犬養毅(1855-1932):言論の自由を貫徹した憲政の神様

清貧を凌いで学問に打ち込み言論人となった犬養毅

1855年(安政2年)に犬養毅(いぬかい・つよし, 1855-1932)は、備中国(庭瀬藩)の川入にあった大庄屋で、父・源左衛門(げんざえもん)と母・嵯峨(さが)の間に生まれました。犬養家は備中国(岡山県岡山市吉備町)では由緒正しい旧家であり、犬養毅は16歳で倉敷にある藩校・明倫館に入学し、その後西洋の先進的で合理的な学問に興味を抱くようになります。特に、犬養毅はイギリスから伝来してくる英語で書かれたテキストを熱心に読み、国際法(万国公法)や議会政治、国家主権などを解説する政治思想や法律学を真剣に学びたいと考えました。欧米の先進的な政治制度や市民生活に魅了された犬養毅は、東京に上京して当時最新の洋学(西洋の学術)を学びたいという意志を持ちます。明治維新によって経済情勢が混乱していた時代だったこともあり、犬養家には毅を上京・留学させるだけの財力が最早なかったのですが、母方の叔父や姉の旦那の実家、友人などから経済的援助を受けて毅は上京することになります(1875年)。

スポンサーリンク

しかし、親族や知人の善意と援助を受けて何とか上京できた毅には、東京で生活をし学校に通うだけの経済的原資がなく、残金も残りわずかとなって大きな不安と焦りに襲われることになります。学費の送金を約束してくれていたはずの姉の旦那の実家も浪費放蕩の末に財政破綻状態に陥ってしまい、犬養毅は実質的に一文無しに近い貧窮に追い込まれつつありました。そんな悲惨な状態にあった犬養を助けて学問への道を開いてくれたのが、備中国の知人・山口正邦(やまぐち・まさくに)であり、山口正邦が紹介してくれた『郵便報知新聞』の主筆・藤田茂吉(藤田鳴鶴)でした。藤田茂吉は、東京で英語と洋学を学びたいという犬養毅の為に学校を探して、学費と寮費が安くて英語が勉強できる本郷湯島の共慣義塾を紹介しました。共慣義塾の寮に入って極貧の中で英語を懸命に勉強しましたが、蜘蛛の巣や虫・やもりの多い学生寮に辟易してそこで食事として出されていた泥臭い「どじょう鍋」を後年まで嫌っていたそうです。

犬養毅の貧乏生活は更に深刻なものとなり、犬養毅は学費が払えないということでいったん共慣義塾を退学して、藤田茂吉の口利きによって『郵便報知新聞』の原稿書きの仕事を貰えるようになります。とりあえずの経済的な収入源を確保した犬養毅は、今度は福沢諭吉が開いていた慶應義塾に入学して英語を本格的に学びました。『郵便報知新聞』の原稿料は決して高いものではありませんでしたが、犬養は学生寮で寝る間を惜しんで英語の習得に刻苦勉励し、学費と寮費を稼ぐ為に新聞の原稿を書き続けたといいます。犬養毅は1877年(明治10年)に、西郷隆盛が決起した西南戦争の従軍記者を務めており、この時に書き上げたリアリズムの筆致が鋭い従軍記事が高く評価されました。しかし、西南戦争への従軍・取材と引き換えに慶應義塾の学費を支援すると約束していた郵便報知新聞が、その約束を破ったため、犬養毅は憤慨して郵便報知新聞の原稿執筆の仕事を辞めてしまいました。

犬養毅は、福沢諭吉(1835-1901)という明治時代の教育界・言論界の知的巨人を学問の師とする幸運に恵まれましたが、結局、慶應義塾を中退して財閥・三菱の経済支援を受けて『東海経済新報社』という新聞社を立ち上げることになります。犬養毅は、国政を民主的な議論と議会の決議によって動かそうとした政党政治家として歴史にその名を刻んでいますが、彼の社会人としてのスタートは、社会問題や国際情勢、政治情勢のファクト(事実)を国民一人一人に言葉で伝えようとするジャーナリスト(言論人)でした。

