鎌倉府と奥州管領:室町時代の守護・国人

室町時代の守護・国人と土地支配の変化
鎌倉府の鎌倉公方と関東管領の誕生

室町時代の守護・国人と土地支配の変化

『足利尊氏による室町幕府の成立』の項目では、北朝と南朝(後醍醐天皇方)に仕えた武士団について詳しく書いていませんでしたが、鎌倉時代の末期から南北朝時代にかけて『武士団の性質・武家の相続法・戦闘方法』が大きく変化しました。鎌倉時代の武士は『惣領制(そうりょうせい)』によって血縁関係で結ばれた一族・一門が団結しており、惣領(そうりょう)と呼ばれる一門のリーダーが一族・庶子(分家)を統率していました。

惣領とは一族の本家の首長(リーダー)であり、惣領は分家である庶子(しょし)に対して所領相続を通した強い支配力を持っていました。鎌倉時代には、鎌倉幕府の棟梁である『将軍』と一族一門の首長である『惣領(御家人)』とが主従関係を結び、幕府は惣領制とご恩(本領安堵・新領給付)を介在して各地の庶子を間接的に統治しました。本家の惣領と分家の庶子は『郎党(ろうとう)・下人(げにん)・所従(しょじゅう)』といった多くの家来を率いており、幕府に軍事的危機が訪れた時には一族を挙げて『奉公』することを誓約していました。

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幕府に危難がある時には、一族・郎党を率いて戦(いくさ)に参加するというのが御家人の義務(奉公)でしたが、郎党というのは下級武士層のことを指します。御家人と一族・郎党の下には、普段は農業をしていて実質的に家内奴隷的地位にあった下人・所従(下層農民階級)といった人たちがいました。鎌倉時代の武家の土地相続は兄弟で等しく所領を分け合う『分割相続』が一般的でしたが、土地を相続する子が多くいると、惣領・庶子が保有する土地の面積と収益はどんどんと小さくなっていきます。

新しい所領(土地)が増えない限りは分割相続を維持するのは困難であり、鎌倉幕府末期になると多くの武士階層が『御家人役(幕府への軍役・納税などの義務)』を果たすために“分割相続から単独相続へ”と相続方法を変更しました。武士階層の中には全国各地に所領を持つような大きな一族一門もありましたが、鎌倉幕府末期には惣領(本家)の庶子(分家)に対する支配力が衰えていき、庶子は惣領から独立した武装勢力になっていきます。

建武の新政が起こる頃には、惣領制の解体がかなり進んでおり、庶子は惣領から独立したりあるいは逆に惣領の家臣となって被官(ひかん)したりするようになります。本家とのつながりが弱くなった庶子の中には、既存の政治体制である鎌倉幕府に対抗する『悪党(あくとう)』になる者もありました。

武士の戦闘方法の変化という点では、旧来の『一騎打ち・弓馬の技術』を中心にした戦闘から、『徒歩武者(かちむしゃ)=歩兵のゲリラ戦法』が中心になってきました。後醍醐天皇の討幕や南北朝の動乱期で活躍した武装勢力の多くは、『正規の武士(惣領制下の一族郎党)』ではなく『悪党・野伏(のぶせり)・溢者(あぶれもの)・凡下(ぼんげ)』と呼ばれた新興武士階級・武装農民階級でした。

新興の武士階級は、古来からの儀礼的・慣習的な一騎打ちの戦闘などには関心がなく、集団での白兵戦を得意として『奇襲攻撃・待ち伏せ・ゲリラ的な波状攻撃』などを行ったので、実戦では正規の武士階級以上の強さを発揮することになります。執権・北条時宗が活躍した元寇の時の『鎌倉武士VS元軍(高麗軍・南宋軍)』の戦闘状況が南北朝の争乱で再現されるような形になりました。後醍醐天皇が鎌倉幕府の滅亡に成功した背景には、幕府の既得権益と無関係な新興武装勢力である『悪党・海賊・凡下・非人』などが後醍醐天皇方の軍勢に味方をして戦ったということがあります。

騎乗せずに徒歩で戦う徒歩武者(歩兵)は、両手で持つ一撃の攻撃力が強い大型の日本刀(太刀)や槍を好んで用い、動きやすい軽量の鎧(胴丸・腹巻)を身につけて機動性を生かした集団戦法を駆使しました。特に、相手との距離が近い白兵戦で絶大な威力を発揮する『槍(やり)』という武器は、鎌倉時代末期から薙刀(なぎなた)に代わって用いられるようになったと言われています。

