日本の敗戦:原爆投下とポツダム宣言受諾

本土空襲の激化、東京大空襲と窮乏する国民生活


広島・長崎の原爆投下とポツダム宣言受諾。無条件降伏の終戦へ

本土空襲の激化、東京大空襲と窮乏する国民生活

『沖縄戦・サイパン戦・フィリピン戦』の項目では、日本軍が米英を主体とする連合国軍に連戦連敗して、軍人にも民間人にも膨大な死者・犠牲者が出た苛烈な現実を書きましたが、連合国軍とソ連による日本の戦後処理については1945年2月の『ヤルタ会談』で既に大枠が決められていました。黒海に張り出したクリミア半島のヤルタ(現クリミア自治共和国)で、1945年(昭和20年)2月4日から2月11日までの一週間にわたり、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領、ソ連のヨシフ・スターリン書記長の三巨頭が会談を行いました。この第二次世界大戦後の世界秩序についてアメリカ、イギリス、ソ連の代表者が語り合った会談を『ヤルタ会談』といいます。

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ヨーロッパ戦線において連合国軍がナチスドイツに対する優位を固め、戦略的な都市部・軍事生産拠点への爆撃を本格化させ始めたのは1943年(昭和18年)の7月頃でしたが、日本もそれに先立つ1942年(昭和17年)4月18日に、ジミー・ドゥリットル中佐(1896-1993)が指揮する空母艦載機(爆撃機)のB25によって東京に初めての空襲(ドゥリットル空襲)を受けました。東京への初の本土空爆を受けて慌てた日本政府は、1943年12月に『都市疎開実施要綱』をまとめて、全国12の都市に空襲回避のための防空拠点(空き地)を準備します。1944年(昭和19年)3月に『学童疎開』がスタートして、4月には学童たちが親戚を頼って地方に移る縁故疎開が始まります。

1944年8月には、東京から近郊の地方都市・農村へ約20万人の学童が疎開していきましたが、1944年3月から1945年5月までに、“約337万人”が東京への空襲被害・集中攻撃を避けるために東京を脱出して地方の都市・農村へと疎開していったのです。本格的な空襲の始まりは、鉄鋼の軍需物資の生産拠点であった福岡県北九州市の八幡製鐵所(現新日鉄)が狙われた『北九州爆撃』であり、中国にある基地から多数の米軍機B29が飛んできました。

前述したように、1944年7月にはマリアナ諸島(サイパン島・グアム島)を米軍に奪われたので、同年11月にはサイパン島、グアム島、テニアン島から連日のように大量の爆弾を積載したB29がやって来て、日本本土を激しく爆撃するようになります。特に、米軍の戦略爆撃機“B29”が多数飛来してきて、クラスター焼夷弾(ナパーム弾の束)を大量に投下した1945年(昭和20年)3月10日の『東京大空襲』の被害は甚大であり、首都東京の大部分が焼け野原にされて約10万人以上もの一般市民が焼死・窒息死しました。その後も、多数のB29による戦略的なナパーム弾投下による空襲は激しさを増していきますが、政府と軍部はまともな防空対策を立てることもできず、『警防団・隣組・学校報国隊』などを動員して、B29に届くはずもない竹槍を持たせて警戒させ、火事が起こればバケツリレーで消し止めよという土台無理な『精神主義・玉砕戦法』をゴリ押しするばかりでした。

1945年5月25日には皇居(宮城)が空襲によって燃え上がり、5月29日には集中的な空襲で神奈川県横浜市が炎上して東京に続いて焼け野原にされてしまいました。6月に入ると更に米軍の空襲は苛烈さを極めて、日本の代表的な地方都市に対して無差別爆撃を延々と行うようになり、7月には制海権も掌握した米軍が海上から沿海都市に向けて艦砲射撃も行うようになります。一億玉砕までをも決意していたとされる国防意識の強かった日本国民も、『東京大空襲』の辺りでは日本の敗色が濃厚であることを意識せざるを得ず、『沖縄戦の敗戦』から『日本各地への空襲激化』が起こるようになってからは、過半の国民はもう日本軍に勝利の見込みがない事(本土で続く空襲を防ぐことすらできないこと)を自覚せざるを得なくなります。