福沢諭吉の慶應義塾は、経済・法律・語学・会計・医学などの実学を学んで社会の利益増進に貢献することを目的としていたので、日本国を主導する有能な政治家を養成するために大隈重信が創立した東京専門学校(早稲田大学)と比較すると、慶應義塾には政治的な熱狂や意志が余り見られませんでした。東海経済新報社を設立した犬養毅も、初めの頃は藩閥政府を批判するような政治問題を余り取り扱わず、経済政策や貿易事情などの評論記事を多く執筆していました。政治に積極的に参加しようという意志がなかった言論人・犬養毅の人生を劇的に変えたのが、議会政治と立憲主義の必要性を主張する参議・大隈重信(1838-1922)との出会いでした。

スポンサーリンク

犬養毅の政党政治家への転身と大正デモクラシー

薩長出身の有力者が政権を独裁する藩閥政治に反対する動きが日本各地で起こり、明治政府に対抗心を燃やす不平士族たちは次々と内乱(佐賀の乱・西南戦争など)を起こして、強力な近代兵器と有効な兵站(ロジスティクス, 食糧や兵器の供給路)を準備した官軍の前に砕け散っていきました。明治政府において参議や陸軍大将という重要な官職を担っていた明治の元勲・西郷隆盛や江藤新平、前原一誠、板垣退助が次々と朝廷から任命された官職を捨てて郷里へと下野していきましたが、肥前(佐賀)出身の大隈重信だけは藩閥政治への不満や問題を感じながらも政権中枢に残り続けました。外交政策や経済財政政策の立案に抜群の才覚を持っていた大隈重信は、戊辰戦争に余り功績のなかった肥前国(佐賀藩)の出身でありながら政府の重要なポストを占めていました。

しかし、立憲主義者でもある大隈重信が抱いていた基本的な政治思想は、元老独裁の藩閥政治を批判するものであり、早期の国会開設(議会政治)や政党単位の政策論争による民主的な政党政治を求めるものでした。明治維新で大きな貢献をした薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)の出身者は、独裁的な藩閥政治を出来るだけ長く維持したいと考えていましたから、次第に立憲主義や議会政治に基づく民主主義政治を主張する大隈重信が目障りな存在になってきます。『東海経済新報』の新聞記事や社説を書いていた主幹・犬養毅の言論人としての能力と熱意を認めた大隈重信は、犬養に国会開設が成立した時に国会答弁を行う政府委員になってくれないかと要請します。新聞社の主幹を務める言論人への強いこだわりを持っていた犬養ですが、大隈の情熱的なアプローチと魅力的な人柄が効を奏して、犬養は新聞社主幹を務めながら政府委員になることを約束しました。

その後間もなく、薩長閥の政治腐敗(汚職事件)を隠蔽する為の明治十四年の政変(1881)が起こり、伊藤博文や西郷従道など政府の元老によって大隈重信は明治政府から追放されることになります。薩長閥の独裁や腐敗への世論の批判が強まる中、下野した大隈重信への関心と国会開設への支持が強まっていき、薩長閥は遂に1890年(明治23年)に国会を開設すると発表することになりました。国会開設を求める板垣退助らの自由民権運動が漸く(ようやく)実を結んだわけです。1881年には板垣退助の自由党が結成され、1882年には大隈重信の立憲改進党が結成されることで日本の政党政治の黎明が訪れましたが、大隈の立憲主義と議会政治の理想に兼ねてから共鳴していた犬養毅は立憲改進党に加わります。

犬養毅(犬養木堂)尾崎行雄(尾崎咢堂, 1858-1954)と並んで『憲政の神様』と呼ばれることがありますが、『大隈重信門下の三傑』といえば犬養毅・尾崎行雄・島田三郎のことを指します。日本初の政党内閣となった隈板内閣(1898)において尾崎行雄は文部大臣に任命されますが、『君主制を批判する意味合いを持つ共和制発言』をして失脚します。辞職した尾崎行雄の文部大臣のポストを、犬養毅が継ぎました。『憲政』とは端的には、強大な国家権力を憲法で束縛する立憲主義に基づく政治という意味であり、独裁的な藩閥政治を否定して国民主権の議会政治を行うことも含まれます。また、犬養毅(犬養木堂)は明治~大正期の最高の書道の達人(筆聖)としても有名であり、明治時代の政治家で書道の大家として知られる副島種臣や後藤象二郎よりも圧倒的に優れた優美かつ精細な書を書いていたとされます。