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鎌倉時代には、源頼朝・北条時政が諸国に守護(1180年)・地頭(1185年)を派遣して幕府の領地支配を実現しましたが、鎌倉時代末期の動乱の時代になると『朝廷側の国司・本所・領家(荘園領主)』だけではなく『幕府側の地頭』も所領の直接的支配権を弱めていきます。

鎌倉幕府の滅亡によって土地支配の正統性を失った地頭は次第に影響力を衰退させて、室町時代中期頃には地頭職は消滅しますが、地頭の中には『国人(こくじん)』という土着の地方領主へと変質する者も多くいました。南北朝時代から室町時代にかけて台頭する『国人』とは、元々鎌倉幕府の地頭に由来した武士勢力であり、室町時代初期には土着の在地領主(地縁を基盤とする武装勢力)となっていき守護の領国支配にも大きな影響力を持つようになります。

室町時代の諸国は、守護を公式の行政官として、中小の庶子や武士団を被官化(家来化)した有力な国人(国人衆)によって統治されるようになります。国人層の在地領主は所領を一円化(一箇所に集める)して支配し、地方の中小の地侍・悪党・武装勢力を被官化していくことで勢力を強めましたが、所領を巡る紛争は熾烈を極め国人同士で団結して守護に抵抗を企てることもありました。南北朝の動乱や守護による重税(搾取)から自分たちの所領を守るために国人は軍事的な団結を深めていき、応仁の乱(1467)以降は、合戦や抵抗の時には『国人一揆(こくじんいっき)』を起こすほどの力を持つようになります。

武士団の利権と関係の変化によって、国人や悪党と呼ばれる新興武装階級が生まれ、国人一揆を起こせる国人衆は守護と拮抗し合うような勢力を蓄えます。南北朝の内乱において非常に大きな役割を果たしたのが各国を統治(行政権・軍事警察権)する『守護(しゅご)』であり、守護は法制的には幕府の人事権の下にある行政官(役人)ですが、次第に中央集権的な統制(幕府の命令)に服さない独立勢力としての様相を強めてきます。

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つまり、本来であれば幕府の命令(人事権)によって守護を置き換えることができるはずなのですが、『守護は遷替(せんたい)の職である=守護は幕府の命令で交替する役人である』という原則が南北朝期には崩れていきます。守護は元々、京都大番役の催促・謀反人・殺害人の逮捕という『大犯三か条(たいぼんさんかじょう)』の権限を持ち、御家人統制権と検断権(裁判権)を掌握していました。

室町幕府が開設されると守護大名が世襲的・固定的に領国を支配する『守護領国制』が確立して、守護は幕府を補佐する独立性の強い勢力へと成長していきます。室町時代に『領国の行政・軍事警察・司法』の権限を掌握した強大な守護のことを、それ以前の官吏としての守護と区別して『守護大名』と呼びます。建武の新政・南北朝時代から室町時代にかけて、守護の権限は段階的に拡大しました。

1346年(貞和2)に、守護に対して刈田狼藉(かりたろうぜき)の検断権使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)が与えられ、領国内において所領(土地)を家臣に与える『宛行権(あてがいけん)』と土地の所有権を保証する『安堵権』も掌握しました。刈田狼藉というのは収穫前に水稲を力づくで刈り取っていく乱暴な行為であり、守護はこういった刈田狼藉を実力行使で取り締まる権限を持ちました。

使節遵行権というのは、所務相論(しょむそうろん)と呼ばれた土地を巡る紛争に対する幕府の判決を強制的に執行できる司法権のことです。1352年には軍事兵粮の調達を名目にして、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収することのできる『半済(はんぜい)の権利』を獲得し、荘園領主と年貢徴収の契約を結ぶ『守護請(しゅごうけ)』によって経済的利権を拡張しました。

守護は段銭(たんせん)や棟別銭(むなべつせん)といった徴税権も持っていましたが、守護本人は京都に駐在していることが多く自分の代官である『守護代(しゅごだい)・小守護代』を領国に派遣していました。室町幕府は全国各地で強大な権力を蓄積した守護大名が補佐する『連合政権』としての性格を濃厚に持っていたので、中央集権的な政府としての地方諸国に対する強制力は余り強くありませんでした。

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鎌倉府の鎌倉公方と関東管領の誕生

室町時代に有力であった守護大名(守護)には、足利将軍家の血縁に連なる斯波氏(しば)・畠山氏(はたけやま)・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏・上杉氏などがいましたが、特に斯波氏・畠山氏・細川氏は将軍を補佐する『三管領(さんかんれい)』の家格とされ別格の取り扱いを受けていました。三河に本拠を置いていた細川氏は鎌倉中期から足利氏に従うようになりましたが、南北朝時代の動乱期には足利尊氏の北朝に味方して、畿内・四国地方・中国地方に勢力圏を伸ばしました。

