細川政権の崩壊と三好長慶の台頭:京都の政治風景の変化

細川政元政権の崩壊と細川管領家の家督争い
細川氏の家臣・三好長慶による実力主義の政権掌握

細川政元政権の崩壊と細川管領家の家督争い

『斉藤道三と北条早雲』の項目では、地方の独立勢力としての戦国武将の登場について書きましたが、京都では応仁の乱後の1489年に9代将軍・足利義尚(よしひさ, 1465-1489)が死去し、義尚と将軍位を争った足利義視(よしみ, 1439-1491)が復権します。9代将軍・足利義尚は、幕府の威令を無視して寺社勢力を支配しようとした近江の六角高頼(ろっかくたかより)を征伐する途中で死去しました(六角征伐は1487年,1491年の二回)。

義視は兄夫婦(足利義政・日野富子)と関係を修復して、子の足利義材(よしき, 1466-1523)を10代将軍に就任させますが、義政死後に日野富子と反りが合わずに富子と連帯した管領・細川政元(まさもと, 1466-1507)との対立色を強めていきます。10代将軍の足利義材は、明応7年(1498年)に義尹(よしただ)と改名し、永正10年(1513年)に義稙(よしたね)と改名していますので、最後の名である足利義稙と呼ばれることも多くなっています。

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10代将軍・足利義材(足利義稙)は、幕府のある京都から離れて諸国を流浪した『不遇の将軍』としても知られますが、畠山政長(まさなが, 1442-1493)の支持を受けていた足利義材は日野富子・足利政元と折り合いが合わず、京都における将軍の権力基盤は非常に不安定な状況でした。畠山政長は畠山義就(よしなり, 1437-1491)と家督相続争いで戦って、応仁の乱や山城国一揆を引き起こした人物ですが、家督争いに敗れた義就が実力統治で河内国の守護になってからも対立は続いていました。

義就の死後には子の畠山義豊(よしとよ, 生年不詳-1499)が河内守護になりますが、1493年に将軍・足利義材と畠山政長が連合して畠山義豊に追討の軍勢を差し向けます。しかし、この河内遠征の途中に義材と対立していた細川政元と日野富子が京都で『明応の政変(1493年)』の政治クーデターを起こし、足利義材は京都から追放されることになります。この明応の政変による混乱で、細川政元に敗れた畠山政長は自刃することになりますが、政長の子の畠山尚順(ひさよし, 1475-1522)は1499年の戦いで義豊を敗死させることに成功します。義豊の死後も、畠山尚順と義豊の子の畠山義英(よしひで, 生年不詳-1522)との争いは続きますが1504年に和睦に至ります。

管領・細川政元(1466-1507)と日野富子が明応の政変によって10代将軍・義材に代えて擁立したのは、堀越公方・足利政知(まさとも, 1435-1491)の子の11代将軍・足利義澄(よしずみ, 1481-1511)でした。義澄は香厳院清晃(こうごんいん・せいこう)という法名を持っていた人物であり、政元は義材が将軍になる前から義澄(清晃)のことを将軍に強く推薦していました。

京都の室町幕府から追放された10代将軍・足利義材ははじめ京都竜安寺に幽閉されますが、西国で広大な版図と強い軍事力を誇る大名の大内義興(おおうちよしおき, 1477-1529)を頼って越中・近江・周防(大内氏の拠点・山口県)へと落ち延びていきました。11代・義澄を擁立した管領の細川政元は室町幕府の政権を奪取しますが、政元の政権基盤は『有力な国人層の寄せ集め』であり不安定なものでした。

細川政元は、赤沢朝経(あかさわともつね)・薬師寺元一(やくしじもとかず)・香西元長(こうざいもとなが)といった畿内の国人を各国の守護代に任命することでとりあえずの忠誠を勝ち取りますが、京都周辺の畿内には政元の権威に服従しない守護や国人勢力も数多く存在していました。また、政元は『女性嫌い』と『修験道・山伏信仰好み(超能力や神秘主義の愛好者)』の管領としても有名であり、女性を側近くに寄せ付けなかったために実子が生まれず、三人の養子を守護や公家から迎えていました。