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戦争に勝つか負けるか以前に、大半の国民の最低限の生活(経済・生存)自体が物資・食糧の著しい欠乏で破綻(餓死)すれすれまで追い込まれており、1941~1943年以降になるとそれまで戦争・軍の方針に黙って賛成していた庶民の中にも、声に出せない『厭戦気分・指導者層への不満』が高まってきました。1941年(昭和16年)からは統制経済による『米の配給制(通帳管理制による米の割当配給)』が始まりますが、最初に一人一日・二合三勺だった米の配給が、米不足になってくる翌1942年には白米ではなく雑穀(麦・トウモロコシ・サツマイモ・大豆カス・小麦粉など)を混ぜたお米に切り替えられていきます。

1943年には米の配給だけではなくて、ジャガイモ・サツマイモ・澱粉・小麦・大豆が代わりに配給されるようになり、米の配給量は日に日に減っていき、1945年の夏が近づくにつれて戦争被害も大きくなり殆ど食糧が配給されない地域も増えてきました。米以外の食品や調味料も1941年以後は全て配給制に切り替えられていき、表立った市場では自由に食品・調味料を購入することは出来なくなりました。1941年9月に肉・魚が、1942年1月に塩・味噌・醤油の調味料が、1943年に野菜が『配給制(割当通帳制)』となりますが、一般庶民が肉や魚を食べられることは極めて稀で、調味料の量も野菜の新鮮さも満足のいくものでは無くなっていきます。野菜は全て残さず食べるために、『イモ類の皮・ウリ類のヘタ・かぼちゃの種・キャベツの芯』などを使った質素倹約の調理法が雑誌で特集されたりもしました。

1944年1月には、配給の食品による1日の摂取カロリーは約1400キロカロリー以下にまで落ち込んでおり、配給だけにしか食事を頼れない庶民層は慢性的な栄養不足になっていき、小学生の平均体重も1937年以前と比べて1割程度も減少したといいます。食糧も物資も圧倒的に不足する中、公定価格よりも遥かに高い価格でモノが売り買いされる『闇取引(闇市)・闇経済』が増大していき、食糧をある程度確保していた地方農村部では農家に極めて有利な『物々交換(平時には高額な品物とわずかなお米・野菜との交換)』も行われました。戦争末期の『闇市』での取引価格は法外な高値でしたが、それでも食品や衣料、雑貨などを手に入れたい国民でごった返しており、1943年12月に公定価格の“6倍”だったお米は、終戦間近の困窮する1945年7月には“70倍”にまで高騰していました。

1940年の政府の国民経済に向けたスローガンは『贅沢は敵だ』、1942年は『欲しがりません、勝つまでは』だったが、国民生活が急速に貧困化して毎日の米・食事にも事欠くようになっていくと、国民の政府・軍部の統制に対する不満や先の見えない戦争に対する鬱憤が日増しに高まっていきました。物資欠乏の深刻化によって、一般庶民が食品・モノをほとんど買えないほどの“インフレーション(インフレ)”が進行して、衣料品も公定価格の39.5倍、砂糖は何と241倍にまで値上がりして、一般庶民が新しい衣服(古着も含め)や甘い砂糖を入手することはまず不可能になりました。一方で、軍幹部の家族や地方・村落の顔役たちは敗戦間近までそれなりの生活水準を保っており、『世の中は星(陸軍)に碇(海軍)に闇(商人)に顔(地方の顔役)、馬鹿者(庶民)のみが行列に立つ』という社会支配層・既得権益層を揶揄する流言が飛び交ったりもしました。