細川氏も斯波氏も畠山氏も清和源氏の流れを汲む先祖を遡れば、足利氏の祖・足利義康(あしかがよしやす)に辿り着きますが、室町時代以前には細川氏よりも斯波氏・畠山氏のほうが家格が高いと認識されていました。細川氏の初代は、足利義季の子・細川俊氏(ほそかわとしうじ)とされます。足利尊氏と足利直義が争った『観応の擾乱』では、細川和氏(かずうじ, 1296-1342)・頼春(よりはる, 1304-1352)の兄弟、その従兄弟の細川顕氏(あきうじ, 生年不詳-1352)が尊氏方について戦いました。

1352年には、南朝との戦いの中で、細川頼春と細川顕氏が戦死して細川氏の権勢が衰えるかのように見えましたが、頼春の子である細川頼之(ほそかわよりゆき,1329-1392)が管領として抜群の才腕を発揮して、細川氏の勢力圏(分国)を近畿(摂津)以外の『伊予・讃岐・土佐・阿波(四国地方)』へと広げました。

しかし、和氏の嫡子で二代将軍・足利義詮の執事を務めた細川清氏(きようじ, 生年不詳-1362)は、幕府に反抗的な婆裟羅大名(ばさらだいみょう)として有名な佐々木道誉(ささきどうよ)の謀略によって康安の政変(こうあんのせいへん)で失脚します。これ以降、頼之の義弟・細川頼元(ほそかわよりもと)の子孫である京兆家(けいちょうけ)を中心にして細川氏は栄えますが、細川氏の『中興の祖』は中国管領・四国管領を務めながら三代将軍・足利義満を補佐した細川頼之だと言えます。

足利一族の中で最も家格が高いとされた斯波氏は、足利泰氏の子・斯波家氏(しばいえうじ)を祖としますが、足利尊氏が討幕の軍を起こした時には斯波家永(しばいえなが)が鎌倉に残って尊氏の代官(執事)を務めました。家督を握る斯波高経(しばたかつね, 1305-1367)には斯波家永(1321-1338)斯波義将(しばよしまさ, 1350-1410)という子がいましたが、斯波義将は北陸地方や東海地方に勢力圏を拡大して細川氏(細川頼之)と激しく対立しました。1379年の康暦の政変(こうりゃくのせいへん)では、斯波義将が足利義満に讒言して旧怨のある管領・細川頼之を失脚させることに成功し、義将自身が管領の地位に就きました。

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室町幕府では幕府中枢の要職に就ける高い家格として『三管領・四職(さんかんれいししき)』がありました。管領の官職に就ける三管領とは足利氏につながる『細川氏・斯波氏・畠山氏』のことであり、侍所の長官に就ける四職の家柄とは守護大名の『赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏』でした。

三管領の名門・畠山氏は畿内・紀伊・河内・能登・越中などに拠点を置いて威勢を振るいましたが、畠山政長と畠山義就の内部紛争によって段階的に勢力を落としていきます。四職の赤松氏は瀬戸内海沿岸の備前・播磨に本拠を置き、一色氏は丹後・若狭・三河で勢威を盛んにしました。観応の擾乱で、足利尊氏に反旗を翻して足利直義・直冬側についた山名氏ですが、1363年に幕府に降伏したものの領地没収の制裁を受けることはなく『丹波・丹後・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・美作(みまさか)』といった中国地方の領国を安堵されました。

直義方について尊氏と戦った上杉氏も、1363年に降伏して『越後・伊豆・上野(こうずけ)・上総(かずさ)・安房(あわ)・武蔵(むさし)』の守護に任命されます。反幕府的性格を備えていた九州地方の守護大名・大内氏も、1363年に幕府に帰服して『周防(すおう)・長門(ながと)』の守護に任じられました。ここに至って、室町幕府の形式的な日本全国の統治体制が確立したと見ることが出来ます。

室町幕府の政治機構は、征夷大将軍の足利将軍家を頂点として中央に『管領・侍所・奉公衆(将軍の近衛軍)』が置かれ、管領の指揮下に『政所・小侍所・問注所・評定衆(引付衆)』が設置されました。地方統治のための行政府としては、関東(鎌倉)に鎌倉公方・関東管領が管轄する『鎌倉府』が置かれ、京都から離れた奥羽と九州を統治する地方行政機関として『奥州探題(奥州管領)・羽州探題(羽州管領)・九州探題(九州管領)』が設置されました。