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京都を支配した管領細川政元は細川京兆家(けいちょうけ)の最盛期を築いた人物ですが、女性嫌いで『三人の養子(澄之・澄元・高国)』をとったために、家督相続争いの原因が生まれてしまいました。政元は家督相続を条件にして、1502年に京都・九条家の九条政基から細川澄之(すみゆき, 1489-1507)を養子にし、更に1503年には阿波・細川家の細川義春からも後継者にするとして細川澄元(すみもと, 1489-1520)を養子に取ります。

細川澄元を後継者に決めて細川澄之を廃嫡したために、澄之派と澄元派との対立が激しくなっていき、その内部抗争の中で細川政元は突然暗殺の悲運に見舞われて生涯を終えることになります。細川政元はその政権末期に、1504年に摂津守護代・薬師寺元一の謀反を制圧し、1506年に河内の畠山義英の討伐に成功して大和国の寺社勢力も制服するなどその権力基盤を固めます。

没年となる1507年には紀伊・丹後を攻略して、丹波の抵抗勢力であった一色義有(いっしきよしあり)を養子の澄元・澄之に命令して攻めさせるなど細川政権の勢威を見せ付けました。しかし、細川京兆家の権勢が順調に拡大していた永正4年(1507年)6月23日、澄元の家督相続に反対する澄之派の国人である竹田孫七(たけだまごしち)・香西元長(こうざいもとなが)・薬師寺長忠(やくしじながただ)によって、湯殿で行水をしていたところを襲撃されて暗殺されました。

この細川政元の暗殺事件のことを『永正の錯乱(えいしょうのさくらん,1507年)』と呼びますが、政元の死後には細川京兆家の内乱は激しさを増していき、細川晴元以後には阿波・細川氏の家臣(家宰)であった三好氏(三好之長・元長・長慶)が勢力を強めてきます。澄之派と澄元派との対立とは、『澄之を支持する京都畿内の国人勢力』と『澄元を支持する阿波の国人勢力』との対立でしたが、政元の死後には香西元長・薬師寺長忠に擁立された細川澄之が家督を継ぎます。

細川澄元と家臣の三好之長(みよしゆきなが, 1458-1520)は一時的に近江に敗走しますが、その後体勢を立て直した澄元・之長は、近江甲賀群の国人層の協力を得て8月1日に京都を実力で奪還しました。この京都での戦いによって永正の錯乱で管領権力を確立した細川澄之・香西元長・薬師寺長忠は敗死することになり、澄之政権はわずか40日で崩壊の憂き目を見ることとなりました。細川澄元が細川京兆家の家督を相続して管領に就任することになり、その家宰の三好之長も京都において大きな影響力を持つことになりますが、ここで澄元のライバルとして同じ政元の養子であった細川高国が登場してきます。

細川高国(たかくに, 1484-1531)は備中守護の細川政春(まさはる)の子であり細川政元の養子となりましたが、高国は11代足利義澄を奉じた細川澄元の命令を無視して、1507年に前将軍の足利義稙(義材・義尹)を担いで澄元に対抗して上洛しようとします。永正5年(1508年)4月に、細川高国は摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らを味方にして京都に侵攻し、将軍・足利義澄、管領・細川澄元、三好之長を京都から近江へと追い落としました。

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政元に京都を追われた足利義稙は周防の大内義興を頼って周防に身を寄せていましたが、京都の不安定な政情に将軍返り咲きのチャンスを見出します。1508年4月に細川高国が京都を制圧すると、1508年6月に足利義稙は京都に帰還して再び征夷大将軍に就任しました。足利義稙(義尹)は将軍復位に大きな貢献をした大内義興を左京大夫・山城国守護に任命し、京都を制圧して義稙を迎え入れた細川高国に細川京兆家の家督を継がせて右京大夫・管領に任命しました。ここでは、便宜上、足利義稙(よしたね)という表記を優先的に用いていますが、1498年から1513年までは『義尹(よしただ)』という名前を名乗っていました。

