古代ローマ文明の没落とゲルマン民族の大移動

共和政ローマから帝政ローマへの変革


ギリシア・ローマ文明の衰微とローマ帝国の斜陽


ゲルマン民族の大移動と中世ヨーロッパの始まり

共和政ローマから帝政ローマへの変革

人間に一定の寿命があるように民族や国家にも寿命があり、都市国家(ポリス)から世界帝国へと成長したローマの寿命は、B.C.753年からA.D.476年までの長大な年月に及んでいます。ローマ帝国を起源とする帝政(専制君主政)の寿命で考えれば、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)が、オスマン・トルコ帝国メフメト2世に陥落させられるA.D.1453年までローマの歴史は続きました。ローマの伝説的な歴史神話によると、牝狼と羊飼いに育てられたロムルスレムスという双子の兄弟によって都市国家ローマの歴史は始まります。ロムルスとレムスは、トロイア戦争でギリシア人(アカイア人)に敗れてイタリア半島のアルバ・ロンガに流れ着いたトロイの王族の末裔ですが、二人の間に諍いが起こって弟レムスは兄ロムルスに打倒されます。

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ロムルスはテヴェレ川近くのパラティヌスの丘にローマを建国して初代の王位に就きましたが、その後、都市国家ローマの勢力範囲は『7つの丘』へと拡大しました。建国されて間もないローマでは、終身の王が絶大な権力を握る『王政』によって政治が運営されますが、有力な一族は『貴族(パトリキ)』に任命されて王政を補佐する『元老院』を構成しました。ローマの有力者である名門貴族たちは、元老院に所属する終身の元老院議員に任命されますが、元老院は王に助言・忠告を与える政治的な補佐機関を意味します。王の独裁権力への批判が高まってローマ最後の王、タルクィニウス・スペルブス(傲慢なタルクィニウス)が追放されると、名門貴族の元老院議員が構成する『元老院』は、ローマ市民が参加する『民会』と並び立つ国政の最高議決機関になっていきます。

ローマの黎明期に当たる王政は、B.C.753年のロムルスから始まり、B.C.510年のタルクィニウス・スペルブス(第7代王)まで続きましたが、王政期のローマはイタリア半島内部で勢力を広げる小規模な都市国家に過ぎませんでした。ローマの王政期に主権を掌握した王には、『ロムルス→ヌマ・ポンピリウス→トゥッルス・ホスティリウス→アンクス・マルキウス→タルクィニウス・プリスクス→セルヴィウス・トゥッリウス→タルクィニウス・スペルブス』の7人がいて、セルヴィウス・トゥッリウスはローマの7つの丘を包囲して防衛する『セルヴィウス城壁』を建設したことで知られています。セルヴィウス城壁は、ローマと外界を区切る長大な防御壁であり、その存在は、『ローマ周辺の外界』がまだ十分に安全な地域ではないことを暗黙裡に示していました。

セルヴィウス城壁とは、ローマが未だ広大な領土を持つ『世界帝国』になっていない時代に必要不可欠だった防御壁であり、イタリア中部の『都市国家ローマ』の閉鎖性や排他性の名残でもありました。都市国家から世界帝国へと拡大していくためには、セルヴィウス城壁に守られた『小さな首都ローマ』だけを必死に守るのではなく、帝国の広大な領域全体を『防衛線・国境線(リメス)』で守らなければなりません。ローマの拡大戦略に関して先見の明があった名将ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)は、ガリア戦役でガリア地域の制覇に成功した後にセルヴィウス城壁を破壊して、『閉鎖的(クローズド)な都市国家ローマ』『開明的(オープン)な世界の首都ローマ』へと刷新しました。勢力圏と防衛線を拡大していき世界の首都(カプトゥ・ムンディ)となったローマは、パックス・ロマーナ(ローマの平和)を実現した紀元1~2世紀に最盛期に達します。軍事力と公共心が充実していた盛時のローマ帝国は、地中海世界(西洋世界)の富と権力を集積してゲルマン民族やペルシア民族(ササン朝ペルシア帝国)の侵略からローマを強固に防衛し続けました。

