茨城県の名前と歴史

茨城県の誕生:幕末の尊王攘夷思想の拠点になった水戸と茨城県への改変

茨城県の誕生:幕末の尊王攘夷思想の拠点になった水戸と茨城県への改変

現在の茨城県は古代の律令体制の令制国(りょうせいこく)では、『常陸国(ひたちのくに)・下総国(しもうさのくに)』に該当しますが、近世江戸期の歴史では“天下の副将軍・水戸光圀(徳川御三家)”“尊王攘夷を説く水戸学”でよく知られています。茨城県の読みは『いばらぎけん』と濁音で誤読されることも多いのですが、正しくは『いばらきけん』であり、その全国的な知名度は水戸と比べるとそれほど高いものではありませんでした。

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茨城県の水戸というと現代ではテレビドラマの『水戸黄門(水戸光圀を主人公とする勧善懲悪のフィクション)』『特産物の水戸納豆』をイメージしやすいですが、江戸時代の幕末期には『水戸・水戸藩士』というとどちらかというと、尊王攘夷の目的達成のために実力行使を躊躇わない“コワモテの藩士集団・思想集団”というイメージが持たれていました。幕末には『桜田門外の変(井伊直弼暗殺)』をはじめとして水戸浪士が起こした暗殺事件が多く発生しており、水戸の土地には儒教の君臣秩序(上下関係の名分)と尊王思想(権威的君主への服従)を重視する『水戸学』という独自の愛国主義的傾向を持つ過激な学問が発展しました。

孝明天皇の勅許を得ずに勝手に日米修好通商条約を結んだと指弾された井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺した『桜田門外の変(1860年)』を起こしたのは水戸藩の脱藩浪士でした。その後にも水戸浪士は、天皇家と徳川将軍家を不可分に一体化させて幕府の権威を高める“公武合体策”を説いた安藤信正を襲う『坂下門外の変(1862年)』を起こしています。『茨城(いばらき)』という地名の由来は、常陸国茨城郡から取られたものですが、古代の時代に茨城郡の辺りに『国巣(くず)』という山中の穴に住み着いた土着の盗賊がいて、その盗賊を征伐するために黒坂命(くろさかのみこと)が穴に罠をしかけたといいます。その罠にあった茨の棘(とげ)に刺さって国巣の盗賊たちが死んだことから、『茨城』という地名が生まれたという伝承が伝わっています。

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ラディカルな武力行使も辞さない『水戸学の尊攘思想』が普及しはじめたのは、1841年(天保12年)に“質素倹約・上げ地・海防強化(異国船への対応)”を中心とした水野忠邦『天保の改革』が行われた頃からで、日本国内の情勢と藩の財政が大きく混乱しはじめた時期でした。水戸学の始祖は、寛政3年(1791)に君臣身分(上下関係)の区別の重要性と尊王の大義名分の実践を説く『正名論』を著した藤田幽谷(ふじたゆうこく,1774-1826)であり、幽谷の儒学的思想はその子の藤田東湖(ふじたとうこ,1806-1855)会沢正志斎(あいざわせいしさい,1782-1863)へと引き継がれていきました。更に、9代藩主の“烈公”と呼ばれた徳川斉昭(とくがわなりあき,1800-1860)が藩校・弘道館を開いて(1841年)、藤田東湖を側近・参謀として厚遇したことから、尊王攘夷思想の理論的根拠となる水戸学が全国的な影響力を持つようになっていきました。

会沢正志斎『新論』は、民心を集結させて幕府の政治改革と軍備充実を図ることで国難を乗り切ることを説き、その具体的方法として『尊王攘夷』を用いるべきとしましたが、この思想は幕末の薩長同盟の倒幕運動(王政復古)の正統性を担保する役割を果たすようになっていきます。藤田東湖『弘道館記述義』では天皇権威の正統性の下にある人々の道徳を説いており、『古事記』『日本書紀』の建国神話から始まる歴史的な流れの中に、日本の人々が踏み行うべき普遍的な『道(道徳)』が示されているという思想を展開しました。

水戸学を象徴する藤田東湖の『敬天愛人の道徳論』や会沢正志斎の『政治改革論(尊王攘夷論)』は、幕末に大きな思想的・政治的影響力を持つようになる薩摩藩の西郷隆盛長州藩の吉田松陰の基本思想にも非常に大きな影響を及ぼしており、倒幕運動・明治維新の『天皇主権の王政復古を正統とする思想的な原動力』になっていきました。

幕末の志士や政治情勢に与えた水戸学の影響力の大きさを考えれば、水戸藩は『薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩』に並ぶくらいの存在感を示してもおかしくはなかったのですが、水戸学を信奉する頑固一徹で妥協を知らない“水戸っぽの気質”が災いして、幕末の水戸藩では『天狗党の乱』をはじめとする内部紛争が多く起こり遂にまとまった力を発揮することができませんでした。天狗党の乱では郷校出身者の多い『天狗党』と藩校(弘道館)出身者の多い『諸生党』との内部対立があり、元治元年(1864年)に藤田小四郎が率いる天狗党一派が筑波山挙兵をした時にも、挙兵に反対する諸生党が天狗党を鎮圧するために出兵したりしました。

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江戸時代には水戸藩を筆頭に14藩と諸大名の飛び地、幕府直轄領・旗本領が錯綜していましたが、1868年(慶応4年・明治元年)には倒幕後の明治維新によって、旧幕領・旗本領は新政府の直轄地に組み入れられていきました。1868年6月に粥川満明(三上藩士)『常陸知県事』となり、8月には佐々府貞之丞(肥後藩士)『下総知県事』となりますが、1868年(慶応4年)4月には府藩県の三治体制の暫時的対応として旧常陸国に『若森県』が設置されました。若森県の県庁は新治郡(にいはりぐん)の若森村に置かれましたが、2年後の1870年(明治4年)には若森県は『新治県(にいはりけん)』へと改名されます。

明治政府の廃藩置県が行われた明治4年(1871年)11月13日には、現在の茨城県は次の3つの県へと統合されました。

茨城県……松岡県・水戸県・宍戸県・笠間県・下館県・下妻県を統合。

新治県……石岡県・志筑県(しずくけん)・土浦県・松川県・麻生県・龍ヶ崎県・牛久県・千葉県の一部を統合。

印旛県(いんばけん)……結城県・古河県・千葉県の一部を統合。

1875年(明治8年)5月7日に、その茨城県と新治県が統合されて現在の『茨城県』が誕生しました。印旛県のほうは1873年(明治6年)に木更津県と合併して、『千葉県』に組み込まれました。

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