日本の戦争の旗色が悪くなり国民生活も窮乏を極めていく中で、官僚主義や軍部独裁、統制経済の物不足、闇で暴利を貪る商人などを批判する国民も出現し始め、連戦連勝を主張する大本営発表が虚偽だと非難したり、天皇を侮辱したりした国民が『誣告罪・造言蜚語罪・言論出版集会結社等臨時取締法違反・不敬罪』などで逮捕・収監されたりしました。

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広島・長崎の原爆投下とポツダム宣言受諾。無条件降伏の終戦へ

イギリスのウィンストン・チャーチル首相、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領、ソ連のヨシフ・スターリン書記長の三者会談である『ヤルタ会談(1945年2月4日~11日)』では、第二次世界大戦の勝敗が概ね明らかになってきた情勢を見て、ドイツの敗戦が確定した後のソ連の対日参戦が決定され、米ソが中心となって世界を分割する戦後体制について協議されました。ヤルタ会談では国際連合の設立や戦後の米ソの領土・利権の分割が話し合われており、『米ソが対立する冷戦構造(東西冷戦)』の始点になります。ヤルタ会談を始まりとする、第二次世界大戦後の米ソの世界分割体制(資本主義・共産主義のイデオロギー対立による東西冷戦構造)を『ヤルタ体制』と呼びます。

1945年1月には、ソ連軍がドイツの首都ベルリンに迫っており、ヨーロッパ戦線ではナチスドイツに対する連合軍(英米ソ)の勝利が確実視されてきましたが、ドイツを破った90日後に日本を打ち倒すためにソ連の対日参戦(日ソ中立条約の一方的破棄)の密約が為されました。独裁者スターリンが指導するソ連は、日本に対して宣戦布告する見返りとして、南サハリンと千島列島の領有、中国における日本利権(旅順・大連・満州鉄道)の継承を主張して英米に認められ、更に戦後の国際連合の設立やドイツの東西分割占領案を提案しました。集権的な政治・軍事体制と集産的な経済・生産活動で国力を急速に高めてきた共産主義国家のソ連はヤルタ会談を主導する勢いを示し、『ドイツの東西分割の占領・ドイツ領の一部のポーランド西部への編入・千島列島の領有』などを米英に認めさせました。

ヤルタ協定では、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4ヶ国によるドイツ分割統治とポーランドの国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国のソ連帰属の処遇などの戦後処理が決められ、戦後に創設する『国際連合』においてイギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5ヶ国(後の国際連合常任理事国)だけが世界秩序を形成する影響力としての『拒否権』を持つことが確認されました。

スターリン主導のソ連は、1940年のドイツとの独ソ不可侵条約締結時にバルト三国割譲を要求する秘密協定を求めており、第二次世界大戦の積極的なプレイヤーとして帝国主義的な野心を隠さなくなっていました。ヤルタ会談においては特に日本から取られていた『南サハリン』を取り戻して、更に千島列島を追加するという『領土拡張の野心』が対日参戦を強く後押しすることになります。『国後島・択捉島・歯舞諸島・色丹島』の北方領土が、ソ連に一方的に違法に占領されてしまうのは、ソ連の領土拡張を目的にした対日参戦の理由を考えれば、歴史の必然的な成り行き(戦争のどさくさに紛れてどの国も制止できないソ連優位な状況下での利権確保)だったと言えます。

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ヤルタ会談以前にも、1943年11月には日本と日中戦争を戦っていた中国の蒋介石を招いて、日本と対抗するための『米英中首脳会談』が開催されており、日本が領有する太平洋の南洋諸島を奪い、併合された朝鮮を独立させて、満州・台湾を中国に返還させ、更に無条件降伏にまで追い込むという『カイロ宣言』が出されています。ヤルタ会談前の1943年の米英ソの首脳会談では、ヨーロッパ戦線でフランス北部に英米軍が陣地を作り、ナチスドイツの本国に深く攻め込んでいくという『ノルマンディー上陸作戦(1944年6月)』の戦略が確認されていました。ソ連はヤルタ会談での合意に基づいて、1945年4月5日に『日ソ中立条約』の破棄を通告し、5月8日に総統のアドルフ・ヒトラーが自決したナチスドイツが降伏したため、ソ連はその90日後の7~8月頃に対日戦争に参戦することが決まりました。