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B.C.753年からB.C.510年まで7人の王による王政が続きましたが、独裁権力を嫌う共和主義者ルキウス・ユニウス・ブルートゥスが最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放して、ローマは共和政ローマへと移行しました。共和政ローマの主権者は、『元老院議員(元老院)』『ローマ市民(ケントゥリア民会)』であり、軍指揮権(インペリウム)を持って文武双方に及ぶ最高位の官職は『コンスル(執政官)』となりました。

王政ローマ期の王のような単独の絶対権力者の出現を抑止するために、コンスル(執政官)の定員は二名とされその任期は一年と定められていました。しかし、共和政ローマの政治体制が機能していた時代には、絶大な権威を持つ元老院によってコンスルの政治的権限はコントロールされており、コンスルが元老院の意向に逆らう政治判断を独断で下すことはまず有り得ませんでした。共和政の初期にはコンスルは全て元老院に所属する貴族(パトリキ)から選出されていましたが、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の階級闘争を緩和するために制定されたリキニウス・セクスティウス法(B.C.367年)によって、コンスルはパトリキとプレブスからそれぞれ一名ずつ選出されるようになりました。

B.C.509年からB.C.27年まで続いた共和政ローマの時代は、小さな『都市国家ローマ』が巨大な『世界国家ローマ』へと拡大していく成長発展期でしたが、B.C.390年には『ケルト人(ガリア人)の襲来』によって首都ローマを侵略されるという屈辱を味わい、あわやローマ滅亡かという危機状態に陥りました。しかし、驚異的な軍事的才覚を持つローマの将軍マルクス・フリウス・カミルスが、ケルト人に襲撃されて散り散りになったローマ軍を再編成して、ローマへと引き返し圧倒的な勝利によってケルト軍を壊滅させました。マルクス・フリウス・カミルスは、『ローマは金(身代金)ではなく剣(軍事力)によって国土を防衛する』という共和政ローマの防衛方針を確立し、ローマ帝国が力を失う斜陽期にさしかかるまでその防衛方針は守られ続けました。B.C.272年には、イタリア半島に最後に残っていたギリシア植民都市タレントゥムを攻略してイタリア半島統一を成し遂げます。半島統一に次いで、地中海の制海権と海上貿易の利権をかけて、当時最強の文明国・軍事国として繁栄を極めていたカルタゴと激突することになります。

地中海の最強国としてローマ以上の勢威と繁栄を誇っていたカルタゴですが、第一次~第三次まで100年以上に及ぶローマとのポエニ戦争(B.C.264-B.C.146)によって、最終的には徹底的に首都カルタゴを破壊されて歴史上からその姿を消すことになります。カルタゴが誇る軍略に優れた名将ハンニバルは、アルプス山脈を越えてローマに迫る斬新な戦略によってローマ市民と元老院を驚嘆させました。しかし、ハンニバル率いるカルタゴ軍は、大スキピオと呼ばれるスキピオ・エミリアヌス(スキピオ・アフリカヌス)ザマの戦い(B.C.202)で敗れてカルタゴは敗退します。大カトーなど軍事強硬派の意見が通って、最終的に、B.C.146年にカルタゴは滅亡します。その結果、共和政ローマは、コルシカ島やサルディニア島といった広大な面積のある島を手に入れ、北アフリカも含めた地中海商業圏を確立してその富と食糧を独占することが出来ました。

世界国家としてのローマがいつ始まったのかには諸説ありますが、実質的には、ポエニ戦争後に納税義務のある『属州』を設定し各属州に総督を置いて『分割統治』するようになった紀元前2世紀頃からローマは国際化(帝国化)し始めました。しかし、ポエニ戦争後には戦争の主力となるローマ軍団兵(重装歩兵)の発言力が増し、ローマ軍団を統率する軍の指揮官(執政官)が元老院や民会を圧倒する権限を持つようになりました。紀元前2世紀から戦争と内乱が繰り返されて『軍閥の指導者』に権力が集まりましたが、B.C.60年には、民衆派のユリウス・カエサルの発案で3人の有力者が政治権力を掌握する三頭政治が敷かれました。寡頭政治体制である『第一次三頭政治(B.C.60-B.C.48)』は、ガリア戦役で功績を上げ平民から圧倒的支持を得ていた「ユリウス・カエサル(民衆派)」、地中海の海賊掃討やシリア属州を獲得するオリエント遠征によってローマ最強の武将と謳われた「ポンペイウス(元老院派)」、経済界(騎士階級)を代表するスッラ派の重鎮「クラッスス」によって確立しました。

