アジア・太平洋戦争の拡大と進展

日本軍の『南方作戦』と東南アジア・西太平洋の占領


ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦い

日本軍の『南方作戦』と東南アジア・西太平洋の占領

『真珠湾攻撃と日系アメリカ人』の項目では、日本軍の連合艦隊が真珠湾を奇襲攻撃してアメリカの太平洋艦隊に大きな打撃を与えた事を説明しましたが、アメリカやイギリスの連合国軍と戦った“アジア太平洋戦争”は『マレー作戦』『ハワイ作戦(真珠湾攻撃)』の両面作戦によって始まりました。厳密には、『ハワイ作戦』の1時間ほど前に、イギリス領のシンガポール攻略を目指す『マレー作戦』が開始されており、陸軍第25軍の先遣隊がマレー半島北部のコタバルとタイ南部のシンゴラに奇襲上陸しました。日本がイギリス東洋艦隊の最新鋭艦であったプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを航空機攻撃で撃沈して、日本陸軍がマレー最南端のジョホールバルまでの1100キロの道のりを快進撃で進軍したこと(1月31日)は前回の記事で説明しましたが、1942年2月15日にシンガポール占領に成功して『昭南島』と名づけました。

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アメリカ領のフィリピンに対しては陸海軍の航空隊を先制攻撃に集中させて、わずか1日でアメリカの航空兵力を壊滅に追いやり、1942年1月2日に首都マニラを占領しました。しかしアメリカ軍はマニラ湾にあった堅牢なコレヒドール島要塞に立てこもる戦術を採用したので、日本軍が要塞化されたコレヒドール島を制圧するには5月まで時間がかかりました。日本軍の南進の最大の目的は、蘭印(オランダ領東インド=インドネシア)にまで侵攻して、オランダを屈服させ石油資源を確保することにありましたが、1942年1月11日から攻撃を開始して、3月9日に守備部隊のオランダ軍を降伏させました。

ビルマ戦線では1942年5月1日にビルマ北部のマンダレーを占領、太平洋戦線においても1941年12月にグアム島やウェーク島、ビスマーク諸島のラバウルを占領することに成功します。東南アジアや太平洋島嶼部に進出して『大東亜共栄圏』を構築するという日本の『南方作戦』は電光石火の進軍で成功を収め、開戦からわずか半年で“東南アジア全域から西太平洋まで”の広大な地域を日本の占領下に置きました。

日本軍は対アメリカ・イギリスの緒戦では連戦連勝を重ねて、真珠湾攻撃から僅か半年で東南アジアから西太平洋までの広大な領域を支配下に収めましたが、この時期は『奇襲で米軍太平洋艦隊を壊滅したこと・アメリカと西欧列強がナチスドイツと集中的に戦っていたこと(ヨーロッパ第一主義)・イギリスの植民地軍が多民族軍で士気が低かったこと』などが日本軍に有利に働いてくれました。特に、大英帝国が植民地主義の結果として、自国軍に取り込んでいたインド軍の士気はかなり低く、イギリスからインドを独立させたいという民族自決の気運や自意識を高めていたため、イギリス(国・女王)のために命を賭けて戦おうとする兵士の比率が低かったのです。

緒戦で連勝して自信を強めた日本軍でしたが、日米戦争の最大の難題は『生産力・資源量・意欲』に圧倒的な差があるという事であり、アメリカのGNP(国民総生産)は日本の11.8倍もあり、粗鋼生産は12.1倍、航空機生産は5.2倍、商船建造で5.0倍、軍事予算は2.1倍もの規模がありました。そして、日本が『ABCD包囲網』による石油の禁輸措置で対米戦争を決断して、蘭印の石油資源を狙ったように、石油の産出量に関しては何とアメリカは日本の527.9倍もの量があり、初めから国力・経済力に余りにも大きな差がありました。日本は蘭印(オランダ領東インド)を占領して石油資源の確保をしてから、2~3年の短期決戦でアメリカを降伏させるという大きな目的を掲げていて、太平洋戦争の緒戦と前半では快進撃も見せたのですが、アメリカが新艦隊を送り込んできて『真珠湾攻撃による海軍の足止め効果』がなくなってくると、『兵器・資源・食糧・人員の不足』によって戦況は悪化の一途を辿っていきます。