楽天AD

立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅は憲政擁護会を結成して、議会主導の民主政治を主張する大正デモクラシーの護憲運動を牽引したために「憲政の神様」と呼ばれているわけです。藩閥の桂太郎内閣に、犬養と尾崎が不信任案を突きつけた1913年の第一次憲政擁護運動を皮切りにして、国会における政党政治を肯定する民主主義思想が拡大する大正デモクラシーの運動が起こりました。その後、普通選挙の実施と政党内閣制の一般化を求める第二次憲政擁護運動(1924)が起こり、貴族院議員のみで組閣された超然内閣(議会・選挙・政党と無関係に組閣する内閣)である清浦奎吾内閣を打倒しようとする政治運動へと発展したが、第一次と比べると第二次の護憲運動は小規模なものに止まりました。

立憲主義者であり平和主義者でもあった犬養毅(犬養木堂)は、1882年、結党間もない立憲改進党の演説会で、「政略上の対立的な外交(圧力外交)」を辞めて「経済上の相互的な外交(通商貿易・対話外交)」を盛んにすべきだという平和主義路線の外交政策を論じ、『万国公法(国際法)』のルールを一歩先に行く理性的な啓蒙性を発揮しました。国際政治や国際法の分野で博識だった犬養毅は、クリミア戦争後のパリ会議(1856)などの国際平和会議(中立条約)を例に出しながら、日本も緩やかに領土拡張を目指す覇権主義から相互繁栄を目指す平和主義(経済優位の外交)に移行しなければならないと語りました。

明治から大正の時代において、犬養毅ほど明確に戦争反対と経済振興(貿易振興)、相互共存を主張した政治家はおらず、大アジア主義の思想を持って辛亥革命(1911)を主導した孫文(1866-1925)とも交流があり、中国大陸侵略の端緒となる満州事変にも強い不快と懸念を示しました(そのことが5.15事件の犬養暗殺につながったと言われます)。犬養は、中華民国を建設する近代化革命を成功させた孫文だけでなく、アメリカからの独立を模索するフィリピンのアギナルド大統領などとも交際があり、基本的に、帝国主義的な支配からの民族独立を目指すアジア諸国に強いシンパシーを感じていました。

明治時代に生きた政治家・犬養毅は、現代民主主義においても欠かすことが出来ない自由主義と立憲主義を支持しており、戦争をしてはいけない理由として、徴兵で『国民の自由』を拘束し秘密政治で『国民の知る権利』を奪うからであると明確に述べていますが、弱肉強食の帝国主義外交が当たり前だったこの時代に、国民個々人の自由と権利の尊重を考えていた政治家はまずいなかったと言ってよいでしょう。『東海経済新報』の主幹を務める言論人(ジャーナリスト)としての犬養毅は、20代の青年期に世話になった『郵便報知新聞』の藤田茂吉と共同戦線を張りながら、政党の政策論争を基軸とする議会政治(政党政治)の必要性を世に訴えていました。

しかし、藩閥政府を支持する御用新聞であった『東京日日新聞』『東洋新聞』『明治日報』との政党政治(議会主義)や言論の自由を巡る論争が激しくなります。遂には、薩長主体の明治政府は「治安維持」を表面的な大義名分に掲げながら、「新聞紙条例」や「集会条例」を改悪して言論の自由や集会結社の自由を弾圧・制限するようになります。新聞紙条例改正により政府の検閲が強化され、集会条例改正によって集会結社の自由が大幅に制限されたので、政党政治思想や自由主義思想を大々的に普及させようとする言論活動は厳しく規制されました。

政府の言論弾圧が厳しさを増す1884年には、自由党は福島事件・加波山事件・秩父事件など反政府的な激化事件(暴力的な政治クーデター)が相次いで解散し、自由党と同じ暴力的な結社であるという偏見を持たれた立憲改進党も次第に政党としての存在感や影響力を落としていきます。国会開設と政党政治の発展を目指した自由民権運動はここでいったん頓挫することになり、1887年には集会結社の自由を抑圧する「保安条例」が出されて実質的に政党政治は機能不全に陥ります。言論人としての犬養毅は、『郵便報知新聞』から『朝野新聞』へと移り、『民報』という雑誌を創刊して議会政治や立憲主義を主張する言論活動を継続しますが、政府によって『民報』が発行停止処分にされると、犬養毅は言論人としてのキャリアを捨てて純粋に政治家として生きることを決意します。