クラッススがパルティア戦役に失敗して戦死した後、「帝政」の前駆体制である「元首政」を目指す民衆派のユリウス・カエサルは元老院派のポンペイウスと衝突するようになります。ガリア戦役を成功させたユリウス・カエサルは、元老院の保守派から「ローマへの反逆者(共和政を破壊する独裁者候補)」としての汚名を掛けられたので、ローマ国境線であるルビコン川を越えて軍隊を進軍させました。カエサルは「元老院最終勧告」を受けてローマへの反乱者(賊軍)と見なされましたが、正規軍のポンペイウスをギリシア地域のファルサルスの戦い(B.C.48年)で打ち破ってローマの政治権力を全面的に掌握しました。ローマの政界に君臨した天才的な軍事指導者ユリウス・カエサルは、B.C.44年に終身独裁官(ディクタトール)に就任しますが、元老院の権威失墜と共和政の終焉を懸念した共和主義者のブルートゥスやカッシウスによって議会上であっけなく暗殺されました。

カエサル死後に、カエサル派でカエサルの養子となっていた「オクタヴィアヌス(アウグストゥス)」が有力な武将であった「アントニウス」「レピドゥス」第二次三頭政治を打ち立てます。最終的には、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と結婚して同盟したアントニウスを、オクタヴィアヌスがアクティウムの海戦(B.C.31年)で打ち破って、オクタヴィアヌスが唯一の権力者となります。カエサルから後継者として指名されていたオクタヴィアヌスは、レピドゥスやアントニウスとの三頭政治の権力闘争を実力で勝ち抜き、B.C.29年に「プリンチェプス(市民の第一人者)」の称号を得てローマ市民の代表であることを明確化します。B.C.27年1月16日には、元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」としての称号を得て、ローマの政治の全権を元老院から実質的に委譲される「元首」としてアウグストゥスは君臨することになります。

B.C.509年から続いていた元老院と民会が主権者となる共和政ローマは、アウグストゥスがローマの全権を掌握することに成功したB.C.27年で終わりを迎えます。これ以降は帝政ローマの時代となりますが、アウグストゥスは、形式的に「共和政の統治システム」を尊重しながらも、実質的に皇帝(元首)が「ローマの全軍指揮権(行政の最終決定権)」を持つ「元首政」を実施しました。国家を安定統治する政治的な才覚が突出していたアウグストゥスによって『ローマの平和(パックス・ロマーナ)』の磐石な基盤が構築されたのです。帝政を採用したローマ帝国は、『軍事的な拡大戦略』から『防衛線(ライン川・ドナウ川)を守る防衛戦略(安全保障)』へと対外政策をシフトし、ユリウス・クラウディウス朝が終わって内乱の時代を潜り抜け、紀元1~2世紀の五賢帝の時代に最盛期に達しました。

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ギリシア・ローマ文明の衰微とローマ帝国の斜陽

アテナイやスパルタなど個性豊かな都市国家(ポリス)が織り成すギリシア文明が没落した後に、『ヘレニズム的な多神教・法治主義による秩序維持・高度な社会インフラ・芸術的な石造建築技術・分割統治と同化政策』などを特色とするローマ文明が栄えました。ローマ文明もギリシア神話を起源とする多神教の宗教を持っており、コンスタンティヌス大帝やテオドシウス大帝によってキリスト教がローマ帝国に普及する以前には、ローマ市民の大多数はユピテル(ゼウス)を主神とするローマ化されたオリンポス12神を信仰していました。5世紀末に首都ローマを制圧することになるゲルマン民族は、ローマとのライン川国境にあるシュバイツヴァルト(黒い森)を拠点としていたように、ギリシア・ローマ文明が『人工的な石の文明』であるのに対して『自然的な木の文明』を持っていました。

ユリウス・カエサルが構想した『中央集権的な元首政(帝政)』を実現化したアウグストゥスによって、元老院の権威と民会の影響力が低下し帝政ローマの指揮命令系統は一本化されました。しかし、皇帝が国家権力の全てを掌握する帝政ローマの欠点は、国政を混乱させ国益を損ねる「暗愚・無能・粗暴な皇帝」が出現するリスクを事前に抑止することが難しいことであり、「内戦・内乱」を生む皇帝の後継者争いが激化しやすいことでした。