アメリカのリーダーであったフランクリン・ルーズヴェルト大統領は1945年4月12日に突然死去しますが、その後を継いで大統領に昇格したのは強硬な反共主義者で副大統領だったハリー・S・トルーマン(1884-1972)でした。ハリー・S・トルーマン大統領は、日本への原子爆弾投下の命令書を承認してサインした大統領としても知られますが、現代の戦時国際法・人権感覚の基準であれば、非戦闘員の民間人を大量に殺害する原子爆弾投下は戦争犯罪ではないかという非難も根強くあります。

日本の広島・長崎に大量破壊兵器である原子爆弾を敢えて投下しなくても、日本が遠からずポツダム宣言を受諾して無条件降伏することは自明の見通しでしたが、アメリカのトルーマン大統領は『モンゴロイドの日本人が白人ではないこと(白人のゲルマン系のナチスドイツには原爆を落とさなかった)・原子爆弾の破壊力の実験的な確認をしたかったこと・ソ連に対して原爆の恐ろしさを見せつけたかったこと』などの理由で、敢えて原爆投下を断行したと考えられています。

しかし、原爆投下を不可避な必要悪だったとするアメリカの歴史教育・歴史解釈では、トルーマン大統領は米軍と(一億玉砕の徹底抗戦をする覚悟だった)日本人の被害を最小限度に留めて、戦争を早期に終結させた救国の英雄という扱いになっています。日本軍・日本人が米軍と絶望的な本土決戦に臨んでいたら、素直にあっさりと降伏していたとは思えず(劣勢になっても民間人を巻き込んだゲリラ的な抵抗闘争が繰り広げられた恐れもあり)、原爆以上の死傷者が出てアメリカ軍にも相当な被害が出ていたはずだというのがアメリカ側の見方でもあります。

総辞職した東條英機の後を継いだ小磯国昭首相は、1944年8月に大本営政府連絡会議を廃止して、首相・陸相・海相・外相・参謀総長・軍令部長からなる『最高戦争指導会議』を新設して、政府と軍部の意思疎通不全や対立構造を解消しようとしましたが、戦争状況が悪化するばかりで上手くいきませんでした。1945年3月30日には、翼賛政治会を解散させて、南次郎陸軍大将を総裁、松村謙三を幹事に据えた『大日本政治会』を設立して、政治指導体制の強化・刷新を図りますが、物資不足・戦略不在で敗戦の色合いが濃くなる中での政治改革などは、本質的な状況改善に何ら役立つものではありませんでした。南京の汪兆銘(おうちょうめい)政権を通じて、何とか蒋介石の国民政府との一時停戦ができないかと模索しましたが、汪兆銘自身が1944年11月に名古屋で客死してしまい、泥沼化した日中戦争の状況打開も不可能となりました。

米軍が沖縄上陸をした後の4月5日に小磯内閣は総辞職し、『悲愴な敗戦処理内閣』という性格が目立つ鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣が組閣されます。牛島満(うしじまみつる)と長勇(ちょういさむ)の司令官が自決して破れた沖縄戦の後、鈴木貫太郎首相は『一億玉砕の本土決戦』に備えるため、1945年6月23日に15~50歳の男子、17~40歳の女子を義勇兵とする『国民義勇隊』の創設をして一億総武装化で米軍を待ち受けようとします。

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1945年4月には、大本営陸軍部が米軍上陸に備えた抗戦マニュアルである『国民抗戦必携』を作成していましたが、これは狙撃・手榴弾・切り込み・戦車への肉弾攻撃など死ぬために突っ込んでいくような無謀な抵抗戦術を説いたもので、『本土決戦』とはイコール『一億総特攻・挺身斬込による集団自決(生き残って勝利する可能性はゼロ)』に他ならないものでした。1945年6月の一億玉砕を覚悟する『国民義勇隊』の創設は、翼賛体制の全体主義の究極の形態であり、この敗戦を回避できないであろう段階にまで至ると、『大政翼賛会・翼賛壮年団』も解散される運びとなりました。