足利義稙が将軍に復位しても義澄派(細川澄元・三好之長)との抗争は続きますが、永正8年(1511年)8月14日に義澄が死去します。その後、すぐに義稙派(大内義興・細川高国)と義澄派(細川澄元・細川政賢)の最終決戦となる船岡山合戦(ふなおかやまがっせん, 1511年8月)が行われ、その戦いに勝利した足利義稙の将軍位が確定しました。足利義稙の幕政を支える軍事力の中心は大内義興が担っていましたが、義興の領国で山陰の尼子経久(あまこつねひさ, 1458-1541)が侵攻の勢いを強めてきたため、1518年8月に堺にいた義興は周防へと帰国しました。

強大な武力で足利義稙・細川高国を支えていた大内義興が京都からいなくなると、細川澄元・三好之長が政権回復のために摂津へと侵攻してきます。1520年1月には、山城国土一揆と連携した澄元・之長が京都に進軍してきますが、将軍の足利義稙は細川高国を見離して澄元に味方したため、高国は近江坂本に落ちました。しかし1520年5月に、すぐさま大軍を集結させた細川高国は京都に侵攻して、細川澄元・三好之長らの軍勢を打倒し、三好之長を自害に追い込みました。澄元のほうは摂津伊丹城に敗走し、澄元政権はわずか4ヶ月で崩壊します。永正17年(1520年)6月10日に、澄元は阿波の勝瑞城(しょうずいじょう)で死去します。

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細川氏の家臣・三好長慶による実力主義の政権掌握

上記した一連の細川澄元と高国の内乱のことを『両細川の乱』と呼ぶこともあります。澄元の後に京都の室町幕府を掌握した細川高国は、将軍・義稙との対立を深めていきますが、高国の傀儡になることを嫌った義稙は1521年に淡路に出奔します。大永3年(1523年)4月9日に、10代将軍足利義稙は阿波撫養(現在の鳴門市)で死去しました。細川高国(1484-1531)は義稙の後に、11代義澄の長男である12代将軍・足利義晴(よしはる, 1511-1550)を擁立して政権を固めようとします。

高国は大永4年(1525年)4月21日に剃髪して道永となり、家督・管領職を実子の細川稙国(たねくに)に譲って隠居しますが、12月に稙国が逝去したため管領・家督者として復帰することになります。細川高国政権の崩壊は、1526年7月に丹波守護・細川尹賢(ただかた)の讒言によって香西元盛を謀殺したことから始まりました。香西元盛の謀殺を知った兄・波多野稙通と柳本賢治らが、細川晴元(澄元の子)と三好元長(之長の嫡孫)と同盟を組んで丹波で反高国の挙兵をします。1527年2月の桂川の戦いで柳本賢治や三好元長らに京都で敗れた高国は、将軍の義晴と共に近江坂本へと落ちました。

細川高国は桂川の戦いの後に各地の守護を頼って転々としますが、1530年に京都を拠点とする柳本賢治(やなぎもとかたはる)が播磨出陣中に暗殺されると、浦上村宗と連携して京都に進軍します。1531年、高国は晴元の重臣・三好元長に摂津の中嶋の戦い(大物崩れ)で敗れ尼崎に逃げますが、捕縛されて広徳寺で自害に追い込まれました。12代将軍・足利義晴は、細川晴元・三好元長が擁立した堺公方の足利義維(よしつな, 1509-1573・義晴の弟)と対立します。1532年に三好元長が細川晴元との内部対立によって殺害されると、足利義晴は1534年に六角定頼・六角義賢父子の仲介を受けて細川晴元と和解し京都へと帰ります。

細川高国政権の崩壊後に、京都で絶大な権力を構築したのは澄元の子・細川晴元(はるもと, 1514-1563)とその重臣の三好元長(もとなが, 1501-1532)でしたが、細川氏と三好氏の内乱の第一回戦は細川氏(晴元)の勝利に終わりました。三好元長は之長の子か長秀(之長の子)の子かはっきりしないところがあります。細川晴元は京都における三好氏の影響力拡大を恐れて、本願寺光教(証如)に働きかけ一向一揆を元長にけしかけて自害に追い込みました。