カエサルとアウグストゥスから始まるユリウス・クラウディウス朝は、実母の小アグリッピーナや哲学者セネカ、妻オクタヴィアを殺害し、キリスト教を弾圧した皇帝ネロ(A.D.37-68)の出現によって断絶します。ネロは、前半生ではローマ帝国の防衛体制を強化する善政を行いましたが、後半生では血縁関係(人間関係)のもつれから次々と近親者や有能な補佐官を殺害する暴政を行い、属州の軍団の反乱を招いて暗殺されました。ネロの死後には短期間の内に4人の属州総督の皇帝が次々と擁立される『四皇帝の時代(A.D.68-69)』へと突入し、ガルバ、オトー、ヴィテリウスの後に皇帝位を継いだ軍人のヴェスパシアヌスがフラヴィウス朝を興してローマの安定的な平和を実現しました。

皇帝ヴェスパシアヌスは、優れた防衛戦略を持つ有能な軍隊の指揮官であり、ヴェスパシアヌスと彼の長男ティトゥスは、一神教のユダヤ教徒が独立を求めて起こしたユダヤ戦争(A.D.66-70)に勝利して、聖地エルサレムを完全にローマの属領とすることに成功しました。一神教徒のユダヤ人には、『領事裁判権・軍役の拒否権・安息日の承認・神殿の財産権』など数々の特権を認めて寛容な統治をしていたローマですが、ユダヤ人の最終目標がユダヤ教の教義に従った『神聖国家(宗教国家)の樹立』である以上、ローマとユダヤとの対立は不可避なものでした。

一神教徒であるユダヤ人はローマに与えられた『部分的な自治』だけではなくて、『完全な自主独立』による神聖国家の確立を求めてユダヤ戦争を起こしたのですが、最終的にティトゥスによってユダヤ人の反乱軍はマサダ要塞で集団自決に追い込まれました。圧倒的な軍事力の投入によってユダヤ戦争に勝利したローマ帝国ですが、『排他的・政教一致的な一神教の特異性』はこの後のローマ帝国にも大きな影響力を与えるようになり、「人間中心主義」のギリシア・ローマの古典文化は「全知全能の神による支配」を説くキリスト教の宗教文化に浸食されていくことになります。

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ヴェスパシアヌスから長男ティトゥスへと続いたフラヴィウス朝の帝政時代も、元老院議員や騎士階級の有力者を恣意的に告発・迫害した暴君ドミティアヌス(ティトゥスの弟)が暗殺されて断絶することになり、ドミティアヌスの公的な業績は記録抹殺刑(Damnatio Memoriae) によって抹消されました。ドミティアヌスの後にローマの平和(パックス・ロマーナ)が絶頂へと向かう『五賢帝の時代』へと入りましたが、攻撃的な積極外交を行ったトラヤヌス(A.D.53-117)の時代にローマ帝国の歴史的領土は最大になりました。ドナウ川北部のダキア(ルーマニア)と小アジア地方のアルメニア王国、メソポタミア地方の一部を属州に加えて、史上最大の版図を手中にしたローマ帝国は、これ以上拡大しようのない「最高の隆盛」へと到達しました。「栄光の絶頂」へと駆け上がったローマ帝国ですが、それは同時にローマ帝国の緩やかな衰退と腐敗の始まりの時代であり、五賢帝の最後マルクス・アウレリウスの子コモドゥスの悪政と奔放によって五賢帝の時代は終焉します。

コモドゥスの後に、ペルティナクスとディディウス・ユリアヌスら五人の皇帝が乱立する混乱の時代を迎えますが、アフリカ出身の突出した実力を持つ軍人セプティミウス・セヴェルス(A.D.146-211)がローマを再統一して皇帝となり、内乱で失われていた政治秩序を回復します。軍人皇帝セプティミウス・セヴェルスの系譜であるローマ帝国のセヴェルス朝では、ローマ軍団の兵士の待遇(給与・退職金)を改善して、パルティアの首都クテシフォンを陥落させるほどの軍事的勢威を誇りましたが、兵士の過度な待遇改善がローマ帝国の財政悪化の原因になりました。セヴェルス朝のカラカラ帝の治世から3世紀の軍人皇帝の時代に掛けて、ローマ人のローマ・アイデンティティは衰退の度合いを深め、ライン川やドナウ川といったローマ帝国の安全保障の要となる防衛線(リメス)の安全も揺らいできますが、祖国防衛の誇りを支えていたローマ・アイデンティティを衰退させる一因となったのが、カラカラ帝のアントニヌス勅令(212)でした。