1944年7月に南洋諸島の絶対国防圏が崩壊してからは、大本営はいずれ本土決戦に挑まなければならないと覚悟して、天皇と軍司令部を長野県松代市に移転させようとする『松代大本営計画』を立案し、1944年11月から実際にそのための工事に着工しました。地下トンネル施設である松代大本営建設は、沖縄戦敗北が決定した1945年6月から本格的な突貫工事が進められ、延べ300万人の労働者を動員し約2億円の巨額予算が投じられました。総延長は13キロで、面積は4万3千平方メートルにも上る巨大な地下施設だったが、西松組・鹿島組が請け負った過酷な現場労働には、日本人以外にも約7000人の朝鮮人労働者が劣悪な条件で従事させられたと言います。松代大本営設営の目的は、天皇と三種の神器によって成り立つ戦前の国体の護持であったが、終戦時にはこの『幻の大本営』は8割程度が既に出来上がっていました。

1945年(昭和20年)7月17日から、ベルリン郊外のポツダムで米英ソ三国首脳会談が開かれて、日本に対して即時の無条件降伏を要求する『ポツダム宣言』が合意されます。当初7月26日には、米英中の連名でポツダム宣言が発表され、8月8日には対日参戦の意思を明確にしたソ連もポツダム宣言に加わりました。ポツダム宣言は『言論・思想・宗教の自由,基本的人権の尊重』を掲げた宣言であり、反ファシズム宣言としての建前で日本を糾弾して降伏させようとするものでしたが、実際にはソ連や中国も『自由主義・人権尊重』に違背した大日本帝国と同じような非民主主義体制(軍事優先の独裁体制)ではありました。

ポツダム宣言には、以下のような内容が含まれていましたが、ポツダム宣言を速やかに受諾して無条件降伏をしない場合には、『日本国本土の完全なる破壊』を容赦なく実行するという威圧的な文面が書かれていました。

  1. 国際秩序を乱す世界征服を目指そうとしたファシズムの権力や勢力の排除
  2. 連合軍による日本占領
  3. 日本の持つ植民地と占領地の奪還・返却
  4. 日本軍の完全な武装解除
  5. 戦争犯罪人(戦犯)の裁判・処罰
  6. 軍事産業中心の経済構造の解体(財閥解体)

軍はポツダム宣言を拒否し、外務省は返答を渋りましたが、鈴木貫太郎内閣は軍と外務省の板挟みになって結局、ポツダム宣言に対して返答せずに黙殺してしまいます。この黙殺が連合国・米国から拒否(抗戦の意思)と解釈されて、米国のトルーマン大統領は『日本国本土の完全なる破壊』を実行するために、開発したばかりの原子爆弾(原爆)の実験的・非人道的な投下を決めました。1945年8月6日には広島に原爆が投下されて短期間に24万人以上の命が失われ、8月9日には長崎に投下されて12万2千人以上が死亡しました。爆心から半径2キロ以内の市街地は全壊・全焼し、半径1.2キロ以内では半数以上が死亡するほどの圧倒的な恐ろしい破壊力であり、人類が未だ保有したことのない核兵器の凄まじさ(米国の科学的な軍事力の大きさ)をソ連や世界に見せつける効果を示しました。

1942年9月からのマンハッタン計画で開発された原子爆弾(核兵器)は、1945年2月のポツダム会談の前日に完成したものであり、アメリカは自由民主主義・資本主義の価値観を同じくするイギリスには原爆の情報について伝えていましたが、戦後に激しく対立することが予想されたソ連には徹底した秘密主義を貫いていました。アメリカとイギリスによる『核兵器の独占』が当初は、東側・共産主義権のソ連に対する優位性を保証するものと期待されていたのですが、実際にはソ連も間もなく核実験に成功して、米ソは(余りに破壊力が大きいために相手からの報復攻撃を恐れて実際には使うことができない)核兵器をお互いに向け合って威嚇するだけの『冷たい戦争(冷戦)』に突入していきます。

