長州藩を支援したという経緯も持っています。1866年6月の『第二次長州征伐(四境戦争)』では、坂本龍馬も亀山社中の乙丑丸で長州藩の海軍を支援していますが、薩摩藩は『薩長同盟』によって幕府の長州攻めの要請を拒絶しました。

1866年6月、大坂城に入った14代将軍・徳川家茂が率いる幕府軍は、芸州口・石州口・小倉口・大島口の4方面から攻撃を仕掛けます。幕府は、紀州藩主の総督・徳川茂承(とくがわもちつぐ)と副総督・本荘宗秀(ほんじょうむねひで)を配置して重点的に攻撃した芸州口も落とすことができず、大島口では海軍総督となった高杉晋作の丙寅丸(へいいんまる)に幕府の艦隊は翻弄されました。石州口でも、大村益次郎(村田蔵六)が幕府側の紀州藩・浜田藩・津和野藩・福山藩の連合軍を近代兵器を備えた兵力で打ち破り、幕府が乾坤一擲を狙った小倉口でも、高杉晋作と山県狂介(山県有朋)が幕府側の小笠原長行(おがさわらながみち)を圧倒しました。

第二次長州征伐(四境戦争)は、軍備・戦術を近代化した長州藩の優勢で推移していましたが、7月20日に第14代将軍・徳川家茂が大坂城で衝心脚気のために病没すると幕府軍の士気は更に低迷しました。家茂の後を継いだ第15代・徳川慶喜は、小倉口で形勢逆転を狙う『大討込(おおうちこみ)』を断念することになり、勝海舟(かつかいしゅう,1823-1899)を代表として長州藩と講和の交渉を行いました。しかし、徳川慶喜が朝廷・天皇の勅命を得て強引に長州藩と停戦を決議したため、独自に停戦交渉を進めていた勝海舟は憤慨して役職を退いてしまいました。

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徳川慶喜の大政奉還と戊辰戦争による新政府の確立

一橋慶喜(徳川慶喜)は第14代・徳川家茂の存命中にも、松平春嶽らと共に『文久の改革』と呼ばれる幕政改革に着手していましたが、1866年7月20日に家茂が病死すると8月20日に徳川宗家を相続し、朝廷から第二次長州征伐の停戦の勅命を受けて長征を終結させます。第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ,1837-1913)は12月5日に将軍宣下を受けて征夷大将軍となり、老中・板倉勝静(いたくらかつきよ)、老中・稲葉正邦(いなばまさくに)、老中・小笠原長行(おがさわらながみち)、大目付・永井尚志(ながいなおむね)、外国奉行・平山敬忠(ひらやまよしただ)、勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)、勘定奉行・栗本鯤(くりもとこん)らを起用して、西欧列強の技術・軍備・制度を積極的に導入しようとする幕政の近代化(慶応の改革)に取り掛かりました。

薩摩藩・長州藩は駐日公使パークスイギリスと深く結びついて兵器・軍事の近代化を推進しましたが、徳川幕府のほうはフランスの駐日公使レオン・ロッシュ(1809-1900)の協力を受けて内政・外交・軍事・財政・経済の全般にわたる近代化のための『慶応の改革』を行ったのです。

徳川慶喜はフランス公使レオン・ロッシュと交渉してフランスから240万ドルの資金援助と武器・軍需品の供与を受けて、近代兵器を生産するための横須賀製鉄所(海軍技師ヴェルニーが主任)や造船所を建設します。慶喜は明治維新に先駆ける『殖産興業(近代的な産業の活性化)』の理想を持っていましたが、その財源を捻出するために旗本・御家人の軍役・賦役を廃止してそれらの義務を『税金の金納』に改めます。軍制改革では組織・訓練の西欧化にも関心を持ち、ブリュネやシャノワンといった軍事顧問団を招聘して、銃で武装した軍隊の戦略・戦術の指導を受けました。 旧態化して機能しなくなっていた老中の月番制を廃止して、板倉勝静を中心とする『陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁』を設置して、将軍を補佐する近代的官僚機構を整備しようとしました。1867年には、フランスのナポレオン3世が世界の国々の物産・工業製品・民芸品などを集めて展示する『パリ万国博覧会』を開催しますが、この国際的な博覧会に幕府と薩摩藩が参加しました。将軍の徳川慶喜は弟の徳川昭武(あきたけ)をパリ万国博覧会に派遣して、フランス皇帝に国書を送り西欧諸国との外交関係を深めようとしました。幕府と薩摩藩は膨大な民芸品や物産(漆器・和紙・日本刀・日本画など)をパリ万国博覧会に持ち込みましたが、幕府と薩摩藩との間でどちらが日本国を代表するのか、出品物の展示場所はどうするのかを巡って争う一幕もありました。慶喜は兵庫開港についての勅許を得ることに成功して、薩摩藩・越前藩・土佐藩・宇和島藩の『四侯会議』をいったん解散に追い込みますが、武力倒幕を掲げる『王政復古(勤王思想)』の勢力の主張も強まっていました。