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室町幕府の政治体制の確立過程では、鎌倉幕府の拠点だった地域を抑える『鎌倉支配(東国支配)』が重要な課題になってきますが、南北朝の動乱時には鎌倉に二代将軍となる足利義詮(1330-1367)が残っていました。奥州府に拠点を置いていた南朝の北畠顕家(きたばたけあきいえ)に対抗するために、成良親王を奉じた足利直義が下向していましたが、北条時行による中先代の乱(1335)の後には、足利義詮と執事・斯波家永が関東経営(鎌倉統治)の任務に当たりました。

1336年12月に、鎌倉での北畠顕家との戦闘で斯波家永は敗れて自害しますが、三浦半島に逃げた義詮は顕家が京都に向かった後に再び鎌倉に入り、尊氏は1340年に上杉憲顕(うえすぎのりあき, 1306-1368)高師冬(こうのもろふゆ, 生年不詳-1351)を執事として鎌倉に向かわせました。上杉憲顕は足利尊氏・直義の従兄弟に当たる人物であり山内上杉氏の祖とされる人物ですが、守護に任じられた越後において南朝軍との戦いを展開しました。

1347年頃から幕府で足利直義と高師直の対立が強まり、執事の上杉憲顕は直義派となり、高師冬は師直派となりました。1349年8月に、京都で直義が師直の武力攻撃によって失脚しますが、政務を担当する二頭政治の一角を失った室町幕府は、足利義詮を鎌倉から京都へと招聘しました。

1349年に鎌倉府の棟梁であった足利義詮が京都に呼び戻されると、義詮の弟の足利基氏(あしかがもとうじ, 1340-1367)が鎌倉に下向して、初代の鎌倉公方(かまくらくぼう)に任命されました。鎌倉公方(関東公方)とは、室町幕府が鎌倉をはじめとする関東10カ国を統治するために設置した行政機関『鎌倉府』の長官のことですが、正式な役職ではなく将軍の代理という位置づけにありました。

鎌倉公方(関東公方)を補佐する役職として『関東管領(かんとうかんれい)』がありますが、幕府に反抗した上杉憲顕が1363年に足利基氏に呼び戻されて初代の関東管領となりました。それ以降、関東管領の職は代々上杉氏が担うようになります。鎌倉公方は『足利基氏・氏満・満兼・持氏・成氏』の5代続きましたが、代を重ねるにつれて京都との地理的距離が開いていることもあり室町幕府からの独立色を強めていきました。

幕府との対立を深めた5代鎌倉公方の足利成氏は、1455年の享徳の乱の時に下総国古河(茨城県古河市)を本拠とするようになり、『鎌倉公方』『古河公方(こがくぼう)』と呼ばれるようになります。当初は室町幕府の命令権に服する出先機関に過ぎなかった『鎌倉府』は、次第に臨時的な軍事指揮権以外の行政権・裁判権・所領の安堵権と宛行権を掌握するようになり、『東国の幕府』のような存在になっていきました。

東国の鎌倉と並ぶ重要拠点であった奥州地方は、建武の新政期には陸奥守の北畠顕家が統治していました。しかし、足利尊氏と後醍醐天皇が戦う動乱の中で北畠顕家が戦死すると、1337年に派遣されていた尊氏側の奥州総大将・石塔義房(いしどうよしふさ)が奥州地方を統治することになりました。1342年頃から石塔義房は奥羽地方の盟主とも言うべき絶大な権限を掌握し始めますが、1345年に土着武装階級である国人の反発にあって京都に帰還することになり、石塔義房に代わって畠山国氏(はたけやまくにうじ)・吉良定家(きらさだいえ)が奥州地方に派遣されました。

室町幕府の有力武将であった畠山国氏と吉良定家が初代の奥州管領(おうしゅうかんれい)となりますが、奥羽地方の支配を委譲された奥州管領の権限は軍事指揮権に限られており、地方行政機関としての権力基盤は脆弱でした。足利尊氏・直義兄弟が争う観応の擾乱の影響を受けて、尊氏派の畠山国氏と直義派の吉良定家も対立を深め、1350年には襲撃を受けた国氏が自害に追い込まれました。足利尊氏が直義に勝利すると吉良定家・貞経の兄弟は尊氏に帰順して、1351~1352年にかけて南朝軍の北畠顕信と激戦を展開します。

1354年に吉良定家が奥州地方から生没不明で姿を消しますが、その後の奥州管領の地位を巡って暫く混乱した時期が続き、足利尊氏は斯波家兼を奥州管領に任命してとりあえずの政治秩序を確立しました。

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