セプティミウス・セヴェルスの子であるカラカラ帝(A.D.186-217)は、ローマ市民に課せられる「遺産相続税」や「解放奴隷税」の増収とローマ市民から構成される「正規軍の強化」を目的として「アントニヌス勅令(212)」を発布しました。アントニヌス勅令は、それまでローマの国益に貢献した人物に与えられる取得権(特権)であったローマ市民権を、無条件で属州の全ての自由民に与えられる既得権とした勅令です。

アントニヌス勅令は、属州の自由民の努力や功績と無関係にローマ市民権を与えるというヒューマニスティック(人道的)な政策でしたが、誰でも簡単にローマ市民権を手に入れられることでローマ市民権の相対的価値が下落し、生命を賭けて祖国を防衛する「ローマ人としての自負心」も弱まりました。地中海最強と謳われローマ軍団の中枢を担っていた『ローマの重装歩兵のアイデンティティ(自負心に根ざしたローマ防衛の意志)』が拡散したことで、『ローマ軍の質的な低下』が起こりました。その結果、ゲルマン人(蛮族)の侵略に対して帝国の防衛線を支えきれない危機的な事態が増え、戦死するまで戦わずに防衛線の要塞を捨てて逃走する兵士も多くなりました。

『3世紀の危機』と呼ばれる軍人皇帝の時代(235-284)には、ローマ帝国は地方軍閥の指揮官が引き起こすクーデターの連続によって四分五裂の状態に陥り、ライン川やドナウ川の防衛線における国防力は格段に低下してしまいました。軍人皇帝による内乱の時代を勝ち抜いて帝政ローマの秩序を回復したディオクレティアヌス(A.D.245-313)は、ローマ帝国の広大な領域を安定統治するために、4人の皇帝(正帝2人・副帝2人)による専制君主政のテトラルキア(四分割統治)を確立しました。

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ローマ帝国の権力を分割してローマ市民のアイデンティティを磨耗させるテトラルキア(四分割統治)はローマ帝国の衰退と東西分裂を早める結果となりましたが、ディオクレティアヌスの存命中に限れば、専制君主が各属州を分割統治する分権的なテトラルキアは極めて有効に機能しました。イエス・キリストのキリスト教が普及する以前の皇帝であったディオクレティアヌスは、古典的なギリシア由来の多神教に基づくローマ・アイデンティティを守った人物であり、キリスト教的な『神が人間を支配(保護)する価値観』『異教徒との共生を拒否する排他的な世界観』がローマ帝国に浸透することを抑止しました。

ディオクレティアヌスは、イベリア半島からヨーロッパ全域(ガリア・イタリア半島)、北アフリカ、中東地域(小アジア)にまで及ぶ広大無辺な帝国領土を一人の皇帝によって統治する限界に直面しましたが、ローマ帝国の危機的状況を『神の恩寵』ではなく飽くまで『ローマ人の行動』によって解決しようとしました。しかし、一神教のキリスト教を信奉するコンスタンティヌス1世(コンスタンティヌス大帝, 272-337)がテトラルキアの権力闘争に勝利することによって、ローマ帝国は急速にキリスト教国化していきます。

その結果、『人間中心の世俗的なローマ・アイデンティティ』『神に従属するキリシタン・アイデンティティ』へと置き換えられていき、ローマ的な寛容の精神に基づく宥和政策(同化政策)の利点も目立たなくなっていきました。祖国ローマの防衛と発展の責務を担うローマ・アイデンティティは、『ローマ市民権の優越感』『同化政策を可能とする寛容の精神』に支えられていましたが、ローマ市民権はアントニヌス勅令によって無意味化し、異教徒への寛容の精神はキリスト教の隆盛によって抑圧されました。