楽天AD

国会開設と衆議院議員選挙を経て政治家となった犬養毅

日本では1889年に大日本帝国憲法が公布され、1890年に初めての国会である帝国議会が開かれます。1890年(明治23年)7月1日に第一回衆議院議員選挙が行われ、その制限選挙に立候補した犬養毅は対立候補に圧倒的大差をつけて当選しました。この時の選挙は制限選挙であり、女性に選挙権が与えられておらず、直接国税15円以上を納付している満25歳以上の男子だけに選挙権が限定されていました。

犬養毅は男女平等の普通選挙までは主張しませんでしたが、納税額と無関係に全ての男子に選挙権を与える普通選挙には強い関心を抱いていて、山本権兵衛内閣(1923)で逓信大臣(郵政大臣)を務めていた時には選挙改革を推し進めたかったようです。犬養が逓信大臣だった時期にちょうど、関東大震災の大きな被害が襲い掛かりましたが、犬養は的確かつ迅速な判断で被災後の東京の郵便・通信インフラの復旧を成し遂げ、被災した国民に対する人道的な政策支援を行いました。

逓信大臣としての犬養は公益法人としてのNHK(日本放送協会)を創設したことで、『日本放送の父』としての顔も持っています。犬養毅は最晩年に内閣総理大臣の地位を拝命しましたが、基本的に官職や位階への野心が余りなく、特定の団体と結びついた利権政治や政権だけを目指す党利党略を嫌いました。国民の利益や世論の訴えに真摯に耳を傾け、政党単位で将来の国益と国民の福祉を追求するというのが犬養毅の描いた政党政治のビジョンだったのです。1925年(大正14年)に、加藤高明内閣で成立した「普通選挙法」は、犬養毅の原案を下敷きにしたものですが、貧困層を糾合する社会主義勢力の台頭や急速な藩閥政治の終焉を恐れた政府は同時に、言論の自由と集会結社の自由を大幅に制限する「治安維持法」を制定しました。

犬養毅は、「立候補者の政策論争・人格吟味・政治思想」を踏まえた有権者の投票によって、政党政治と議院内閣制はより成熟したものになるので、有権者である国民は政治や社会に対する勉強を怠らずに「人気(知名度)・利権(賄賂的優遇)・ムード(社会の大勢)」に流されて投票することがないようにしなければならないと主張しました。1930年(昭和5年)には、ニューヨークのウォール街の株価暴落から始まった世界恐慌(1929)の煽りを日本も受けて昭和恐慌が起こりますが、街中には失業者と破産者が溢れるようになり、農村では子女の人身売買が横行する悲惨な事態となってしまいました。

楽天AD

言論の自由を唱え、5.15事件の凶弾に倒れた犬養毅首相

昭和恐慌(1930)によって、日本経済は慢性的な不況と金融不安(銀行への取り付け騒ぎ増加)に陥り、中小企業は相次いで倒産して街中には失業者と倒産者が数多く出回って治安が悪化しました。株式市場と商品市場の暴落によるデフレが深刻化した昭和恐慌の時に政権を担当したのが立憲民政党の浜口雄幸内閣でしたが、浜口雄幸は、ロンドン海軍軍縮条約調印に伴う統帥権干犯問題で国粋主義者に狙撃され総辞職することになりました。浜口雄幸の後を継いだのが若槻礼次郎内閣でしたが、文民統制(シビリアン・コントロール)によって軍部(中国北部駐屯の関東軍)を制御できず、満州国建国(傀儡政権樹立)へとつながる満州事変を悪化させた若槻首相は総辞職します(1931年12月)。

1931年(昭和6年)9月に満州事変の発端となる柳条湖事件を起こした関東軍は、日本政府(内閣)の指示を無視して暴走を始め「自衛戦争」の大義を立てて次々と中国各地を占領していきます。日本陸軍(関東軍)は清王朝最後の皇帝(ラストエンペラー)であった宣統帝(愛新覚羅溥儀)を擁立して、関東軍の思い通りになる傀儡国家である「満州国」の建国を宣言しました(1932年3月1日)。