三好元長は非業の死を遂げましたが、元長の子で軍事的計略に恵まれた『三好長慶(みよしながよし)・三好義賢(みよしよしかた)・十河一存(そごうかずまさ)・安宅冬康(あたかふゆやす)』らは細川氏を圧倒する強大な権力を持つようになり、室町幕府の本拠である京都でも、将軍・管領の権力を家臣が上回るという『下剋上の気運』が生まれてきました。細川晴元と三好元長に擁立された足利義維(よしつな)は『堺公方(さかいくぼう)』と呼ばれていましたが正式な征夷大将軍ではなく、晴元もまた正式の管領ではありませんでした。

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細川晴元が実質的な最高権力者となる軍事政権を京都に築きましたが、政権の行政機構(統治システム)と文書発給の方式は既存の室町幕府の方針を継承していました。細川晴元政権では、室町幕府の官僚機構で足利義維に直属する『奉行人』によって実務が行われましたが、管領代・茨木長隆(いばらぎながたか)、山城守護代・三好元長、山城郡代・塩田胤光(しおたたねみつ)が京都における実権を握っていました。

晴元が一向一揆を利用して三好元長を謀殺すると、元長に擁護されていた足利義維と元長の子の三好長慶(千熊丸)は阿波に落ちていきましたが、晴元はこの後に一向一揆の鎮圧に非常に苦労することになります。この時の公式の将軍は12代将軍・足利義晴のままですが、1546年に義晴は晴元と対立して江口の戦いで敗れ近江坂本へと逃走します。この敗走の後、義晴は近江坂本で嫡男の13代将軍・足利義輝(よしてる, 1536-1565)に将軍職を譲り幼少の義輝の後見人を務めることになります。

細川晴元が三好元長打倒のために煽動した一向一揆ですが、晴元は京都に侵入しようとする一向一揆の猛攻を制御することが不可能になり、法華宗の門徒・町衆に援軍を要請します。この一向宗弾圧政策によって京都で一向一揆と法華一揆とが激しく衝突する状況が生まれ、1532年9月23日に、足利義晴・近江守護の六角定頼(さだより)・法華宗徒が一向一揆の総本山だった山科本願寺(京都)を焼き討ちします。

『四、五代に及び富貴、栄華を誇る。寺中は広大無辺、荘厳ただ仏の国の如しと云々、在家また洛中に異ならざるなり、居住の者おのおの富貴、よつて家々随分の美麗を嗜む』と言われ浄土真宗の信仰と軍事の拠点になっていた山科本願寺の大伽藍と寺内町が焼け落ちました。山科本願寺は浄土真宗の教徒と影響力を一挙に拡大した本願寺8世の蓮如(れんにょ, )が築城したものですが、山科本願寺が焼失したので浄土真宗の信仰拠点は石山本願寺に移りました。1533年に一時期、細川晴元は堺を一向一揆に攻撃されて淡路に落ちますが、その後、法華一揆を煽動する河内守護・木沢長政(きざわながまさ, 1493-1542)の助けを受けて摂津・池田城に入ります。

木沢長政は畠山氏の重臣でしたが、主君の畠山稙長(たねなが)を紀伊に追放して独立的な守護勢力へと成長しました。将軍の足利義晴も京都に戻りますが、1535年には青蓮院尊鎮(そんちん)親王の仲介で細川晴元と証如(浄土真宗門主)が和解します。

京都で法華一揆の町衆の自治組織的な影響力と地子銭(税金)の不払い運動などが強まってくると、晴元と比叡山延暦寺(山門)・六角定頼が法華一揆の宗徒の追放と焼き討ちに取り掛かり、1536年末には京都から法華一揆の自治的支配を完全に排除しました。1532年の山科本願寺焼き討ちから1536年の法華一揆の京都追放にまで至る一連の宗教戦争・京都の政治紛争のことを『天文法華の乱』と呼びます。1536年9月24日に、細川晴元は将軍・足利義晴を擁して京都に帰還し再び実権を取り戻しますが、1542年には、山城守護代・河内守護を務める木沢長政と対立して家臣の三好長慶を討伐に向かわせ『太平寺(たいへいじ)の戦い』で長政を滅ぼします。