ソ連は1945年8月8日にヤルタ会談の密約に従って日ソ中立条約を廃棄して対日参戦し、翌8月9日にはソ連軍は約150万の大兵力を擁して進軍を開始、南サハリン・中国東北部(満州)・朝鮮を次々と勢力圏に収めて占領していきました。満州国にいた約70万の『関東軍』は、移民団も含めた成年男子の根こそぎ動員で兵士数だけは揃えていましたが、士気と装備の近代化でソ連軍に大きく劣っており、正面衝突の戦いを回避するために南東部に引きこもっての持久戦(満州国の4分の3を実質的に放棄しての持久戦)を計画していました。

関東軍が一気に潮が引くように退却してしまったので、ソ連と満州の国境付近に残されたまともに武装もしていない移民団(民間人・開拓農民)は、関東軍の庇護を失って孤立した恰好になり、凶暴なソ連軍から強盗・強姦・虐殺・拘束(強制労働)の酷い仕打ちを受ける悲劇に見舞われました。満州に渡っていた開拓団の民間人(農民)は、戦争の理不尽な襲撃を真っ向から受ける形となりましたが、国境警備隊の任務に付いていた関東軍の兵士も降伏して捕虜にされ、『シベリア抑留』で厳寒の土地で過酷な強制労働に長期間にわたり従事させられる運命に陥りました。シベリア抑留で強制労働に従事させられたのは、満州・北朝鮮・サハリン・千島にいた軍人・軍属であり、ソ連軍の資料では63万9635人の日本軍捕虜のうち、54万6086人がシベリアに抑留されて6万2068人が寒冷な気候・病気・衰弱で死亡したとされています。

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鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言を即座に迷わず受諾していれば、原爆投下やソ連参戦による『徹底的な破壊・殺戮の悲劇』を回避できたか否かは分からない。ヤルタ会談で既に米英ソ中心の戦後処理や領土・利権配分の大枠が決められていたことを考えれば、原爆投下やソ連による蹂躙・シベリア抑留は、早い段階で無条件降伏をしていても何らかの言いがかりをつけられて避けることができなかったかもしれないからです。いずれにしてもアメリカの原爆投下とソ連の凶暴な大軍の参戦によって、日本は物資・食糧の欠乏に加えて国民の戦意・抵抗力を激しく打ち砕かれることになり、戦争継続能力を完全に喪失することになりました。

1945年(昭和20年)8月10日、最高戦争指導者会議で鈴木貫太郎首相は『天皇の聖断』の形式でポツダム宣言を受諾することを遅まきながらも決定、14日の『御前会議』で最終決定して連合国に無条件降伏を受け容れる旨を通達しました。戦後日本では8月15日が『終戦記念日』となっていますが、8月15日の正午に事前に録音された天皇陛下の肉声による『玉音放送(ぎょくおんほうそう)』が流され、国民に日米戦争の敗北と戦争が終わったことが伝えられました。9月2日に、東京湾に浮かぶアメリカ戦艦ミズーリ号の甲板上で、重光葵(しげみつまもる)政府全権(外務大臣)と梅津美治郎(うめづよしじろう)大本営全権(参謀総長)によって降伏文書に調印が為されました。この大日本帝国の降伏文書調印式では、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドが調印して日本の降伏が受け容れられました。

その戦争期間から『十五年戦争』とも呼ばれる『アジア太平洋戦争(大東亜戦争)』は、1931年9月18日の満州事変の衝突から始まり、1945年8月15日の玉音放送で日本国民に敗戦が伝えられたことで終わったのですが、余りにも多くの悲惨な犠牲・抑圧・窮迫を生み出したこの戦争と敗戦は、統制的な戦前の日本と自由主義的な戦後日本の切断線(民族的・歴史的なトラウマ)として、現代を生きる私たち日本人にも様々な思いを呼び覚ますものとして記憶されています。

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