明治維新と廃藩置県・版籍奉還

五箇条の御誓文と明治天皇の親政


明治維新の展開と廃藩置県・版籍奉還

五箇条の御誓文と明治天皇の親政

『薩長同盟と討幕・大政奉還』の項目では、西郷隆盛(西郷吉之助,1828-1877)を総指揮官(参謀)とする薩長軍が、『鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)』で15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ,1837-1913)率いる幕府軍を打ち破り、その後の江戸城無血開城(討幕)を実現しました。1年5ヶ月にわたる内乱の『戊辰戦争(ぼしんせんそう,1868-1869)』で薩長主体の新政府軍が勝利して、明治天皇(1852-1912)を主権者とする新政府(明治政府)が成立します。1868年当時、新政府の財政は極めて弱体でしたが、劣勢に追い込まれた幕府を見限った三都(江戸・京都・大阪)の大金融資本・商業資本が新政府に財政援助をしたため、戦費調達や財政政策の基盤が整い始めました。

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1868年4月11日に、西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸城無血開城が実現した後も、新政府の方針に反対する旧幕府軍との戊辰戦争は続いていましたが、一橋家家臣と旧幕臣で構成される彰義隊(しょうぎたい)を、大村益次郎率いる精鋭が『上野戦争(1868年5月15日)』で破って関東・江戸の支配権を確立しました。5月24日、公卿の三条実美(さんじょうさねとみ,1837-1891)が関八州鎮将に任命されて、徳川宗家は駿河藩70万石に移封されることになり、江戸は新政府軍の管轄下に置かれることになります。最後まで徹底抗戦の構えを示したのは、会津藩藩主の松平容保(まつだいらかたもり,1836-1893)で、『玄武隊・青龍隊・朱雀隊・白虎隊(年齢別の軍隊)』を創設する軍制改革を行い、4月10日に庄内藩と同盟を結んで新政府軍に対抗します。会津藩と庄内藩を除く、東北・北陸の諸藩も反新政府の同盟を結び、1868年5月6日には北越6藩・東北25藩から成り立つ『奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)』が結成されました。

奥羽越列藩同盟と会津藩・庄内藩を敵に回す『東北戦争』は長期化しますが、新政府軍は7月29日に新潟と長岡城を占領して越後を支配下に収め、越後長岡藩の名臣として知られた河井継之助(かわいつぐのすけ)も重傷を負って8月16日に死去しました。8月23日には、堅牢な会津若松城が完全包囲されて新政府軍の略奪と暴行を受けることになり、日本史上の悲劇とされる少年兵である白虎隊の集団自決事件も起こりました。

その後、会津藩の援軍が会津若松城に駆けつけたため、9月22日に無条件降伏するまで会津藩は徹底抗戦しましたが、最終的には新政府軍のアームストロング砲を用いた激しい攻撃を耐え切れずに降伏しました。会津藩よりも前に米沢藩と仙台藩も降伏しており、9月23日にはそれまで優勢に戦いを展開していた庄内藩も敗北を認め、9月25日には南部藩も降伏して『東北戦争』は新政府軍の勝利で幕を閉じます。1869年5月18日、『箱館戦争』で五稜郭(ごりょうかく)に立てこもっていた幕府の海軍副総裁・榎本武揚(えのもとたけあき)が降伏して、1年5ヶ月続いた戊辰戦争の内乱は終結することになり、最後まで幕府について戦った新撰組の副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)は戦死しました。

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戊辰戦争が続いている1868年(慶応4年)3月14日には、福井藩出身の参与・由利公正(ゆりきみまさ)と土佐藩出身の参与・福岡孝弟(ふくおかたかちか)が原案を書き、木戸孝允・岩倉具視・三条実美が文章を編集した『五箇条の御誓文』が発布されました。五ヶ条の御誓文は、天皇中心主義による王政復古・公議政体を目指す建国の基本精神について述べたものであり、京都御所の紫宸殿(ししんでん)において謹厳な神道の形式(天神地祇御誓祭)で発表されました。

1867年12月9日には、既に『王政復古の大号令』が発布されていましたが、この時に岩倉具視(いわくらともみ)の天皇の神格化を目指す主張により、『建武の中興(後醍醐天皇の新政)』ではなく『神武創業(記紀の神話時代)』が明治政府の主権理念として採用されることになります。明治時代以降の近代日本になって、天皇家は神話時代の初代・神武天皇から続く『万世一系の系譜』に公式に位置づけられ、その政治的権威と存在の神格性は特に昭和初期において急速に高められることになります。