この関東軍による満州国建設は、欧米列強をはじめとする国際社会から厳しい批判を浴びることになり、1932年3月には国際連盟からヴィクター・リットン卿を団長とするリットン調査団が満州を訪れ、リットン報告書を作成しました。1933年の2月24日に、満州国の政治状況を調査したリットン報告書を踏まえた勧告案が提出され、「満州国における日本の権益は不当である」と主張する勧告案が国際連盟特別総会において賛成多数で可決されました。1933年3月にそれを不服とした松岡洋右外相は国際連盟を脱退することを宣言し、その後、日本は英米を中軸とする国際社会からの孤立の度合いを深め、帝国主義的な侵略戦争へと傾斜していきます。

立憲民政党の若槻礼次郎内閣が総辞職した後に、立憲政友会の総裁であった犬養毅が77歳という高齢で内閣総理大臣に指名されることになりました。犬養毅が内閣総理大臣に就任した1931年(昭和6年12月12日)は、「昭和恐慌による日本経済のデフレ不況」と「中国大陸において関東軍が独走した満州事変の事後処理」という難しい内憂外患を抱えた時期でした。総理大臣を拝命した政治家としては、正に腕の見せどころという政治の混迷と危機の時代ですが、犬養が一つ判断を間違えれば日本の国運を危うくするという極めて危険な状況でもありました。首相となった犬養毅は、「満州事変の適切な事後処理と国際社会での信認の回復・日本陸軍に対する文民統制・金輸出の禁止による為替の安定化(景気対策)」という「3つの政策」を掲げて、日本を国際的孤立や経済的危機から救おうとしました。

犬養毅は満州事変に対して明確に反対の姿勢を示し、国民世論の満州事変に対する賛否を明確に問うために解散総選挙(1932年2月)を断行することにしました。つまり、犬養は自分一人で強大な軍部に対抗することは無理でも国民の総意をもって「満州事変(満州国建設)の中止」を訴えれば、如何に文民統制を無視する関東軍でも日本政府(犬養内閣)の指示に従わざるを得ないと考えたのです。謂わば、この犬養内閣の満州事変の中止を求める訴えが、日中戦争や太平洋戦争といった第二次世界大戦(アジア・太平洋戦争)を回避する極めて重要なターニング・ポイントとなっていたのです。しかし、現実の日本国では犬養毅の予想を越えて、独裁的な軍国主義や全体主義の病根が根深く政治に浸透しつつあり、総選挙で立憲政友会を従えて圧倒的勝利を果たした犬養毅は、反軍部的な政治改革を焦り過ぎたことにより国家主義者の青年将校に暗殺されることになります。

議会制民主主義の正常な機能を担保するのは「言論・思想・表現の自由」「集会結社の自由」であり、犬養毅は死の間際まで言論の自由に基づく政党政治と民主主義(議会政治)の力を信じ続けました。犬養毅は「政治の本質は暴力(テロ)や恐喝(威圧)であるべきではない」ことを生命を持って訴え、「民主主義政治は、言論の自由と議会政治(政党内閣)を通して初めて実現できる」ことを生涯を通して主張し続けました。近代国家の高い教養と常識を備えた国民は、自分が気に入らないことがあるからといって感情的に殴ったり殺したりしてはいけない、理性的に話し合ってお互いの妥協点を模索するのが近代国家における民主主義政治だというわけです。しかし、「話せば分かる」を信条として政党政治家の人生を生き抜き多数の国民の支持を得ていた犬養毅も、緊迫する国際情勢と台頭する全体主義・軍国主義の狂気の前では為す術もありませんでした。

1932年(昭和7年)5月15日夕刻に、犬養首相がくつろぐ首相官邸に乱入した大日本帝国海軍急進派の青年将校(三上卓・海軍中尉,黒岩勇・予備少尉, 後藤映範・士官候補生ら)によって、犬養毅は暗殺されました(5.15事件)。5.15事件による犬養毅の死は政党単位の政策論争を重視する政党政治の衰退を意味しており、その後、軍部の政治に対する発言力が強まり軍部にひきずられる形で対外的な強硬政策を日本は推し進めていくことになりました。犬養毅は5.15事件で銃撃を受けた後も「今の若造を連れて来い。俺が話をしてやるから」という強気の発言を残し、死ぬその瞬間まで「人間を変える言論の力」「暴力に対する理性の優位」を信じ続けた政治家でした。

スポンサーリンク
Copyright(C) 2004- Es Discovery All Rights Reserved