シビリアン(文官)とミリタリー(武官)を完全に区別した官僚制度を整備して皇帝権力を強化したコンスタンティヌス大帝(在位306-337)ミラノ勅令(313年)によってキリスト教が公認されます。その結果、多神教国であったローマ帝国では急速に一神教のキリスト教信者の数が増えていきますが、この時代にはまだキリスト教は法的に国教化されたわけではなく、ローマの伝統宗教と『対等の地位』に立ったに過ぎませんでした。コンスタンティヌス大帝は、複雑で高度な官僚制度に支えられた専制主義体制を確立して、ビザンティウムをコンスタンティノープルと改名して首都を建設しました。その為、コンスタンティヌス大帝は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の政治経済システムの基盤を確立した皇帝とも言われています。

コンスタンティヌス大帝以降はキリスト教の優遇策は顕著となっていき、地上の帝国であるローマよりも、世界の創造主である神に忠誠心を抱くローマ市民の数が多くなりました。それまで宗教信仰による深刻な対立や派閥の問題を抱え込まずに済んでいた多神教国家のローマですが、キリスト教の急速な拡大発展によって、『異端・異教との共存共栄(同化政策)』を望まない一神教国家に変質しました。自らローマ軍を指揮して国防の責務を果たしたテオドシウス大帝(在位379-395)は、アタナシウス派のキリスト教を国教(380年)としましたが、これによって、ユピテル(ゼウス)を頂点とするギリシア神話の神々に守護されていたローマ帝国は、名実共に三位一体の神を信仰するキリスト教国となったのでした。

「多神教の寛容の精神」と「ローマ市民権の優越」に支えられていたローマ・アイデンティティは「一神教の厳格な信仰」と「排他的な選民意識」に支えられるキリシタン・アイデンティティへと変質しました。7世紀以降にムハンマドのイスラム教が台頭するまでは、中世のヨーロッパ世界全体がキリスト教の文化と信仰で覆われることになったのです。ローマ帝国の斜陽の主要原因は、『ローマの財政悪化・キリスト教の隆盛・中央集権体制の弱体化・ローマ軍の質の低下(ローマ・アイデンティティの崩壊)』でしたが、ローマの財政悪化は蛮族に対処するための「軍事力の強化・兵士の待遇改善」と「戦争による戦利品(奴隷・財産)の減少」によって深刻化していきました。キリスト教の隆盛の背景には、防衛ラインを越えて襲撃してくるゲルマン人の蛮族にローマ人が戦争で勝てなくなったことも影響しており、『神への信仰と祈り』によって脱俗的な安楽と救済を求めた部分もあります。

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ゲルマン民族の大移動と中世ヨーロッパの始まり

史上空前の大帝国を建設したローマ人としてのアイデンティティが薄らぐ中で、ローマ軍団の質は低下しゲルマン民族との戦争に耐えられないほどに軍団の規模が縮小しました。最終的には、テオドシウス大帝の後を継いだ西ローマ皇帝(ホノリウス帝)が帝国の安全保障の責務を放棄したことにより、ローマ市民の皇帝や国家への忠誠心が衰えて、ローマ帝国は自滅的な崩壊のプロセスへと入っていきます。アルカディウス帝に与えられた東ローマ帝国(ビザンツ帝国, 395-1453)のほうは、(市民社会を持つ伝統的ローマとは異質な)オリエント的な専制君主国家として発展し、首都コンスタンティノープルはキリスト教文明圏の中心都市になっていきました。帝国が東西に分裂して以降の西ローマ帝国は、中央集権的な政治秩序を維持することが困難になり、国家防衛の任務を果たすローマ軍団の規模を回復できないまま、ゲルマン民族の侵入と略奪を許して瓦解していきました。

紀元476年、ゲルマン人の傭兵部隊を率いる傭兵隊長オドアケル(434頃-493)が、ローマ皇帝の拠点であるラヴェンナに無血入城しました。軍事力で威圧する傭兵隊長オドアケルが、最後のローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス(ロムルス・アウグストゥス, 460-511頃)を追放したことで、西ローマ帝国はあっけなく滅亡したのです。西ローマ帝国が滅亡する以前の4世紀頃から、食糧と居住地を求めてローマ領内にゲルマン人が侵入してくる『ゲルマン人の大移動』が起きていましたが、ゲルマン人の大移動の原因になったのは「最強の蛮族」と恐怖されたアッティラ大王率いるフン族(アジア系の蛮族)でした。西ローマ帝国滅亡後には、ゲルマン諸部族(西ゴート族・東ゴート族・ヴァンダル族・アングロ族・サクソン族・ランゴバルド族など)によって、ローマ帝国領内に次々に独立した王国が建設されていきました。