西太平洋地域を占領下に収めた日本軍は、アメリカと連合国軍の支援国であるオーストラリアを結ぶ海上輸送路を断ち切る作戦を立てて、ニューギニアのポートモレスビー攻略を至上命題として、フィジー、サモア、ニューカレドニア諸島の占領計画を実施に移していきます。南太平洋の島嶼部を占領した日本は、アメリカのハワイ防衛拠点である『ミッドウェー諸島』に次の軍事目標を定めて準備を進めていきますが、海戦で勝利することを見込んでミッドウェー島を『水無月島』に改名して領土化することを1942年4月頃から計画していました。

しかし、1942年(昭和17年)4月19日には、アメリカ軍が初めて日本本土に空襲を仕掛けてくることになり、空母ホーネットから飛来したドゥリットル中佐(ドーリットル中佐)率いるB2516機が、東京・横須賀・名古屋・神戸に散発的な空襲を行いました。米軍による初めての空中からの攻撃で、日本側には死者50人、負傷者400人以上が出ましたが、米軍は一機も損失を出さずに中国にある米軍基地へと帰還していきました。1943年(昭和18年)以降は一般国民が『空襲警報』に脅え『防空壕』に駆け込む日々が少しずつ増えていきます。

1942年6月5日、日本軍がアメリカ軍のハワイ防衛の重要拠点であるミッドウェー島に攻撃を仕掛けた『ミッドウェー海戦』は、結果として日本軍の敗北となり、この戦い以降は日本は『西太平洋における制海権・制空権』を喪失して、戦争続行に耐える海軍兵力に非常に大きな損失を蒙ることになりました。

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ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦い

アメリカの西太平洋の重要拠点(ハワイの防衛拠点)である環礁帯のミッドウェー島を巡って、1942年(昭和17年)6月5日に日本とアメリカの間で『ミッドウェー海戦』が勃発します。日本海軍の指揮官は山本五十六大将、南雲忠一(なぐもちゅういち)中将、近藤信竹中将、米海軍の指揮官はF・J・フレッチャー少将、R・A・スプルーアンス少将であり、日本は海軍の主要戦力のほぼ全て(空母6機)を投入した非常に戦略的な重要性の高い海戦でした。積極的な攻勢を続けることによってアメリカ軍に対抗しようとする戦略意識を持っていた山本五十六大将が『ミッドウェー作戦』を指揮しますが、その目的はアメリカの太平洋地域の最重要拠点であるハワイを占領して打撃を与え、米海軍・米国民の士気を一気に喪失させることにありました。

山本五十六ら海軍幕僚の立てた6月決行の『ミッドウェー作戦』は、ハワイ攻略を最終的な目的に据えながらも、喫緊の目標をミッドウェー島海域における『米軍空母の捕捉殲滅』においており、まずは米軍空母の主要戦力を誘い出して叩き潰し、ミッドウェー島を軍事拠点にして10月までに一挙にハワイ島を占拠することを目指していました。海軍の『ミッドウェー作戦』に対して、軍令部は日本の国力では『ハワイ諸島の攻略・維持は不可能である』という理由で反対しており、ハワイ諸島周辺よりもインド洋方面に海軍兵力を差し向けて(対アメリカよりも勝利の可能性が高い)イギリスの領土をより多く奪い取ることに専念すべきとの考えを示しました。しかし最終的には、『FS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略作戦)』に修正を加えて、連合艦隊のミッドウェー作戦を採用することが4月5日に内定して、永野修身軍令部総長が認可を与えました。

しかし、ハワイ防衛に当たるニミッツ大将のアメリカ軍は、主力部隊をミッドウェーに集中させるという十分な防衛体制を取って日本軍を待ち構えており、日本が『事前に予測していた米軍兵力』を遥かに上回る陣容(海兵隊3000人・戦闘機120機)を見せていました。航空母艦(空母)もアメリカ軍は2機しか出動させられないと予測していたのですが、実際にはポートモレスビーの戦いで大きく損壊した『ヨークタウン』を大急ぎで修理整備して、『エンタープライズ』『ホーネット』『ヨークタウン』という3隻の空母を出動させてきました。『ミッドウェー海戦』では総兵力で上回る日本は必死の攻撃と反撃を繰り返しますが、米軍の爆撃機を中心とする強力な航空兵力に翻弄される形となり、壊滅的な被害を受けて敗北してしまいます。