薩長の強大な軍事力との衝突を回避して体制を立て直そうとした徳川慶喜は、1867年(慶応3年)10月14日に、明治天皇(1852-1912)に政権返上を上奏して『大政奉還(たいせいほうかん)』を自ら断行しました。幕府(徳川将軍家)から朝廷の天皇に政権を返上したこの大政奉還によって、形式的には江戸幕府の統治は終了したと見ることが出来ますが、徳川慶喜は当時、土佐藩の後藤象二郎・藩主の山内容堂らが説いていた『公議政体論(こうぎせいたいろん)』を参照しており、徳川将軍が『大名会議(諸侯会議)』の中で再び主導権を取り戻すことが出来ると甘く見ていた部分もあったようです。幕府に対抗する薩長勢力の中でも『公議政体論』と『武力倒幕論』との対立がありましたが、慶喜が自発的に大政奉還を行ったことでとりあえずは武力による討幕を回避することが出来ました。

しかし、徳川慶喜が西周(にしあまね)の補佐を受けて構想していたとされる徳川将軍が合議制(議会政治)を主導する『大君制の中央集権政治』は実現することなく、『明治天皇の天皇制』により明治維新の文明開化は進展していくことになったのでした。1866~1867年には、年貢の減免を求めたり物価高騰による生活の困窮に対抗する意味合いを持つ農民一揆の『世直し』が頻繁に起こるようになり、武士領主層や富農層が一藩の農民を管理・支配する江戸時代の農村の封建秩序(身分秩序)が大きく揺らぎました。1867年には、伊勢神宮のお札が空から舞い落ちてきたという風聞によって、『ええじゃないか』という民衆総動員の狂乱が起こり、『世直し一揆』が『ええじゃないか』の騒動と結びつくことで政治的な変革主体としての庶民・農民の力が目立ってきました。

倒幕を目指す大久保利通や岩倉具視の政治的計略によって、1867年12月に『王政復古の大号令』が発せられて、明治天皇による王政復古が約260年続いた江戸幕府を終結させました。徳川慶喜に対しては新政府から辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)の命令が出されますが、この条件は慶喜側の抗議によって後に緩和されます。しかし、新政府(明治政府)と江戸幕府の政権を巡る対立がそのまま沈静化することはなく、翌年の1868年(慶応4年)に、京都における薩摩藩の挑発に幕府軍(会津藩・桑名藩)が応じて戊辰戦争(1868年-1869年)の先駆けとなる『鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日-30日)』が開戦しました。

『鳥羽・伏見の戦い』では、大坂城の徳川慶喜が率いる幕府軍のほうが新政府軍(薩摩主体の軍)よりも兵力数で勝っていましたが、新政府軍は自らが明治天皇を奉じる官軍であることを示す『錦の御旗』を掲げて戦い、幕府軍の士気を低めながら優勢に立ちました。幕府軍は十分に戦況を立て直すだけの軍事力をまだ保持していたのですが、何を思ったのか、大将の徳川慶喜が大坂城を出て愛人と共に軍鑑・開陽丸に乗り込んで江戸へと逃走しました。徳川慶喜が敵前逃亡したと思われても仕方がない行動を取ったことで、幕府軍の士気は総崩れとなり鳥羽・伏見の戦いは薩長の新政府軍の圧勝で終わります。

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徳川慶喜は『朝敵』とされることになり、東征大総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひと)に追討令が下されますが、慶喜は抗戦派を退けて朝廷へ恭順することを決意します。2月になると、新政府との交渉を陸軍総裁・勝海舟に一任することにし、慶喜は上野・寛永寺大慈院で謹慎して、徳川宗家の家督を養子の田安亀之助(徳川家達)に譲ることも決めました。

勝海舟は新政府軍(官軍)による『江戸城総攻撃』を何としてでも回避するために官軍参謀・西郷隆盛と粘り強く交渉を行い、『徳川慶喜の水戸での謹慎・江戸城の尾張徳川家への引渡し』を条件にして、1868年5月3日に『江戸城の無血開城』が行われました。新政府軍と幕府軍が戦う『戊辰戦争』そのものは、その後も東北地方の奥羽越列藩同盟や新撰組の残党(箱館戦争)との間で続けられることになりますが、江戸城の無血開城によって初代将軍・徳川家康から15代将軍・徳川慶喜まで約260年にわたって続いた江戸幕府の武家政権は終わりを迎えることになりました。薩長主体の明治維新の実現によって、王政復古(天皇主権)の中央集権国家・日本が成立することになり、日本の歴史は近世の江戸時代から『富国強兵・殖産興業・脱亜入欧』を掲げる近代日本(明治時代)へと革新的な展開を見せることになったのです。

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