五ヶ条の御誓文

一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

『広く会議を興し万機公論に決すべし』とは、重要なあらゆる事項は会議(議会)を通じてまとめていかなければならないという意味で、五箇条の御誓文を福岡孝弟らが起草した時には、自由民権論者のような『一般庶民も参加する議会』のことは想定されていなかったとされています。『上下(しょうか)心を一(ひとつ)にして盛に経綸(けいりん)を行うべし』とは、地位の高い者も低い者も一致団結して協力し、経済活動(経綸)を振興していこうという意味ですが、経綸は国家の政策一般のことを指すとも考えられています。『官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す』とは、中央政府・武家の諸侯・一般庶民がそれぞれの志を実現するために努力して、精神を倦怠(堕落)させないようにしなければならないという意味です。

『旧来の陋習(ろうしゅう)を破り天地の公道に基くべし』は、木戸孝允によって追加された項目で、『旧態的な封建制・因習・閉鎖性』を打ち破って、世界に普遍的(一般的)に通用する道理(人道)や法理(万国公法)に基づいた政治を行っていかなければならないという意味です。『智識を世界に求め大いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし』とは、先進的・実用的な知識を西欧世界(世界各国)に求めていき、天皇主権の統治の基盤を発展させていこうという意味です。

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明治維新の展開と廃藩置県・版籍奉還

明治政府は中央・地方の統治体制を整備するために、1868年1月17日に三職七課制、2月3日に三職八局制という臨時の政府機関を置いていましたが、4月21日にアメリカの合衆国憲法・連邦制度を参考にした『政体書』を発令します。この政体書の発令によって、形式的な三権分立を実現した『太政官制(だじょうかんせい)』を固めました。立法権は議政官(ぎせいかん)が担当し、行政権は行政官が担当し、司法権は刑法官が担当しましたが、この三権分立は欧米諸国に追いつこうとする新政府の姿勢を示すものに過ぎず、実質的には『維新の英傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允など))』を中心とする薩長閥が非常に強い権限を握っていました。

明治政府の成立当初は、為政者や庶民が話し合って物事を決めるという『公議世論・公議政体論』の影響が強く、『中央集権的な天皇専制=天皇絶対主義』といった政治改革の方向性は明確ではありませんでした。明治天皇は公議世論(公論)を尊重しながら政治的判断を下す『近代日本の国家元首(立憲主義に依拠する啓蒙君主)』としての役割を期待されていたのであり、公論を超越する天皇主権(天皇親政・個人崇拝の神格化)の色彩が濃くなるのは、『日清戦争(1894年)』以後に本格的な帝国主義・植民地獲得競争の時代に入ってからでした。明治時代の初めには天皇主権の君主政治を標榜しながらも、実質的には『公議世論と天皇親政の両立』が模索されていたのであり、明治天皇自身も日本の政治経済の近代化を推進する啓蒙君主としての役割を受け容れていました。

明治政府による中央集権的な国家体制を確立するためには、藩を統治する封建諸侯の領地(版)と人民(籍)を天皇(明治政府)に返還させる必要があり、参与・木戸孝允(きどたかよし,)は1868年2月から岩倉具視・三条実美に『版籍奉還(はんせきほうかん)』について打診していました。1869年(明治2年)1月14日には、すべての土地と人民は天皇(国王)が所有するという王土王民(おうどおうみん)の思想を根拠にして、大藩である薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣(ひろさわさねおみ)、土佐藩の板垣退助(いたがきたいすけ)が代表となって版籍奉還(藩主の土地と人民の天皇・政府への返還)に合意しました。1869年1月20日に、明治維新に功績のあった薩長土肥の四藩が版籍奉還の上表書を提出したので、他の諸藩もこれに追随して次々に版籍奉還に同意することになり、6月17日には274大名が版籍奉還に応じました。