1543年に、細川高国の養子・細川氏綱(うじつな, 1514-1564)が畠山政国・遊佐長教らと共に晴元を打倒するために挙兵しますが、将軍・足利義晴は氏綱のほうを支持しました。1548年に、重臣の三好長慶(みよしながよし, 1522-1564)が晴元から独立するために反旗を翻し、1549年6月24日に長慶は晴元軍の有力国人・三好政長を打ち破って京都の政権を掌握します。晴元は13代将軍・足利義輝と共に近江坂本に落ちていき、三好氏と細川氏の主従関係の逆転が起こりますが、三好長慶は細川氏綱を担いで政権回復を企てる晴元と戦いを続けます。

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1553年に、長慶は晴元が築いた霊山城を陥落させて京都の全域を支配することに成功しますが、三好長慶の政権は征夷大将軍を擁立しておらず、長慶自身も管領になっていないという意味で『実力主義的な軍事政権』としての色彩を強く持っていました。細川氏綱という管領を擁していましたが、何の権限も威厳も持たない長慶の傀儡に過ぎませんでした。

京都の検断権(警察権)・裁判権・徴税権を握った三好長慶は山城・摂津・丹後を直接統治して、弟の三好義賢(みよしよしかた, 1527-1562)安宅冬康(あたぎふゆやす, 1528-1564)十河一存(そごうかずまさ, 1532-1561)に重要な政治拠点を守らせました。三好義賢は阿波国守護・細川持隆(もちたか)の家臣でしたが、四国地方の政略・軍事を担当して1553年に主君の細川持隆を見性寺で殺害し、四国全域を勢力圏に組み込みました。

しかし、1560年に長慶と一緒に戦って畠山高政(たかまさ)や安見直政(やすみなおまさ)を打ち破り河内守護になった後に、三好義賢は鉄砲部隊を持つ根来衆と連合した畠山高政の反撃を受けて戦死します(1562年の和泉久米田の戦い)。1561年に細川晴元と兄の三好長慶との和睦を仲介したのも三好義賢でしたが、その後、晴元は摂津富田の普門寺へ出家しました。

武力に秀でていた十河一存はその軍功によって和泉国・岸和田城主に任命されますが、1561年3月18日に、長慶の重臣・松永久秀と共に有馬温泉で湯治をしているときに原因不明の急死を遂げました(謀略家である松永久秀の暗殺説もあります)。安宅冬康は嫡男の三好義興(よしおき, 1542-1563)を失って気落ちする三好長慶を最後まで誠実に補佐した忠実な弟でしたが、松永久秀の『冬康が謀反を企んでいる』という讒言によって1564年5月9日に兄・長慶の命令で飯盛山城で自害させられました。

忠誠心の強い有能で賢明な弟たちを全て失い、才能豊かな嫡子であった義興も失った三好長慶は、以前の燃え盛るような野心と鋭気を保てなくなり、うつ病のような前後不覚の心身喪失状態に陥りそのまま死去します。温厚で英明な弟・安宅冬康を松永久秀の讒謗で自害に追いやった同年1564年7月4日、完全に気力と体力を喪失した三好長慶はひっそりと飯盛山城で生涯の幕を下ろしました。室町幕府の実権を力勝負で細川氏(晴元)から簒奪した三好長慶にしては余りにも寂しく無力な死に際でしたが、長慶の後に京都周辺の権力基盤を継承したのは謀略自在の梟雄として知られる松永久秀(松永弾正久秀, 1510-1577)三好三人衆でした。

『足利将軍家→細川管領家→三好氏→松永久秀』と京都・室町幕府の政治権力は移っていきますが、日本各地では戦国大名による領国支配と軍事経略が急速に進んでおり、京都上洛を虎視眈々と狙う風雲児・織田信長の覇道政治の疾風が吹き荒れる時が近づいていました。

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