西ローマ帝国が存続していた時代にも、イタリア半島本土はアラリック率いる西ゴート族による「ローマ劫掠(410)」ゲンセリック率いるヴァンダル族「ローマ劫掠(455)」を受けましたが、オドアケルが東ゴート族のテオドリック大王(454頃-526)に敗れると、首都ローマは東ゴート王国(493-555)の一部に組み込まれました。ゲルマン人の東ゴート王国は、ローマ人の政治経済システムや伝統文化・慣習をそのまま踏襲して親ローマ的な善政を行いましたが、ローマ回復を目指した東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のユスティニアヌス帝(483-565)の命令を受けたヴェリサリウス(505-565)によって555年に滅ぼされました。

ゲンセリック率いるヴァンダル族もローマ本土を劫掠した後に、エジプトを含む北アフリカへと渡ってヴァンダル王国(429-534)を建設していました。しかし、ヴァンダル王国の繁栄は軍事政略と内政統治に優れたゲンセリックにその多くを負っていたので、ゲンセリックの死後にヴァンダル王国は急速に衰退し、534年に東ローマ帝国のユスティニアヌスによって滅ぼされました。東ローマ帝国皇帝として滅亡した西ローマ帝国の旧領土を多く回復したユスティニアヌス大帝は、古代ローマ法を収集編纂した『ローマ法大全』を作成し、絢爛豪華を誇る『ハギア・ソフィア大聖堂』を再建したことでも知られます。

西ローマ軍とローマに雇われたフン族によってライン川周辺の居住地を負われたブルグンド族は、スイスのジュネーヴ付近にブルグンド王国(443-534)を建国して、西ローマ帝国滅亡後(476)にはガリア南部にまで勢力圏(ブルゴーニュ地方)を拡大しましたが、強大化したフランク王国との闘争に敗れて滅亡しました。現在のイギリスに当たるブリタニア属州をローマ帝国は5世紀初頭に放棄しましたが、ブリタニアにはアングロ=サクソン族(海軍力に優れたゲルマン部族)が侵入して、原住民のガリア人を討伐し幾つかの小王国(七王国時代)を建設しました。最も野蛮で文明生活から遠いと言われていたランゴバルド族(ロンバルド族)は、イタリアを支配した東ゴート王国が滅亡した後(555)に、イタリア半島へと移動してランゴバルド王国(ロンバルド王国, 568-774)を建設しましたが、ヨーロッパ主要部を統一するカール大帝フランク王国との戦いに敗れて滅亡しました。

西ローマ帝国以後にヨーロッパの広範な地域を覆う政治権力を初めて確立したのが、フランク王国のカール大帝(カール1世, シャルルマーニュ, 742-814, 位768-814)です。カロリング朝のカール大帝(カール1世)は、軍事力の強化によって西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中南部に及ぶ巨大なフランク王国を建設しただけでなく、文化・芸術・教育の普及振興にも力を入れて『カロリング・ルネッサンス』という文化復興の潮流を巻き起こしました。自身がアタナシウス派の信仰者であることもあり、ローマ・カトリックからの信認も厚かったカール大帝は、西暦800年にローマ教皇レオ3世から西ローマ帝国皇帝の帝冠を受けます。これが歴史上有名な『カールの戴冠』ですが、カール大帝の皇帝位を東ローマ帝国が公認したことにより、『象徴的な意味の西ローマ帝国』が復活することになりました。

ゲルマン民族(フランク人)の王が西ローマ帝国の正式な皇帝となったことから、カールから始まるローマ帝国をローマ人が建国した『本来の歴史的なローマ帝国』と区別してフランク・ローマ帝国と呼ぶことがあります。『カールの戴冠』は、フランク王国(フランク・ローマ帝国)とローマ・カトリックが支配する「西ヨーロッパ世界」を、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とギリシア正教会が支配する「オリエント世界」から切り離す歴史的な出来事でした。西ヨーロッパ世界の再編を象徴する『カールの戴冠』によって、ギリシア・ローマの古典古代の終焉が明確化され、古典古代とは異なる政治秩序と宗教権威が機能する『中世ヨーロッパの時代』が幕を開けたのです。

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