福島県の名前と歴史

福島県の誕生:薩長の新政府軍に抗戦した会津藩の悲劇と福島の地名の起源

福島県の誕生:薩長の新政府軍に抗戦した会津藩の悲劇と福島の地名の起源

福島県という名称もまた青森県・岩手県(南部氏)・宮城県(伊達氏)と同じように『戊辰戦争の敗戦による影響』を強く受けたものであり、福島県の前身である幕末の『会津藩(あいづはん)』は、奥羽越列藩同盟で新政府軍と最も激しい戦闘を展開した大藩でした。会津藩の歴史を遡ると、豊臣秀吉の天正18年(1590年)の奥州仕置で没収された伊達政宗の会津領は、近江国蒲生郡出身の蒲生氏郷(がもううじさと, 1556-1595)に与えられたのですが、元々会津は伊達氏に滅ぼされた蘆名氏(あしなし)の旧領でした。1591年の『葛西大崎一揆』を煽動した嫌疑を掛けられた伊達政宗は、豊臣秀吉により岩出山に移封されて、蒲生氏郷が現在の福島県中通り以西に当たる会津領42万石を領有することになります。

会津藩42万石は、秀吉が奥州の竜・伊達政宗を押さえ込むために子飼いの蒲生氏郷を配置したものであり、1592年にはその後の検地・加増によって石高が増えて会津は『92万石』という巨大な藩へと成長しました。奥羽地方(東北地方)において会津藩は仙台藩と並ぶ雄藩となりますが、氏郷の子の蒲生秀行(がもうひでゆき)の代になると、蒲生氏は会津藩から宇都宮藩へと移封され、それに代わって越後藩の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が会津120万石に転封されます。政略的に故郷・本領の越後から切り離された上杉景勝は、福島県の中通り以西の地域と山形県の置賜地方を支配することになりますが、『関ヶ原の戦い』の後に積極的に東軍(徳川家康)を支援しなかった上杉景勝は減封処分を受けて、信夫郡・伊達郡を除く福島県(会津藩)の所領を失います。かつての豊臣政権で『五大老』として大きな石高・影響力を持っていた越後の虎の上杉氏も、この処分により40万石の大名になってしまいます。

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上杉景勝が処分された後の会津藩には、再び蒲生秀行が藩主に任命されることになり、会津藩60万石という東北の大藩が生まれます。しかし、2代目・蒲生忠郷(がもうたださと)が急逝したため、蒲生氏は伊予・松山藩に移封されることになり、1627年に加藤嘉明(かとうよしあき)が40万石で会津藩に入封しました。加藤家の会津支配も2代目の加藤明成(かとうあきなり)が『会津騒動』を起こしたことで領地を返上することになり、1643年に松平氏の保科正之(ほしなまさゆき)が会津藩23万石で入封しました。この松平氏が会津藩の藩主となり、この藩の体制は幕末の松平容保(まつだいらかたもり)にまで続いていきます。保科正之は江戸幕府の第3代将軍徳川家光の異母弟(=2代徳川秀忠の四男)に当たる人物であり、会津松平家は徳川家(家康の元々の苗字は松平氏です)の血縁の家系に当たります。

上杉氏の米沢藩に残されていた信夫郡・伊達郡も1664年には改易されて、松平氏・会津藩の東北地方における影響力は極めて大きくなりました。会津藩9代藩主で尊皇攘夷派を捕縛する京都守護職でもあった松平容保(1836-1893)の幕末に、戊辰戦争の『会津戦争(1868年)』が勃発して、会津藩の藩士や少年・少女に大勢の犠牲者が出ましたが、飯盛山で自刃した白虎隊(少年兵部隊)の悲劇のエピソードは良く知られています。10代の男の子を中心にして結成された『白虎隊(びゃっこたい)』だけではなく、若い女の子を中心にして組織された『娘子隊(じょうしたい)』にも多くの死傷者・自害者が出たと伝えられています。

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会津藩は明治元年9月22日に新政府軍に降伏し、奥羽列藩同盟で最後まで新政府軍に抵抗した庄内藩もその2日後に降伏を余儀なくされますが、この戊辰戦争の敗戦によって会津藩は官軍に弓を引いた『朝敵・賊群』の汚名を受けることになりました。この敗戦によって、この現在の福島県に当たる地域が『会津県』となる可能性は断たれましたが、『会津』という名前の歴史は相当に古く、『古事記』の記述では第10代の崇神天皇(すうじんてんのう,紀元前148年-紀元前29年)の時代にまで遡ることができるとされています。崇神天皇は歴史学的に3~4世紀に実在した可能性があると推測されている天皇ですが、崇神天皇を初代天皇とする仮説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と解釈するような仮説があります。

古事記には『会津』の地名の語源の『相津(あいづ)』について、以下のような記述があるといいます。『大比古の命は、先の命のまにまに、高志の国に罷り行きき。しかして、東の方より遣はさえし建沼河別(たけぬまかわ)とその父大比古と共に、相津に行き遇ひき。かれ、そこを相津といふ』。『会津(相津)』の地名としての歴史は2千年に近いものであり、伝統主義の立場からは『福島』よりも圧倒的に由緒正しい名前と見ることもできますが、福島という地名は16世紀末に蒲生氏郷の客将であった木村吉清(きむらよしきよ)によってつけられたものです。

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木村吉清は蒲生氏郷から文禄元年(1592年)に、信夫郡(現在の福島市)5万石を与えられて大森城に入りましたが、その後に吉清は居城を大森城から杉妻城(杉目城,すぎのめじょう)へと移して、杉妻の地名を『福島』へと改称しました。これが『福島』という地名の起源になっています。慶長3年(1598年)に蒲生氏が宇都宮へ移封されると、木村吉清は九州・豊後国で1万5千石を与えられることになりましたが同年に死去しました。

戊辰戦争において最も頑強に明治新政府に抵抗したことで、歴史的な深みのある『会津』が県名になることはありませんでしたが、『福島』という名前は江戸時代まではかなり存在感の弱い5万石程度の小藩の名前だったことは印象的です。福島県は現在でも高齢者の間では、西部の『会津』、東北新幹線周辺の『中通り』、太平洋沿岸の『浜通り』で、文化的・歴史的な気質や自己アイデンティティの違いがあると言われたりもしますが、幕末の東北地方では松平家の会津藩は伊達家の仙台藩と並び立つほどの影響力・石高を持つ藩としての威容を示していました。

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