ミッドウェー海戦は空母6隻を出した連合艦隊の総戦力であれば、勝利していなければおかしい戦いでもあったのですが、『日本海軍の用兵・戦術の拙劣さ(戦局の変化に機敏に対応できなかった問題)』によって、結局、『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』の主力空母4隻を失う悲惨な結果になってしまいました。アメリカ側は空母の『ヨークタウン』と駆逐艦の『ハンマン』、約150機の航空戦力を喪失する被害を受けましたが、日本軍の連合艦隊の主力に大きなダメージを与える戦果を得て、ミッドウェー海戦以降の太平洋上の制海権を握ることに成功します。このミッドウェー海戦の敗北によって、日米の海軍戦力・航空戦力に非常に大きな差が生まれてアメリカ優位となります。そして、日本軍が戦略的攻勢から守勢へと回ってしまったので、このミッドウェー海戦はガダルカナル島の戦いと合わせて『太平洋戦争の転換点』として捉えられています。

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アメリカ軍の補給基地であったオーストラリアとの海上交通路を遮断するための重要拠点がソロモン諸島のガダルカナル島であり、日本はガダルカナル島をポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)の軍事拠点にするため、1942年6月から飛行場建設が進められました。しかし、米軍はガダルカナル島を奪還する『ウォッチタワー作戦』を策定しており、7月4日からガダルカナル島への偵察と空からの爆撃が激しくなってきます。8月7日午前4時に、海兵隊第1海兵師団の約1万人(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)が、オーストラリア軍の支援を受けながらガダルカナル島に上陸して、ガダルカナル島を防衛しようとする日本軍との激烈な戦闘が開始されるが、米豪遮断のための重要拠点であるガダルカナル島を巡る戦いは『ソロモン海戦』を交えながら長期化していく。日本軍は半年間もの間、抵抗を続けて防戦に努めていたが、海軍の航空兵力を全て喪失し22,493人という膨大な戦死者を出して、1943年2月にガダルカナル島からの撤退を余儀なくされました。

1942年8月~1943年2月にかけての『ガダルカナル島の戦い』では、航空兵力と海軍力を減少させていく中で、連合国軍から制海権・制空権を奪われて食糧・弾薬の現地への補給が不可能となり、多数の餓死者を出すという悲惨な状態にも陥りました。太平洋島嶼部での戦いや東南アジアのビルマからインドに向かうインパール作戦などでは、銃弾・爆撃に倒れた戦死者よりも、『補給路(兵站のロジスティクス)』が切断されて食糧が無くて飢え死にした餓死者が多い実態が明らかにされています。

ヨーロッパ戦線でも三国同盟を結んでいたナチスドイツが、1943年2月の独ソ戦(1941年~)の『スターリングラード攻防戦』で社会主義の計画経済(規格化された軍需品の集産的な大量生産)やロシアナショナリズムで国力を回復させたソ連に初めての敗北を喫して、ナチスドイツの第三帝国建設の野望に暗雲が立ち込めてきます。ナチスドイツの攻勢と軍事的有利が弱まってきた事で、アメリカはイギリス・フランスなど連合国を支援する『ヨーロッパ第一主義』だけに捕われなくても良くなり、対日本の太平洋戦争・アジア戦線にアメリカの軍事力の大部分を投入してきます。枢軸国のドイツがヨーロッパ戦線で劣勢に立たされるようになり、アメリカの兵力をヨーロッパに分散させる役割を失ってきたため、日米戦争における短期決戦で日本がアメリカに勝てる可能性は一挙に無くなっていきます。

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1943年(昭和17年)2月のガダルカナル島撤退に続いて、アメリカ軍のソロモン諸島やニューギニアにおける猛反撃が始まり、日本軍は次第に太平洋島嶼部から後退させられていきますが、1943年5月には、対アメリカ・対ソ連を睨んでアリューシャン列島を守っていたアッツ島の日本軍守備隊が米軍に全滅させられました。1943年9月30日の御前会議では、『千島列島・小笠原諸島・マリアナ諸島・トラック諸島・ビルマ(援蒋ライン切断の拠点)』の防衛ラインを絶対に何が何でも守り抜く“絶対国防圏”として定義する戦争指導大綱が決定されました。

しかし、1944年1月にマーシャル諸島の防衛が出来ずに陥落させられ、それに続く6月のマリアナ海戦でも敗北を喫して、7月には太平洋島嶼部に向けていた約7万の将兵が全滅しました。1944年(昭和19年)3月には、東南アジアのビルマで援蒋ラインを遮断するために計画された無謀な『インパール作戦(インド北部インパールの攻略作戦)』牟田口廉也中将(むたぐち れんや,1888-1966)が指揮して、約7万人の死者をもたらす悲惨な結果となり、インパール作戦の挫折によって1944年6月に日本の絶対国防圏は崩壊、日本は絶望的な希望の見えない守勢の抗戦段階に入りました。

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