各藩の大名が素直に版籍奉還に応じた背景には、明治政府への版籍奉還を江戸幕府の本領安堵(ほんりょうあんど)と同じようなものだと勘違いしていたことがあり、大名たちはいったん政府に返上した土地と人民が再交付されるものと信じていたと言われています。版籍奉還が実施された明治2年(1869年)の段階では、幕藩体制は完全には解体されておらず、藩主は非世襲の『藩知事(知藩事)』に任命されてそれまでと変わらない統治権を保障されていました。幕府直轄の旧天領や旗本支配地などは政府直轄地とされて『府』『県』に再編され、中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣されたので、版籍奉還の時の地方統治は『府藩県三治制』になっていました。藩主(大名)が知藩事に任命された時に、公卿や諸侯の封建的地位が廃止されて『華族』となり、武士階級の人達も『士族』としてまとめられるようになります。

版籍奉還によって、藩主(大名)は『封建領主としての地位・家臣との主従関係』を否定されることになり、非世襲の知藩事に任命されたことで『藩政』のような地方自治の独立性も失われることになります。幕藩体制の封建的な世襲制を否定する版籍奉還は、日本の近代的な中央集権体制が整備される起点となり、地方自治体は中央政府の命令に従う地方行政機構へと再編されていくことになります。薩摩・長州などに代表される大藩はまだ藩政改革をする余力を残していましたが、地方の中小藩は財政が逼迫しており自ら廃藩を名乗り出るところもあって、『政府内部の急進派(木戸孝允)・漸進派(大久保利通)の対立』を抱えながらも、中央集権体制を完成させる『廃藩置県』の気運が高まってきます。

クーデターとも言える廃藩置県の断行に大きな貢献をした西郷隆盛は、『産業経済の近代化・資本主義化』には反対の思想を持っていて、『軍備の増強・農本主義の維持』の思想を持っていたとされますが、大久保利通は政府改革の自説を政府で通すために西郷の支援が必要と考えていました。1871年1月に、藩政改革のために鹿児島に戻っていた西郷隆盛を東京に呼び戻しますが、新政府内部では、産業経済の発展を重視する開明派の『大隈重信・木戸孝允』と軍事強化・対外強硬策(征韓論など)を掲げる保守派の『西郷隆盛・大久保利通』の対立の溝が深まってきます。1871年2月10日には、版籍奉還で失業した武士(士族)に仕事を与えるための『親兵設置』の要請が認められますが、この軍隊の近代化と関連する軍制改革では、山県有朋(やまがたありとも)と西郷隆盛の『藩主に忠誠を尽くす藩兵の否定=政府直属の兵士についての話し合い』が持たれていました。

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1871年7月4日に、山県有朋の配下の鳥尾小弥太(とりおこやた)と野村靖(のむらやすし)が木戸派と西郷派の対立に危機感を感じて、山県有朋に対して『廃藩置県』のクーデターの即時断行を提議します。鳥尾と野村は井上馨も仲間に引き入れ、井上馨は木戸孝允を説得します。山県有朋のほうは、西郷隆盛と大久保利通の説得に成功し、大隈重信の同意も取り付けて廃藩置県の実行に確信を強めていきます。薩長閥のリーダーである木戸孝允も西郷隆盛も『新政府の求心力・団結力』を回復して、停滞する政局を打破するために『廃藩置県』が必要であるということで意見が一致しており、三条実美・岩倉具視・板垣退助らの同意も取り付けていきます。そして、1871年(明治4年)7月14日に、知藩事を東京に召集して明治天皇が『廃藩置県』の詔を出すという天皇専制の形式で廃藩置県が断行されたのです。知藩事に代わって明治政府から『県令』が派遣されることになり、藩札を廃止して政府発行の紙幣を流通させることで『貨幣の統一』も図られました。

日本の近代化を促進した廃藩置県には、薩長の藩閥政治の思惑と天皇専制政治の形式との両面が作用しており、『非薩長系の大藩(熊本藩・高知藩など)』との公論(議論)が採用されなかったことで藩閥政治と天皇親政の独裁的性格を強めたという弊害も生みました。この独裁的・閉鎖的な藩閥政治を批判する政治運動として、板垣退助に代表される『自由民権運動(民選議院の設立運動)』が力を持ってくることになりますが、近代日本では立憲君主制と議会政治が成熟する前に、薩長閥・軍隊と近代天皇制(天皇絶対主義)の癒着という『非民主的な専制の危機』が台頭してくることになるのです。

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